デキアイ03

 広海先輩は物事に対してきっぱりはっきりした性格だ。まどろっこしいことは嫌いで、日本人にしては珍しくイエスとノーもためらわない。でも俺との関係はそんな中では曖昧なものだったんじゃないかと思う。
 だから彼は自分と俺との関係についてはっきりとした答えを持っていなかった。俺が甘えすがったからすることはしっかりしてしまっているが、最近になって付き合うとかそう言う話をしたことがないと、ぽつりと呟いたのを聞いて今更ハッとした。

 俺たちは初めて顔を合わせた時からずっと慣れきった惰性で来てしまった。いつも俺が追いかけてしつこいくらいまとわりついて、先輩はそれを鬱陶しそうにしながらも受け入れてくれる。なんとなく一緒にいるのが当たり前になって、付き合うとかの前になんだか熟年夫婦みたいな関係になっていた。

 でもいざ一緒にマンションで暮らし始めると、それまでの関係に少しプラスされたものがある。前まではやっぱり俺の存在は居候の域を出ていなかった。俺自身もそう思ってたし、恋人らしさはだいぶ薄かったように思う。
 でもお互いにそこが二人の居場所なんだと思った時、改めて二人の関係を意識をした感じがする。ああ、一緒に暮らすってこういうことなんだなって、心の中にあるピースがかっちりはまった感じ。

 それぞれの部屋があって、それぞれの時間を過ごすけど、よそよそしさというか、遠慮がなくなった。気を使ってこっそり過ごしたりすることもなくなったし、休みの日になればソファでゴロゴロもする。彼も俺のことを気にせず仕事に没頭できるようになった。

 ふらりと部屋から出てくれば、なんにも言わずに隣に座ってぼんやりテレビを見たりして。なんだか前よりもお互いの関係が落ち着いて、二人の距離は随分と居心地がいいものに変わった。
 その証拠に最近の広海先輩はよく笑う。些細なことで盛り上がって、二人で腹を抱えて大笑いすることも増えた。隣にいる当たり前さは変わらないけど、この人とこれから先も一緒に生きていくんだなって、そんな感情が芽生えた。

「はい、確かに書類をお預かりました。ありがとうございます」

「いえ、忙しい時間帯にすみません」

「あ、大丈夫ですよ。峰岸くんからは事前に聞いていたので」

 目的の店、レヴィデラ・フォレストにつくと、優しい笑みを浮かべた店長の戸川さんが出迎えてくれた。やたらと背が高いのが行くからと事前に聞いていたようで、俺を見てすぐに気付いたようだった。

「やあ、それにしても峰岸くんがタン・カルムの店長になるなんて」

「戸川さんは峰岸さんと面識あるんですか?」

「あるある。会社に入社したての彼を知っているよ。僕も五年前まではタン・カルムで働いていたんだ」

 懐かしむように目を細めて戸川さんはやんわりと笑う。

「あの頃から久我さんは厳しかったけど。いまも怖い?」

「あはは、そうですね。でもあの人は相手の力量をしっかり見極めている人だから、無理難題を言われることはないです」

「ああ、そっか。君が久我さんのお気に入りか。噂には聞いてるよ。初めて久我さんと意思の疎通が出来る逸材が現れたってね」

「え? あー、どうなんでしょう」

 突然の賛辞に戸惑う俺に、戸川さんは満足そうな顔でにこにことした笑みを浮かべる。意思の疎通――確かに久我さんはいつも厳めしい顔をしているから、表情の変化がわかりにくい。
 大きな声を出されるだけで怒られているような気分になると、そう言っているスタッフもいる。でも俺はよくよく見ているうちに小さな変化が見えてくるようになった。それは言葉より雄弁だ。

