《閑話》今日も明日もその先も

変わらない朝

 何年も一緒に暮らしていると、いつの間に当たり前に感じ始める事柄が増える。
 目覚めたときに「おはよう」と言って髪を撫でてくれる仕草や、頬や額に落とされるキス。

 ふっと眠りから意識が浮上して、無意識に隣へ手を伸ばしたら冷たいシーツに触れた。
 予想と違う感触になんとなく物足りなさを感じたが、もぞもぞと体を起こしてヘッドボードの棚から眼鏡を取ると、あくびを噛みしめつつ伸びをする。

 寝癖がついていそうな髪を無造作に掻きながらも部屋の扉を開けば、陽気な鼻歌が聞こえてきた。

「広海先輩、おはよう」

「おう、おはよ」

 すぐさまこちらに気づいた同居人兼恋人である瑛冶は、朝から晴れやかな笑みを浮かべている。
 低血圧な自分と比べ、どんなに朝が早くとも一定のテンションを保っている男だ。

 瑛冶はオープンキッチンで朝食の準備中らしく、バターの香りが漂ってきた。
 おそらくフレンチトーストではないだろうか。
 今朝のメニューは他にベーコン、ウィンナー、サラダ、野菜ジュース辺りだ。

 朝食ができあがるまでに洗面所へ赴き簡単に身支度を調える。
 今日は在宅なのでそこまでしっかり身綺麗にしなくともいい。ちょっとした外出をする際に見苦しくない程度で済ませた。

 顔を洗ってふと鏡を見た時、随分と髪が伸びたように見えた。
 いつも明るい茶色に染めている瑛冶とは違い、一度も染めた経験がない髪はわりと真っ黒で、伸びてくると重たい印象になる。

 向こうはふわふわの緩い天然パーマだが、こちらはストレートなので余計に固い雰囲気を感じる気がした。
 いまは普段のコンタクトではなく、黒縁眼鏡なのでなおさらか。

「先輩、ご飯できましたよ。あれ? もしかして前髪、邪魔なの?」

 リビングに戻ると、ダイニングテーブルに皿を並べていた瑛冶が顔を上げ、驚きの表情のまま目を瞬かせた。
 そんな様子に構わず椅子を引いて腰掛けるが、じっと人の顔を凝視してくる。

「なんだよ」

「いや、なんだか、おでこ出してる広海先輩が可愛いなぁって」

「でこ一つでなにを大げさな」

「えー? 大げさじゃないですよ。普段の前髪が目元にかかったクールで色っぽい感じもいいですけど、いまの顔立ちがはっきり見える感じもいい」

 ぐっと握りこぶしを作って力説する瑛冶の様子に呆れる。
 だがあまりにも注視されると気恥ずかしいので、前髪を留めたヘアピンを取ろうと手を上げたら、パッと大きな手で制された。

「なんで取っちゃうんですか。可愛いって言ってるのに! 駄目です。今日はそのままでいてください」

「なんでお前のリクエストに応えなくちゃいけないんだよ」

「ほら、愛する瑛冶くんのために」

「うざ」

 ぱちんと片目をつむっておどけてみせる瑛冶にため息を吐き出し、スルーしてヘアピンを外すと俺は両手を合わせた。

「いただきます」

 食べやすく一口大にカットされたフレンチトーストにフォークを刺し、黙々と朝食を食べ始めたら、少しふて腐れるみたいに瑛冶は口を尖らせる。
 とはいえ俺がその程度で言葉を翻さないと知っているので、諦めて向かい側に腰掛けた。

「広海先輩、今日はお昼、外へランチをしに行きませんか?」

「朝飯を食ってるところなのに、もう昼飯の話かよ」

「だって先輩に宣言しておかないと、直前に言ったら仕事の切りが悪いとか言って渋るでしょ?」

 長年の付き合いで性格を見透かされている。
 瑛冶が言うように突然言われたら、間違いなく面倒くさがって自分は頷きたがらない。

「なかなか休みは合わないけど、先輩の在宅が増えたからこうして一緒の時間も増えて嬉しいですね」

 以前は月に一回、二回ほど、お互いの休みが被ればいいほうだった。
 近頃は在宅勤務も推奨されているので、瑛冶の休みとわざと被せているのだが、気づいているのかいないのか。

 ニコニコと満足そうなので別に訂正する必要もないかと、再びフレンチトーストを口に放り込む。
 卵液がしっかりとパンに染み込み、ふんわりこんがり焼かれたこれは店で出てくるようなクオリティだ。

