救世主
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 裏路地から通りへ顔を出せば、道端で音を響かせていた携帯電話の着信が止んだ。しかしその音とは別の方向から、俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。

「渉さんっ」

 忙しない足音に振り向けば、酷く慌てた様子で瀬名がこちらへ向かって来た。けれど俺は後ろから伸びた腕に裏路地へ引き戻される。

「いい加減、離せ」

「本当に邪魔だ、あいつ」

 耳元で聞こえる苛立った声と舌打ちに息が詰まった。けれど目の前に現れた瀬名に狼狽したのか男の手が緩む。その隙に腕を伸ばせば瀬名がそれを掴み引き寄せた。

「この前の店に行ったらまだ来てないって言うから、焦った」

「遅い」

 息を切らせている瀬名に眉をひそめれば、更に強く抱き寄せられる。

「城川、お前……いい加減にしろよ」

「は?」

 瀬名の口から出た名前に思わず男を振り返ってしまった。
 けれどいくらじっと見つめ、確認しようとも。頭を撫でただけで腰を抜かしてしまう神経のか細い城川と、目の前にいる男はまるきり正反対だ。

「なに、どういうこと?」

「ウィッグとカラコン。随分前から知ってたんですけど。こいつ元々大人しいし、そういう気分転換ありかと思って放っておいてた……のが間違いだった」

 俺の肩を抱いた瀬名の手に力がこもる。その強さに眉をひそめ見上げれば、男を――城川を見る瀬名の目に怒気が含まれ、かなり苛立っているのがわかった。

「渉さんを好きなのはわかるけどな。お前がやってんの犯罪だからな。次やったらマジ殺す」

 わかりはしたが――。

「君が犯罪者になってどうすんのさ」

「これでもかなり我慢してんですよ。あんたが、こいつにホテルに連れ込まれた時……本気で殺してやろうかと思った」

「ん? なに、あの日俺って連れ込まれたの?」

 朝起きた時、確かに記憶は全くなかったけれど、ことがなされた覚えも我が身にはなかった。想定外の展開に目を丸くして瀬名を見つめると、彼は苦々しい表情を浮かべる。

「フロントにいた奴に、無理やり部屋の中、入って貰ったんですよ」

「ああ、篤武ね。そっか、それであの朝な訳だ」

 あの日、瀬名が怖い顔をしていた理由はこれだったのか。

「そっかじゃないっすよ。なにを暢気に納得なんかしてんですか。俺がこいつの様子おかしいのに気づかなかったら、どうなってたかわかんないんすよ。渉さん自分の置かれてる状況わかってんの?」

「まあ、それなりに」

 言葉を捲くし立てる瀬名に肩をすくめると、あ然とした表情を浮かべられて盛大なため息を吐かれた。

「それなりって……ったく、城川も、わかってんだろうな」

「……さい」

 目の前でじっとこちらを睨むように見ていた城川が、ぼそりと何事かを呟く。

「あ?」

 そしてその小さな声に瀬名は訝しげに首を傾げた。しかしその仕草が気に入らなかったのだろう、城川はますます瀬名を睨みつける。

「煩い! 煩いんだよ。邪魔だ、お前邪魔なんだよ」

「……」

「お前さえいなかったらっ」

 城川の反論は予想外だったのだろうか。瀬名は少し驚いた顔を見せる。けれど不穏な城川の言葉に眉が不愉快そうにひそめられた。

「俺が? いなかったらなんだって」

 荒らげた城川の声に瀬名がゆっくりと目を細め、それと同時に俺は身体を彼の後ろへ追いやられた。

「急に横から入って邪魔ばっかりして、渉は俺のなんだ。あの日だって、渉は嫌がってなかったんだ。お前は邪魔者なんだよっ、消えろよ」

 急に喚き散らす城川に、思わず俺は眉をひそめた。

「記憶がないのに嫌がってないとか言われてもねぇ」

 しかし確かに聞き捨てならない言葉が聞こえはしたが、自分よりも遥かに憤怒を感じさせる背中を目の前で見てしまうと、それ以上口を開く気にはならなかった。

「……いつから、お前のだ?」

 一段と低くなった瀬名の声に城川の肩が跳ねる。

「てめぇ、寝言は寝てから言えよ。妄想と現実、取り違えてんじゃねぇぞ」

 更に瀬名がヤクザ顔負けの迫力で彼の胸元を鷲掴めば、身体が跳び上がり今度はサァッと顔が蒼くなった。

「……」

「おい、まだ文句あんならなんか言えよ。ただし、もういっぺん同じこと言ったらマジ殺す」

 パクパクと魚のように口を動かす城川は、瀬名に掴まれ半ば身体が浮き上がっている。まるで闇金の取り立て現場に居合わせたような気分だ。

「今にも人殺しそうな顔で言わないでくれる。声デカいし」

 全く、近頃の瀬名は人の中でどんどん印象を変えていく。人の良い好青年はどこへ消えた。

「なんにもなかったし、良いんじゃないの、もう」

「そんな格好で諭されても、全然納得いかないんすけど」

「ああ、そう」

 確かに着ているシャツのボタンは幾つか弾け飛びなくなっているし、シャツ自体も擦り切れて汚れている部分もある。全く何もなかったとは言い難い格好だが、もう喉元過ぎればなんとやらだ。

「とりあえず、次はないと思えよ城川」

 瀬名の気迫に圧されたのか、城川の目が怯む。そして瀬名が乱雑に彼の長い髪を掴んで引くと、急に鋭い視線も覇気をなくしてしまった。ずるりと引き落とされたそこに見慣れた黒髪が現れ、やっといつもの城川の姿を垣間見られた。