「君は人の機微に敏感なんだね。久我さんの隣に立つなら、そのくらいがいいよ。ぜひこれからも頑張って!」

「ありがとうございます」

「あ、お友達待ってるみたいだから行ってあげたら?」

「はい、それじゃあ、失礼します」

「うん、ゆっくりしていって」

 深々と頭を下げてからバックヤードを出ると、厨房を横切りホールへと向かう。三ヶ月前にオープンしたばかりでまだ真新しさを感じる店は、壁や床がぬくもりのあるウッド調だ。
 まるでコテージのような佇まいで、フルオープンになるガラス戸から柔らかい光が射し込みとても明るかった。十席ほどあるテーブルはそれぞれに十分な空間を取り配置されていて、すごくゆったりとした印象がある。

 ガラス戸の向こうにはウッドデッキがあり、暖かい日にそこで食事をするのも気持ちがよさそうだ。駅から少し離れた住宅街の真ん中だけど、客席は半分以上埋まっている。
 道すがら聞いた話では、この辺りには小さなオフィスも多いようで、いつも昼時は混んでいるらしい。ランチのパンが食べ放題でそれを目当てに来る人も多いようだ。確かにパンの香ばしい香りが漂うこの空間はたまらない。

「広海先輩、お待たせ」

「用事は済んだか?」

「はい、終わりました。あれ? まだ頼んでないんですか?」

 足早に待たせていた二人の元へ行くと、俺が戻るのを待っていたのか二人ともまだ注文をしていないようだった。
 メニューを広げている広海先輩の隣に腰かけると、彼はそれに視線を落とす。しばらく黙ってその様子を見ていたが、小さく唸り始めたので思わず横から手を出してしまった。

「先輩、これきっと美味しいですよ。香草が入ってるかな? あ、こっちも好きそうな感じかも。これはトマトソース」

「ふぅん、じゃあ、こっちにするか」

「あ、だったら俺これを頼むので、少しあげますね」

 あれこれと説明する俺の言葉を聞いてしばらく悩んでいたが、彼は一番に勧めたものを注文することにしたようだ。俺の作るご飯がいいというのは相変わらずで、外で食事する時はかなり気を使うと言っていた。
 店員さんに声をかけて一通り注文をし終えると、優柔不断みたいな先輩を見ていた九条さんが、急にこらえきれないと言わんばかりに肩を震わせ笑い出す。それを見た先輩が眉間のしわを深くすると、さらに吹き出すように笑う。

「広海は外で飯食うたびに唸ってるよな」

「いいだろう、別に」

 揶揄するような言葉に広海先輩の口が不服そうに曲げられる。けれどこれもいつものことなのか、そこまで機嫌を損ねているという感じではない。
 上司ってくらいだから九条さんとはもう長い付き合いなのかな。大学卒業してからずっと勤めてるから五年は一緒か。まあ、それだけ長かったら気心も知れているのも当然だ。

 五年、長さで言ったら自分のほうが少しだけ長いけど。それも微々たる差なので大きくは出られない。最初の一、二年くらいは社会人と大学生というハードルがあってあんまり一緒にはいられなかった。仕事をし始めた頃にようやく広海先輩の家に押しかけるようになったのだ。

「ふはは、なんかさ。俺ずっとミキちゃんに牽制されてるよな」

「は?」

「え?」

「そんなにずっと見られたら、穴あきそう」

 ふいに視線を持ち上げた九条さんとまっすぐに目が合う。その瞬間ふっと目を細められて、からかわれているのがすぐにわかった。こちらを見る目に愉悦の色が浮かんでいる。
 いつもだったらそこまで気にしたりしないのに、なぜだかいま無性にその目に腹が立ってきた。でも年上相手に文句を言うわけにはいかず、俺は黙って口を引き結んだ。するとそんな俺の反応に九条さんはますます楽しげな表情を浮かべる。

「ミキちゃんは感情が素直だな」

 胸の中がくすぶる感じ、たぶんこれは子供みたいな嫉妬なんだと思う。俺よりも広海先輩を知っているかもしれない人。なぜそんな感情が湧いてくるのかわからないけど、この人の軽口に流されてはいけないと自分の勘が囁きかける。

「瑛冶?」

 急に押し黙った俺を訝しく思ったのか、先輩が少し心配げな顔をしてこちらをのぞき込んできた。余計な心配をかけたくはないが、無駄に力んで眉間にしわが寄る。それでも黙っていたら、先輩は不思議そうに首を傾げた。