 さすが本職と言えばそれまでだが、基本瑛冶の作るものはすべて口に合う。
 だからこそわざわざ外へ食べに行く必要性を感じないものの、作ってもらっているという状況を忘れてはならない。

 瑛冶としても料理研究のために、色々な店で味わってみたいという意識があり、時折こうやって食事に誘われる。
 この程度は普段の労力の対価として、付き合わなければ罰が当たるかもしれない。

 黙って食事をしているあいだ、瑛冶はいつものようにあれこれと日々の出来事や、俺に伝えたかったのだろうことを話している。
 もはや食事中のBGMの如しだ。

 これが他の人間であれば雑音に聞こえるところだけれど、瑛冶の話し声はまったく気にならない。
 聞いているか聞いていないかわからない俺の反応も気にせず、お喋りな口は今日も絶好調だった。

「はい、コーヒー。カップを倒さないように気をつけてね」

「ああ」

 食事が済むと部屋からノートパソコンを持ち出し、ダイニングテーブルを陣取る。
 こちらが仕事へ集中し始めれば、瑛冶は瑛冶で家事をこなし出す。

 今日は天気が良いので大物のシーツを洗うのだと張り切っていた。
 乾燥機もあるのだが、天日で干すほうが気持ちいいらしい。プラシーボ効果的なものではないかと思いはしても、あえて突っ込みは入れない。

 家事は瑛冶の分野、本人が満足していればいい話だ。

 洗濯機が回っている時間を使い、今度は水回りを掃除し始める。
 風呂、トイレ、洗面所など、姿が見えないのに時々聞こえてくる鼻歌や独り言で、やけに存在感が主張されていた。

 足元を走る掃除ロボットを避けて椅子で胡座をかきながら、俺はしばらく仕事に没頭する。
 しばし作業にのめり込んで、ひと息つくためマグカップに手を伸ばすと、いつの間にか温かいコーヒーが注ぎ足されていた。

「うちには小人がいるのか?」

 ちらりと視線を動かしてみれば、瑛冶は相変わらず鼻歌交じりで、いまはキッチンを掃除している。
 あそこはあいつの城なので、整理整頓に気合いが入るようだ。

 ほぼ料理ができない俺は必要最低限にしか踏み入らない。
 コーヒーを飲みつつ、瑛冶の様子を眺めていたら視線に気づいたのか、ふっと顔を上げた。

 視線を離そうとしたけれど間に合わず、バチリと目が合った瞬間、瑛冶はぱあっと花が咲いたみたいな笑みを浮かべる。
 気まずくなりすぐさま顔をそらしたが、微かな忍び笑いが聞こえてむず痒い気持ちになった。

「よし、午前納品、間に合った」

 瑛冶を意識の外へ放り出し集中力を高めた結果、予定よりも早く作業が終わった。
 長い時間、パソコンと向き合っていた体を大いに伸ばすと、無意識にくぐもった声が出る。

「お疲れさま」

「おう、ありがとう」

 一段落ついたのに気づき、傍まで来た瑛冶は二粒のチョコレートを載せた小皿をテーブルに置く。
 甘い菓子はそれほど好きではないものの、頭を使ったあとに少量の糖分を摂ると気分がわずかにほぐれる。

 オレンジピールの入ったチョコとミルクチョコレートをゆっくりと食べてから、コーヒーの苦みで口の甘さを取り除く。

「昼はどこに行くんだ?」

「うん。俺がいつも使ってる駅のほうに新しいカフェレストランがオープンしたらしいんだ。わりと評判が良さげでさ」

「ふぅん」

 いま住んでいるマンションは最寄り駅が二つある。
 どちらもさほど変わりのない距離だが、瑛冶とは別の駅が俺の勤め先に近い。そのため互いに普段利用していない駅には疎かった。

 適当な相づちを打つ俺など気にせずに、タブレットをテーブルに置いた瑛冶は店のホームページを開き一人で喋り始める。
 以前勤め先の近くで一緒に食事したカフェレストランはパンがおすすめだったが、今日予定している店は卵にこだわっているのだとか。

「このオムライスが食いたい」

 ホワイトソースのオムライスがやけに美味そうに見えた。
 珍しく外食に対し自己主張をした俺に一瞬目を丸くしてから、瑛冶は何度も頷くと満足げに笑う。

「かなり卵がふわふわらしいよ。楽しみだね。俺はプリンも食べたいです」

 のんびりと二人でタブレットを眺め、ひと息ついたあとにオムライスとプリンを目指して家を出た。