帰り道
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 毎日通り過ぎている駅でも利用したことがなければそこは全く見慣れない場所であり、全く使い慣れない場所だ。そして人間、そんな慣れないことはするべきではないと思った。本来の出口とは別の改札を抜けてしまい、俺は薄暗い線路脇の道を見つめながら肩をすくめた。
 反対側の閑静な住宅街とは異なり、こちら側は店が連なる商店街。夜間営業をしている店がないので、終電間近の駅前は殆ど明かりが灯っていなかった。引き返しても良かったが、いつものバーへ寄るならばこちらの方が近い。

「ただいま電話に出ることが……」

 のらりくらりと細い道を歩きながら、聞こえてきた無機質なアナウンスに小さく舌打ちをして、俺は通話を切断した。

「使えない」

 しかし真っ暗になった画面を見下ろして携帯電話を閉じようとした途端、手元が明るくなり着信を告げるメロディーが流れた。
 ディスプレイの名前に一瞬だけ躊躇するが、俺はゆっくりと通話ボタンを押した。

「ただいま電話に出られません」

「ちょ、ちょっと待った。すいません。今、たった今打ち合わせが終わって」

 わざとらしく平坦な声で電話に出れば、その向こうからひどく上擦った声が聞こえてきた。

「渉さん、今どこっすか」

 階段を駆け下りる音。自然と上がる瀬名の息に耳を澄ましていると、ふいに足音が止んだ。

「なにかあった?」

 ひどく心配げな声。なぜこの男に電話なんて掛けてしまったのだろう。

「別に……慣れない電車に乗ったら出る改札間違えた。仕方ないから少し遠回りして家に帰るつもりだった、けど。このあいだの店に今すぐ直行しろ」

「え? 渉さん? なに、なにがあったんすか。ちょっ」

 慌てふためく声を無視して終話ボタンを押せば、耳に届いていた音がすべてかき消える。そして手元の明かりが消えると、なぜかため息が漏れた。

「……なんだろ、疲れた」

 急に脱力感に襲われてそのまましゃがみ込むと、俺は膝を抱えて頭をそこに乗せた。気が抜けたせいだろうか。今頃になって手が震える。身体に力が入らなくて、すごく重たくて怠い。頭が痛い。
 身体の不快感にますます力が抜けるが、いつまでもこうしている訳にはいかない。しかし額を膝に擦り付け、気合いを入れようと思えば思うほど小さな唸り声しか出なかった。

「はあ、とりあえず歩くか」

 背後から聞こえてくる足音と話し声に、俺は渋々膝に手を掛けて立ち上がる。しかし急に立ち上がったせいか、横を通り過ぎるカップルが揃って肩を跳ね上げた。
 酔っ払いかなにかと思われただろうか。

「まあ、似たようなもんか。……ん?」

 カップルの後ろ姿を眺めながらため息交じりに肩をすくめると、ふいに手元で携帯電話が鳴った。

「……はい」

 てっきり一方的に電話を切った瀬名かと思ったが、向こう側から賑やかな音と声が聞こえてきた。

「もーしもーし、渉くんっ。オレオレ。俺でーす」

「オレオレ詐欺は遠慮する」

「なんだよぉ、渉くんちょっとつれないじゃーん」

 聞き覚えのある声に、思わず携帯電話を耳から遠ざけた。しかしディスプレイに表示されているのは――。

「ごめん、月島くん。いきなりでびっくりしたでしょ。久米くん達だいぶ酔っ払ってて」

「ん、大丈夫。どうしたの戸塚さん」

 電話の持ち主が珍しく慌てた声を出している。恐らく掛ける途中で携帯電話を奪われたのだろう。その様子が想像できてしまいつい笑ってしまった。

「月島くん?」

「ううん、なんでもない。どしたの? 俺、三次会は行かないよ」

「あ、そうじゃなくて。月島くん鍵を落としてない?」

「鍵?」

 戸塚の言葉に首を傾げ、空いた手で後ろポケットを探る。チェーンで繋がっているはずのそれを引っ張るが、そこにあるべきものがなかった。
 金具が緩んだのだろうか。小さな輪があるだけで、その先が見当たらない。よくよく見ればその輪の繋ぎ目が少し開いていた。

「ええと、鍵は家と車かな? 一緒に赤い石が付いたシルバーのネームタグと」

「あー、それ多分、俺のかな?」

 なにかを読み上げている戸塚の声に耳を傾けて、それを思い描けば自分のものと一致するような気がした。

「やっぱり? 良かった。これからさっきのお店に取りに行くからね。あ、鍵がないと家に入れない、よね」

「ああ、今度で良いよ。車は使わないし。マンションにはコンシェルジュがいるからスペア借りれるはず」

「あ、そうなんだ」

 毎日ほぼ決まった顔ぶれがいるので、鍵がなくとも問題はないだろう。大体彼にわざわざここまで来てもらうのは申し訳ない。
 それに今はあんな電話を瀬名にして置きながら、待つことが正直怠い気がした。

「んー、だからよろしくね。週明けにでも戸塚さんのところに取りに行くよ」

「わかった。じゃあ、今日はお疲れ様」

「うん、お疲れぇ」

 いまだに後ろで喚いている久米らの声を無視して通話を切ると、ざわめいていた音や声がなくなり急にしんとなった。ふいに薄暗さと静けさが辺りに押し寄せた。

「んー、人通り少ないし、暗過ぎなんだよなぁこの道」

 時折すれ違う人達は皆、少し足早だった。道の先が薄暗さでぼんやりとしているせいか、やけにその不安感を煽る。

「俺でも良い気がしないくらいだから、女の人だったら余計に怖いよねぇ。ほんとこの辺りってずさん」

 駅寄り、ここから少し手前に交番があるけれど、大きな通りへ出るまで距離が随分ある。引ったくり注意や痴漢注意の看板を出す前に、もっと街灯を増やすべきだと思う。とはいえ反対側の出口よりも通りに出るには近道だ。
 しかしそんな人気のない場所で急に肩を叩かれると、やはり嫌でも身体が跳ね上がる。

「すいません」

「……」

 こちらを呼び止める声に恐る恐る振り返れば、すぐ後ろに青年が一人じっとこちらを見つめ立っていた。薄暗さに目を細めるが、その顔に見覚えはない気がする。

「なにか?」

「……これ、落としませんでしたか」

「え?」

 真っ直ぐと俺へと向けられた彼の手には、ほんの少し前に確認を求められたばかりの鍵があった。目の前にぶら下がったそれに目を見開き、もう一度彼の顔を確認する。
 暗がりでもわかる程に明るい茶色の髪は肩先まで伸び、こちらを見る目は少し鋭く、やけにはっきりとした赤茶色。けれどその容姿にやはり覚えがない。

「……君、誰?」

 あからさまに眉をひそめた俺に目を細め、彼はゆるりと口の端を上げて笑った。

「覚えてないの?」

 その笑みにひどく嫌な予感がした。けれど咄嗟に鍵を奪い取ろうとしてしまった俺は、その手を掴まれた。

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