スペア02
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「春日野先輩。俺、好きなんです先輩のこと」

「は? お前、誰」

 やたらと背の高いボンヤリした顔の男――それがあいつの第一印象。
 そして夏の暑さで頭でもやられたのだろうかと、思わず哀れんだ視線を向けたことをなんとなく覚えている。

 けれどあいつはちっともそんな心情に気づくことはなく、真剣な顔をして俺をじっと見つめていた。
 あれは確か大学四年、夏の初めだった。

 そしてそれからあいつは――三木は気が付けば傍にいた。
 最初は驚いていたほかの奴らも、そんな状況が面白くて仕方がなかったのか、あいつの行動を助長するようなことばかりしていた気がする。

 いま思えばあの時、俺と三木が付き合う付き合わないと、賭けでもしていたのだろう。
 しかしやはり何度思い返してみても、お互いそんなやり取りをした覚えはない。

「先輩、広海先輩」

「……」

「風邪引くよ」

 ふいに身体を揺さぶられ、夢うつつな意識が浮上する。重たい瞼を持ち上げれば、眉間にしわを寄せた三木の顔が目の前にあった。

 目を覚ました俺に何故かほっとした表情を浮かべる、その反応を訝しく思いながらも、俺はいまだボンヤリとする思考のままあくびを噛み締めた。

「一人で飲んでたの? 今日電話したんだけど、先輩から全然連絡ないからちょっと心配してたんだ」

「事務所に鞄忘れた」

「そっか」

 テーブルの上に転がった空き缶をまとめて、キッチンへ運ぶ三木の背を目で追うと、ふいに視線を感じたのかこちらを振り返った。

「どうしたの? なんか俺の顔についてる?」

「別に……お前結構飲んでるだろ」

 首を傾げた三木に肩をすくめて、ソファに預けていた身体を持ち上げれば、驚いた顔をして目を瞬かせる。
 しかし本人が気づいていないだけで、話し方でどれだけ飲んでいるかすぐに分かった。

 飲んでる量が多ければ多いほどに、三木はまるで素面のようになり、普段辛うじて残っている敬語がスッカリ抜け落ちるのだ。

「水」

「あぁ、うん」

 目を瞬かせている三木に冷蔵庫を顎で示せば、慌ただしくペットボトルを手に戻ってきた。
 封を開け手渡されたミネラルウォーターを飲み下すと、ボンヤリしていた頭が徐々にすっきりして来る。

 買ってきたビールだけでは足りず、家にあったワイン一本と日本酒を飲んだのはさすがに飲み過ぎか。

「先輩、キスしていい?」

「……吐くぞ」

「それはちょっとやだな」

 目の前に立っていた三木が、身を屈めて顔を寄せてくる。そして俺の言葉に苦笑いを浮かべながらも、ゆっくりと唇を合わせそれを甘噛みすると、深く中へ押し入ろうとした。

 しかし俺は咄嗟に、目の前の身体を勢いよく押し戻していた。

「先輩?」

 あまりにもはっきりとした俺の拒絶に、三木は驚きを通り越して唖然とした表情を浮かべている。

「臭い」

「え?」

「女臭い」

 思いきり顔をしかめた俺に、三木は間の抜けた顔をした。言っている意味がよく分かっていないようだ。

 けれど普段から嫌なくらい鼻が利く俺には、間違いようがないくらいはっきりと、女物の香水の匂いがした。
 三木の肩口から――。

「くせぇから寄るな」

 いまだ固まっている三木の身体を足で押し退け、間抜け面に目を細める。
 明らかに酔いも覚めたような表情で、目を彷徨わせているその反応は、少なからず匂いが移る心当たりがあるということか。

「広海先輩、これはそういうんじゃなくて」

「あ? なにがそういうことだよ」

「だから職場の子がちょっと酔っ払って」

「なにを言い訳してんだよお前」

 なんでもないと言えば済む話だ。こんな下らないことを、真剣に言い訳されればされるほど白けてくる。
 真っ青な顔をしてうろたえる三木の姿に、思いのほか重たいため息が漏れた。

 俺もなにをこんなにイライラしているんだ。
 ――馬鹿馬鹿しい。

「俺、ほんとに先輩しか」

「電話、お前の鳴ってるけど」

 口を開きかけた三木の声を遮るように、見計らったようなタイミングのよさ。リビングの片隅に置かれていた鞄から、突然軽快な着信音が鳴り響いた。

「え? あ、いや」

 しかもそれは躊躇う三木をよそに、一向に鳴り止む気配がなかった。俺は舌打ちしながら立ち上がり、耳障りな音を発する携帯電話の通話ボタンをした。

「あ、瑛冶さん? さっきは送ってくださってありがとうございましたぁ。すみません私、酔っ払っちゃって。あ、遅くなって彼女さんに怒られませんでしたぁ?」

 スピーカーから漏れ聞こえる、ちっとも酔っ払っていなさそうな声に、自然と眉間にしわが寄るのが自分でも分かる。
 そしてこちらの反応など、お構い無しに話し続けるその声に、さらに苛立ちが募った。

「……あんたえげつねぇな。付き合ってる奴いるの知ってて、よくもぬけぬけと言えたもんだな」

「え?」

 その神経の図太さと同様、面の皮も相当なものだろう。いかにもお人好しがまんまと騙されるタイプの女だ。
 騙される奴も奴だが。

「……勘違いすんなよ。こいつが優しいのはお前だけじゃなくて万人だからな。それとこいつは――瑛冶は俺のもんだから女にやる予定はねぇよ」

 人のものだと分かっていながら、男の周りをうろつく女の神経が全く分からない。

「え、ちょっ……」

 戸惑った声を上げ、息を飲んだ電話の向こう側を鼻で笑い、俺は言うだけ言って通話を切り、傍で立ち尽くしていた三木に携帯電話を放り投げた。

「言い訳の電話すんならいまのうちじゃねぇの?」

 しかし手が伸ばされることなく、携帯電話はカーペットの上に転がった。

「俺が風呂上がるまでにその匂いなんとするか、出ていくかしろよ」

 いつまでも身動き一つしない三木の様子に、俺は舌打ちしてリビングを横切り風呂場に足を向けた。

「広海先輩」

「あ?」

 脱衣所の扉を開けようとした瞬間、急に腕を掴まれ後ろへ身体ごと引き寄せられた。そして状況を把握する前に、息すら絡め取るよう口づけられる。

「ンっ……なにす、んんっ」

 いきなり壁に押し付けられ文句を発する間もない。舌を吸われ口内を掻き回されれば、酸素を求める脳みそがぼんやりしてくる。
 しかし勝手にボタンを外し始めた手にふと我に返り、俺は咄嗟に三木の脛を蹴り飛ばした。

「いっ」

「いてぇじゃねぇよ。なに盛ってんだ、臭いって言ってんだろうが」

 ヨロヨロと後退し蹲った三木にため息を吐き出せば、奴は半分涙目になりながらも顔を持ち上げた。

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