コトノハ/01
初めてあの人が口にした言葉は、ほとんど聞こえないくらいの、小さな小さな告白だった。
正直言えば聞こえなかった、と言うのが本音だが。それでも心に、伝わってくるものがあった。次がなくとも許せてしまうくらい。
そう思っていたのに、なんだか最近の彼はとても近くに感じる。急にベタベタしてくる、とかではまったくない。
ただいつもなら部屋に篭もってしまう場面、目の届く場所にいるのだ。
いまもこちらがキッチンに立っている、目の前にいた。
ダイニングテーブルで、ノートパソコンに向かっているから、こちらなど眼中にないのだけれど。それがひどく可愛らしく思える。
もちろん相変わらず隙のない、イケメンぷりは健在だ。こんなに顔立ちが整った人は、そうお目にかかれないと思えた。
これは欲目ではないはず。老若男女問わず、振り向く人も多い。
「広海先輩、コーヒー」
「んー」
「ちゃんと視線、上げてください。カップ、倒すよ」
「ああ」
仕事に没頭していて、返事に心がこもっていない。画面に視線を向けたまま、マグカップに手を伸ばすので、その手にこちらがカップを導いてしまう。
持ち手を掴むと、確認もせずにそれを口に運んだ。
「先輩、それが淹れ立ての熱々だったら、どうするんですか」
「丁度いい」
「冷ました俺に感謝してください」
「ありがとう」
「……、え?」
キッチンに戻ろうとしていた俺は、ふいに聞こえた言葉に、振り向いてしまった。いま聞き間違えでなければ、ありがとう――と、言わなかっただろうか。
いままでこれほど素直に、言われたことがなかった気がする。
しかし驚く俺をよそに、彼は相変わらずパソコンに釘付けだ。それがあまりにらしくて、文句を言う気にもならない。
「今日は晩ご飯なににしますか?」
「なんでも」
いつもなら少しくらい考えるのに、即答。これは考えるのが面倒なのだ。
部屋の時計を見ると、もう十五時。朝食のあとから、ずっとこの調子で、昼はながら食べだった。さすがにそろそろ休憩して欲しい。
そのつもりのコーヒーだったのに、いっそ淹れ立てを出したほうが、意識を離すきっかけだったかもしれない。
だがうっかりと、やけどをさせるのも嫌だった。
「今日はなににしようかなぁ」
リクエストがないのであれば、適当にレシピを検索して、自分の食べたいものを探す。ありがたいことに、彼には好き嫌いがないので、味付けが外れなければいい。
キッチン用に買った、タブレットを手に取るが、ついついSNSをチェックしてしまう。
友人や職場の仲間くらいとしか、繋がっていないけれど、休日だからか流れが速い。
そんな中で写真が多く目についた。
「あ、もうそんな時期か」
柔らかい桜色。
そういえば電車の窓からも、ちらちら見えていた、ような気がする。季節を感じる感覚が鈍るくらい、相変わらず仕事は忙しい。
「よし! 広海先輩、お花見に行こう!」
自分がそうなのだから、この人はもっと感覚がないはずだ。
声をかけたら、今日初めて顔がこちらを向いた。なにを言っているのだろうと、その顔に書いてある。
「桜、咲いてるって」
「……面倒くさい」
「気分転換しましょう」
「忙しい」
「それは今日、やらないといけないことなんですか?」
彼に限って仕事が遅れている、とは思えない。前倒しに片付けて、次を早くやりたいだけな気がする。
図星なのか、眉間にしわが寄った。
「せっかく二人でいるんですから、ちょっとくらい、いいじゃないですか」
「毎日一緒じゃねぇか」
「一日一緒にいられる日なんて、月に数回でしょ」
うんざりした顔で、彼はパソコンに視線を戻したが、俺の言葉に少し考え込むような表情を浮かべる。
ようやく今日が貴重な一日であると、気づいたのだろう。
職業柄、二人の生活はすれ違いが多い。
飲食業の俺は土日祝日が休みなんて、滅多になかった。滅多にと言うか、自らシフトに組み込まないと、まず無理だ。
だから休みが合うのは、精々月に一日、運が良ければ二日くらい。
二人揃ったからと言って、なにかをするわけでもないけれど。少しくらいは、いちゃいちゃしたい。
実際のところ、いちゃいちゃなど、させてくれる人ではないが。二人で季節を味わうのもいいものだ。
「先輩! 早く早く」
「テンション高ぇよ」
なおも渋る彼に発破をかけて、なんとか無理矢理に、マンションから連れ出すことに成功した。
一時間だけ、と念を押して言われたが、それだけで済ますはずがない。
電車で少し行った先に広い公園がある。ソメイヨシノが多いらしいので、今頃いい感じに咲いているはずだ。
「近くの公園でいいだろ」
「デートですよ!」
「花見だろ?」
「花見デート、です!」
いまものすごく面倒くさそうに、呆れた顔で、ため息をつかれたけれど気にしない。少し強引に手を引くと、黙って後ろをついてくる。
以前も思ったが、こういう時の彼はあからさまに怒りはしない。
単に諦めが半々、どうでもいいが半々、なのかもしれない。
だとしてもやはり根が優しいんだよな。惚れられていると、いい気になってしまうくらい、こちらに甘い。
肝心の言葉がほとんどないのに、それでも許せてしまうのはこういうところ、だろう。
しかし思わず含み笑いしたら、気味が悪いと顔をしかめられた。
「先輩はどんな顔でも可愛いし、格好いいですね」
「お前はいつも脳天気そうだな」
「ええっ、そんな愛のない」
「いいんじゃねぇの。平和そうな顔を見てると和むし」
「そこはそういうお前が好きだ、ですよ」
「そういうところ、うざい」
冷ややかに目を細めて、眉間にしわを寄せられる。まあ、これは照れ隠しの一つだと思うことにした。
あまり素直すぎても、こちらがびっくりする。
それでもいつか角が取れて、円くなる日も来るのだろうか。ここ最近、かなり態度が軟化している気もする。
甘々な広海先輩――いや、想像がつかないな。
「なんだよ、変な顔して」
「うーん、やっぱり先輩は、ちょっと棘があるほうがいいかな」
「なんの話をしてんだよ」
「でも実のところ、これがもうすでに甘々だったとか?」
「独り言は胸に留めておけ、馬鹿」
「え? あっ、待ってください!」
ぱっと手を振りほどかれて、気づいた時には、すでに背中が遠ざかり始めていた。
いまのいままで手を振りほどかれていなかった、ことを鑑みると、やはり甘々だったのかもしれない。