パフューム03
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 少し先を足早に歩く広海先輩は、なにも喋らずに前を向いている。
 掴まれていた腕はいつの間にか離れて、俺は彼の後ろを黙ってついて歩いた。

 人の喧騒も減り、しんと静かになった空間――どのくらい歩いたのか、どこまで来たのかわからなくなったその時。
 ふいに広海先輩の足が止まった。

 そしてしばらくその場に佇み動かなかったが、ふっと吐き出されたため息と共に、同じく立ち止まっていた俺を彼はゆっくりと振り返る。

「広海先輩?」

「お前さ、ちょっとは怒れよ」

「え?」

 急に投げかけられた言葉に、なにに対して? という疑問が浮かんでしまった。
 そしてその俺の考えにすぐに気づいたのか、広海先輩は呆れたように深いため息をついた。

「寄ってきた女には都合のいい男とか思われて、俺には職場の人間に野郎と付き合ってんのバラされて、普通ちょっとは怒るだろそこは」

「……あ、でも」

 あの子たちのことは怒るというよりも悲しかったのであって、責めるのもなんだか違う気がした。
 それに広海先輩のことは、怒りようがない。

 ヤキモチ妬かれて嬉しかったし、あんな風に庇ってくれて感激したし、もうバレても構わないと正直思ってしまった。

 周りに非難されたり蔑まれたりするかもしれないけど、この人のことを隠さなきゃいけない、そんな生活は嫌だなと改めて感じた。

「お前、俺についてきていいのか」

「え? それは、どういう意味?」

 小さく呟かれたその言葉の意味が、俺にはイマイチよくわからなかった。
 首を傾げてじっと広海先輩の姿を見つめていると、俯き加減だった顔がこちらを見上げる。

 いつもとは様子が違う雰囲気に、俺はそっと手を伸ばして彼の頬に触れた。
 ひんやりしたその頬を撫でて、気づけば立ち尽くす身体を抱きしめていた。

「俺は、広海先輩じゃないと駄目だって、前から言ってますよね。なんで急に、そんな突き放すみたいなこと言うの」

 いまここで抱きしめないと、彼がどこかへ消えてしまう気がした。心臓がうるさいくらいに鼓動を早める。

「まだ、いまなら戻れんじゃねぇの」

「なんでそんなこと言うのっ、戻れないよ。広海先輩がいる限り、俺は戻りたくもない」

 なぜ急にこんな別れ話みたいなことを言われなくてはならないのか、全然理解できない。というよりそんなこと理解したくない。

 この俺がどれほどの想いでいるのか、それをどれだけ目一杯、伝えてきているか、広海先輩だって充分わかっているはずだ。
 今さらになって彼を手放し、女の子と付き合うなんてできない。

 この人に出会ってから、俺はずっとこの人しか見えてない。
 ほかのなにも目に入らないのだから――どんな子が目の前に現れても、俺のことを好きだと言ってくれても、心は動きようがない。

 それなのにちょっと、女の子がウロウロしただけで別れるとか、ありえない。

「いまのお前なら」

「戻らないっ」

 でも、広海先輩にそう言わせてしまった自分に嫌悪した。多分きっとこの人も不安なんだ。
 俺が離れていなくなる前に突き放そうとしてる。

「好き、広海先輩が好きだよ。俺、信じてもらえるまで、何回でも何十回でも言う。だからお願い、俺を捨てないで」

 自分で言葉にして、思いきり傷ついてしまった。この人と離れなくてはならないなんて、考えるだけで胸が痛くて、悲しくて仕方がない。

 好きと言葉にしてもらっていないけど、広海先輩に嫌われていないのはわかっている。
 あんな風に不機嫌になって、こうして目の前にはいない女の子たちにヤキモチ妬いて、不安になってくれるくらいは、想っていてくれているのは感じている。

 でも俺にだって不安はある。
 好きだから同じくらい好きでいてくれないと嫌だなんて、そんなことは言わないけれど――でも、不確かな関係が続いて、いつかするりと自分の腕の中から消えてしまいそうで、怖い時だってあるんだ。