「広海先輩、職場でお世話になってる人だから、こんなこと言いたくないんですけど」

「なんだ?」

「この人、絶対うさんくさいです。俺の直感がこの人に気を許しちゃ駄目だって言ってます」

 じとりと九条さんに視線を向ける俺に広海先輩は目を丸くした。そして俺たちを見比べて、深いため息をつく。

「……まあ、うさんくさいのは認めるけど。珍しいな、お前がそんなこと言うなんて」

「なんかざわざわするんです。なんでかわかんないんですけど。嫌なんです」

 いままでだって彼と親しくしている人はたくさんいた。友達と笑い合ってる姿だって見たことがある。でもなんだかそれといまは違うのだ。すっきりしない感情がぐるぐると渦巻いて、気持ちが逆立ってしまう。

「ミキちゃんは鼻が利くんだな。俺が広海に気があるの感じ取ってるんだろ」

「あ? やめろよそう言う冗談」

「冗談とかひでぇな。俺、最初に会った時に言ったろう。お前みたいなのは好きだって」

「だったら俺も言っただろうが。あんたみたいなのはタイプじゃないって」

 ものすごく面倒くさそうに広海先輩は顔を歪めたが、頬杖をついた九条さんは笑みを浮かべてその顔をまっすぐに見つめる。これはどういうことだ? もしかしてこの人、恋愛対象が男の人? え、それってどういうこと。広海先輩が恋愛対象ってことなのか。

「だ、駄目、駄目です! 広海先輩は俺のです!」

「馬鹿、声でけぇよ」

「だって、え? いや、待って。広海先輩、もっと危機感を持ってくださいよ!」

「落ち着け、この男は言うだけだ。どこにひっくり返っても間違いなんか起きやしねぇよ。お前からかわれてんだよ」

 とっさに腕を掴んだら、呆れかえった顔で大仰なため息をつかれた。確かにからかわれているのはわかる。けれどそれを素直に飲み込むことは出来そうにない。どうしても目の前にいる男が信用ならないと思えてしまう。

「広海先輩! もうちょっとちゃんと突っぱねてください。この人油断したら絶対その隙を突いてきますよ」

「ミキちゃん野生の勘だな」

 にやにやと笑みを深くするその顔が腹黒く思えてくる。どうしてこの顔を見て安心なんて出来るだろう。でも揺さぶるように腕を引くと、うな垂れるように片手で顔を覆って下を向かれてしまった。

「ううー、先輩」

「ああ、うるせぇな。お前は肝心の俺を信用してねぇのか。俺はお前を選んだんだよ。それ以外の答えがいるのか?」

「そ、それは」

 ちらりと視線を持ち上げた広海先輩が俺の目をじっと見つめる。その目に俺は思わずうろたえてしまった。めったに口にしてくれない彼の、まっすぐな言葉にひどく弱い。じわじわと頬が熱くなって、視線がうろうろと泳いでしまう。馬鹿みたいに心臓が忙しなく動き出した。

「ふーん、なるほどなるほど。広海は最近まで付き合っているやつはいないとか言ってたけど。そう言う心境の変化か。ファミリータイプのマンション買うって言い出すし、名前の呼び方まで変わったし」

「……悪いかよ」

「いや、いいんじゃねぇの? 素直になることはいいことだ。お前ちょっとツンデレが過ぎるからな。もうちょっとデレてやれよ。ミキちゃんいい子じゃねぇか。可愛いし、なんなら俺が欲しいくらいだ」

「黙れ、節操なし」

 顔をしかめた広海先輩に九条さんは声を上げて笑う。この人ほんとに底が見えない。人をからかって遊ぶのが好きなんだろうか。けどそれってやっぱりすごくたちが悪い。でも先輩が気を許してるってことは悪い人ではないのか。
 しかしそう思うものの、気を抜いたらあっという間に飲み込まれそうな気がした。この人、やっぱりちょっと苦手だ。