嫌いなもの
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 いまだ起き上がらない俺を見かねたのか、ミサキは小さな子供をあやすみたいに頭を撫でてくる。その感触にちらりと視線を持ち上げれば、くしゃくしゃになるほど髪を撫で回された。

「もう、ミサキちゃん。なにしてくれちゃってんの」

「うふふ。そういえば、今の仕事はどうなの?」

 漂う空気の重たさを払拭するようなミサキの快活な声や笑みにつられ、不思議と俺の肩の力も抜ける。

「んー、それがさぁ。全然面白くないんだよねぇ」

 カウンターに伏せた身体を持ち上げながら、俺は彼女の調子に合わせ不満げに口を尖らせると、大げさなほど苦笑いを浮かべて見せる。

「今までとはやっぱり違うんだ?」

「なんか、萎える。……本気で写真、辞めたくなった」

 興味津々なミサキの視線にため息をつきながら、グラスの氷を俺は指先で回した。

「そうじゃなくても人間なんか撮っても楽しくないのに、よりによって被写体が一ミリも興味が湧かない女とか拷問じゃない?」

「結構有名な子でしょ、可愛くないのぉ」

「可愛くないっ。寄られるだけで鳥肌が立つんだけど」

 元々、女特有の甘ったるい匂いや香水の匂いが嫌いな俺にとっては、それと一緒にいろと言われるだけでも嫌がらせに等しいのに。

「ふぅん、まあ渉ちゃんは黙っていれば綺麗な顔してるし、女の子はほっとかないわよねぇ」

「ほっといて! 俺はバッチリくっきりした顔よりナチュラルな感じが好きなの。ちょっと天然で笑顔が可愛ければ尚更いい。揺れる乳なんて論外だ」

 思い出すだけで背筋が寒くなる。更にむせ返る匂いを思い出せば胸焼けがした。普段は出版社や企画の人間としか会うことはなく、担当は男限定にしてもらっている。しかし外部の仕事は余計な物がウロウロしてくるので堪らない。

「渉ちゃんって生粋のゲイって言うより、女嫌いでゲイになった感じよね。それにしても、そんなに嫌なのになんで引き受けたのよ。その仕事」

「だって戸塚さんがどうしてもって言うから」

「……ああ、ものすごい好みだって言ってた担当さん? 自業自得じゃない」

 急に緩んだ俺の顔を見て、ミサキは呆れ返ったように大きなため息を吐き出した。

「渉ちゃんって自分とは真逆っていうか、全然違うタイプの顔が好きなのよね。コンプレックスなの?」

「嫌いなの、すぐ見た目だけで女扱いされるし」

 彼女の言うように俺はかなり自分の容姿にコンプレックスがある。半分が外国産の為、初見の人間には英語で挨拶をされることが九割だ。母親の血が濃いのか、顔立ちも然ることながら肩先まで伸びた髪は金茶色で、瞳の色は混じりっ気のないエメラルド。そして一度も日に焼けたことのない肌はもやしかと思うほど白い。
 相手を探せば殆どが人の上に乗ろうとする。

「でも渉ちゃん見かけによらず男らしいから、最近じゃそんなお馬鹿なことする男も減ったでしょ」

「見かけによらずって一言多いんだけど」

「渉ちゃんが返り討ちにした子たちが、そっちに目覚めちゃったって話はよく聞くわよぉ」

 肩をすくめたミサキに口を尖らせると、可愛いと笑われた。

「ミサキちゃんは俺のこといっつも子供扱いだよなぁ」

「だって可愛いんだもの。母性本能くすぐられてきゅんきゅんしちゃう」

「しなくて良いよ」

 きゃっきゃっとしながら俺の頭を撫でるミサキに顔をしかめれば、更に可愛いと連呼して彼女は頬を撫で始める。こんな息子が欲しいと笑うミサキに思わず乾いた笑いをしてしまった。

「ん、あら。いらっしゃい」

 からんと音を立てた扉にミサキの手が止まり、にやけた顔が営業スマイルに変わった。躊躇いなく踏み出す靴音は常連だろうか。その足音の主はこちらから数席離れたカウンターの隅に腰掛けた。

「いつもので良いの?」

 おしぼりを差し出しながらミサキがカウンターの男に問えば、その男は頷き小さくそれに答える。
 あまり見ない顔だが最近の客だろうか。ここからその顔をはっきりと見るには些か遠い。けれど煙草を銜えた横顔はまだ若い印象で二十代半ばか、もしかしたらそれより若い。しかし顔にかかる長い前髪が窺い見ようとする顔立ちを遮り、それ以上わからなかった。

「最近の客?」

 カウンターの中で動き回るミサキに小声で話しかけると、彼女は一瞬きょとんとした顔でこちらを見た。

「あ、渉ちゃん初めて? ここ最近、んー、二ヶ月前くらいから来てるわよ彼」

「へぇ、そうなんだ。じゃあ丁度俺が日本離れてた頃か」

「そういえばそうだったわね。撮影旅行で行ったり来たりでいなかったのよね。紹介しましょうか? なかなかいい男よ」

 意味深に笑うミサキに小さく唸ってから、俺は首を左右に振った。

「いい、若そうだし」

「渉ちゃんだってまだ若いでしょ」

「若くないよ。俺はミサキちゃんの設定より一個上だから、もうおじさんだもん」

「設定じゃないわよぅ」

 そう言って片眉を上げたミサキに笑ってグラスを口に運ぶと、ふいに視界の隅で視線を感じた。反射的にその先を振り向くが、こちらを見る視線はもうそこにはなかった。

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