「広海先輩じゃなきゃ、嫌だ」

「後悔、しねぇの?」

「しない」

「……即答かよ」

 抱きしめる腕に力を込めると、その中で広海先輩が肩を揺らし小さく笑った。
 それと共にゆっくりと背中に手が回され、肩口に微かな重みがかかる。

 なんだか広海先輩がいつもより小さく感じた。そして抱きしめても抱きしめても、掴めないその感覚が拭いきれなくて、力任せに抱きしめてしまう。

 それでも腕の中にいる小さな彼は、身じろぎもせずにじっと俺の肩に頬を寄せていた。

「帰ろう、もっとちゃんと先輩のこと抱きしめたい」

 一分一秒でも早く、彼に触れたい。

 大通りで拾ったタクシーがマンションに着くなり、早く早くと急く俺に手を引かれ、広海先輩は肩をすくめて苦笑いを浮かべている。

 若干、呆れられているのは感じるけれど、いまはもうそれどころじゃなくて。
 焦りなのかなんなのかわからないが、繋いでいる自分の手は熱くて汗ばんでいた。

「待て」

 しかしようやく玄関に入ったところで、おあずけを食らわされた。
 せめてキスくらいと思ったけれど、じっとこちらを見つめて制されると、思わず息まで止まってしまう。

「ここで、玄関でがっつくな」

 いますぐにでも押し倒してしまいそうな気持ちの勢いは、どうやらすでに見透かされていたようだ。
 しかしそれでも、この沸き上がる衝動の行き場を無理に制されると、辛くて仕方がない。

「うーっ」

「唸るなバカ犬、俺がベッド以外でヤルのが嫌だっての忘れたか」

「うぅーっ、でも、このまま待ては嫌です、早く」

 ほんのちょっと潔癖症に近い広海先輩は、意外と色んなこだわりがある。
 ジタバタしたい衝動に駆られてまた低く唸れば、大げさなほど深いため息をつかれた。

 けれどふいに伸びてきたひんやりとした手が俺の頬を掴む。
 そしてその手に引き寄せられるまま身を屈めると、ずっと触れたかった唇がそっと自分の唇に重なった。

 柔らかなその感触に、深く押し入りたい気持ちになるが、待てを言い渡されたままなのでそれもできず、俺はぎゅっと堪えるように目をつむった。

 ゆっくりと食むように啄まれ、舌先で時折唇を撫でられると、わざと焦らされていることがわかっているのに、どうしても身体が熱くなってくる。

「もう無理……」

 触れる肌の冷たさを払拭する、割り入ってきた舌の熱さに頭がくらりとした。
 そして絡みついてくるその熱に、ぷつりとなにかが切れたような気がした。

 もうおあずけはしていられない、よしの合図なんて待っていられない――慌ただしく靴を脱ぐのと同時か、唇を離して目の前の身体を抱き上げると、俺は無我夢中で自分の部屋に足を進めた。

「興奮し過ぎ」

 抱き上げた身体をベッドに沈めて、その上に跨がると、目を細めて鼻先で笑われた。
 でもその仕草がやけに色っぽく見えて、ますます俺は、肩で息をするほどに気持ちを昂ぶらせてしまう。

 しかし性急にコートのボタンを外して、シャツの襟首から微かに見えた白い首筋に顔を埋めようとしたところで、なけなしの理性が働いた。

「あの俺、仕事終わりで」

「ここに来てそれか」

 けれど言いかけた俺の言葉は、ゆるりと持ち上がった手のひらに額を叩かれ、喉奥に留まった。

「だって広海先輩、外の匂い好きじゃないし」

「いまここで風呂とか言ったらやる気なくすからな」

 そう言って俺のダウンジャケットのファスナーを下ろす指先に見とれて、思わず生唾を飲み込んでしまう。
 普段は絶対に触れられない広海先輩の匂いがする肌――それを想像して、心臓の鼓動がやたらと早くなってくる。

 ふっと笑った表情を目端に捉え、俺は着ていた上着やアウターを脱ぎ捨てると、見下ろしていた身体に覆いかぶさった。

「ボタン飛ばすなよ」

 鼻先を首筋に押し当て匂いを嗅ぎながら、シャツのボタンを慌ただしく外す俺に、広海先輩は余裕の笑みを浮かべる。
 けれどそれに煽られるように俺が首筋に噛み付くと、一瞬ひくりと仰け反るように彼の喉が震えた。

 その反応に気をよくして、今度は首から顎にかけて舐め上げ、鎖骨をやんわりと甘噛みすれば、誘うように髪を撫で頭を胸元へと引き寄せられる。

「先輩の匂いだけでかなり悩殺されそう」

「お前やっぱり犬だな」

「もういまはなんでもいい」

 香水の類は一切付けないのに、甘いようなこの香りはなんだろうか。
 服は同じ柔軟剤のはずなのに、彼の匂いが染み付いた服は肌と同じ甘い香りがした。

 しばらくその匂いに酔いしれていると、まるでその先を急かすように髪を梳き、うなじを指先で撫でられた。

「匂いだけでイクなよ」

 少しふてくされたようなその声にまた煽られる。
 鎖骨の辺りをきつく吸い上げて、紅い所有の印を二つ三つ白い肌に刻むと、履いたままだった彼の靴やコート、シャツを剥ぎ取るように奪い、床へと放り投げた。

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