レンアイモヨウ06
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 なにか心の隅に残るような、出来事とはなんだろうかと考えてみるが、なにも浮かばなくて次第に考えるのも疲れてくる。

 正直言えばもう考えるのもやめたい。いっそこの手に繋いだものを手放したら、楽になれるだろうか、なんてさらにネガティブな考えまで浮かぶ。

 元々こんな執着した恋愛は得意じゃなかった。
 毎日べったりとされて、毎日愛を囁かれて、ずっと傍にいたいなんて甘い言葉に翻弄されて、もう十分じゃないのか。

「……いや、これはただの逃げだな」

 これは面倒くさくなって、放り投げようとしているだけだ。根本的な解決ではない。口から出る重たいため息をやり過ごして、ミネラルウォーターを一本手に取った。

 少し二人で話をする時間を作ろうか。いつもあいつが喋ってばかりで、俺もそれで満足していて自分の言葉を話していない。
 けれど話をするのはあまり上手くないから、要点をまとめるべきだろう。

 なんだか仕事のタスクみたいだと思うが、やろうと思わなければずっと動かないままだ。
 自分はどうしたい、と自身に問えば答えは見えている。まだ離れたいとは思っていない。

「違うってば! 誤解だよ!」

「もういい」

「よくない! ちゃんと言い訳を聞いてよ!」

 ペットボトルを片手に外へ出ると、なにやら口論になっている。あの二人が、ではなく穂村と見知らぬ男が、だ。
 かなり感情的になっているのか、穂村の声が周りに響いている。

 通り過ぎる人が振り返っているので、これは止めるべきだろう。
 あいつはなにをやっているのかと思えば、あいだでオロオロとしているだけだ。役に立たないやつめ。

「おい、穂村、声が響いてる。喧嘩するなら場所を考えろ」

「……あ」

「広海先輩!」

「お前、なにやらかしたんだ」

 近くまで行って声をかけると、その場の三人が振り返る。そして眉をハの字にした瑛冶が駆け寄ってきた。
 抱きつきそうな勢いを感じて、近寄る顔を押し退けたら、ますますしょぼくれた顔になる。

「なにもしてません!」

「嘘つけ、お前がなにかしたからこじれてんだろ。正直に吐け」

「具合悪そうだったから、ちょっと抱きしめただけです」

「ふぅん、ほかには?」

「えっ! えーと、ちょっとほっぺた撫でました」

「で、それから?」

「……うっ、あー、んー、おでこ合わせました。でもなにもしてません!」

 なにもないことを主張しているが、端から見たら十分している。普通に考えて、男を相手に道ばたで抱きしめたりしないし、頬を撫でたりしたりしないし、額を合わせたりもしない。

 それだけ近かったら角度が悪いだけで、キスシーンにも見えるだろう。
 無実だ、潔白だ、と先ほどの穂村のような言い訳をする男の額を勢いよく叩いたら、小さく文句を言うみたいにうめきやがった。

「お前ちょっと行動に気遣えよ」

「すみません」

 おそらく自分の弟を重ねて、過保護にし過ぎた結果なのだろうが、ややこしい真似をしてくれる。
 息をついて穂村に視線を向けると、こちらもしゅんと萎れた顔をしている。そして黙っているもう一人に視線を向けば、少し戸惑った色を見せた。

 とりあえず手にしていたものを穂村に差し向けて、伸ばされて手に引き渡す。それからなにか言いたげに見つめてくる、男の首根っこを掴んで引き寄せると頭を下げさせた。

「申し訳ない。あらぬ誤解を与えたみたいですが、これは俺のです」

「え?」

「あなたの恋人の浮気相手ではなく、俺の恋人です」

「えっ! 広海先輩?」

「黙って頭下げとけ馬鹿」

 また驚いた声を上げる男の頭を、ギリギリと力を込めて下げると、しばらくしてふっと力が抜けた。
 大人しくなったのを見計らって手を離したが、だいぶ反省しているのか俯いたままだ。

 目の前の人は相変わらず、戸惑った様子を見せているけれど、状況を飲み込み始めたのか、ぽっと頬が赤く染まる。そしてそわそわと視線を動かして、俺と穂村を見比べた。

「この人は同じ職場で働いてる春日野さん。俺を送ってきてくれたの。電車で具合悪くなったのを、こっちの三木さんに介抱してもらってただけだよ」

「……はやとちりをして、すみません。でも、穂村……仕事場で言ってるのか?」

「言って……な、い。あれ? 言ってないよ。なんで春日野さんわかったんですか?」

「色々と感じるものがあったからな」

 写真で見たのと同じ白い手。こちらと年齢が近いだろう見た目。
 少し神経質さを感じる顔立ちは男性らしく、やんちゃな容姿の穂村と比べるとだいぶクールな印象を与える。

 学校に勤めているにしてはちょっと明るい、赤茶色の髪は意外だが、おそらく地毛なのだろう。
 大体、話を聞いていれば、おかしいと思うところだ。女で13号の指輪は細いとは言わないし、指が細いと言っても男性的だった。

 瑛冶のことを知って訝しむどころか、勇気が出ますなんて失言すぎるだろう。

「穂村はちょっとうっかりし過ぎだ」

 こういう迂闊さまでも隣の男と似ている。二人揃って見てわかったが、これはどちらも性癖はノーマルだな。
 噂では聞いたことがあるけれど、この組み合わせを実際に見るのは初めてだ。ノンケは危機感が薄いのか。

 好きになった相手が同性だっただけ、で済ましてしまうのがノンケの怖いところだ。
 そんなの障害じゃないとか、気持ちがあれば、なんてこちらからするとヒヤヒヤする。昔の自分に、そういう部分がなかったわけではないが。

「もう少し気をつけないと、自分だけじゃなくて相手にも迷惑がかかるぞ」

「です、よね。すみません、ちょっと気が回っていなかったです」

「こんなところで痴話喧嘩とか。……まあ、若さゆえだよな」

「本当にすみません」

「まあ、いい。それよりその人がいるなら、帰り道は大丈夫だな」

「はい、平気です」

 顔を見合わせる二人は、それほどこじれているようには見えない。それでもお互い抱えているものがあって、すれ違っている部分がある。
 けれど結局は他人だ。それは当然起こるべきもので、一度はぶち当たる。

 それでもそうやってぶつかるのは、相手のことを想っているからなんだろう。なんとも思っていない相手に、気をかけたりしないし、気を揉んだりもしない。

「……穂村」

「はい」

「俺もよくある。このままでいいのかって思うことが。だけど結局は悩んだって自分がどうしたいかだ。その場から逃げるのか、その手を掴むのか。どっちが後悔するか考えれば、そこまで難しい問題じゃない。あんたたちはお互いに答えはもうあるように見える」

 人の考えが読み取れるなんて、そんな高尚な人間ではないけれど、二人に足りないのは一歩踏み出す勇気ってやつだ。
 いままで二人だけで悩んできたのだろう。こんなことは他人に容易く相談できない。

 異性のカップルだったら、もう少し敷居は低くなるかもしれないが、それだってよほど親しくなければできない話だ。

「話ならいつでも聞く」

「ありがとうございます! 両親に相談するには気恥ずかしいですし、心強いです」

「……ちょっと待て、もしかして親に話してるのか?」

「はい、彼と付き合うことが決まった時に」

 これはなかなかの強心臓の持ち主だ。こんなんじゃ相手は不安にもなりもする。
 歳が離れていて、元は生徒と教員という関係で親にも知られているとなると、大人の立場からして見れば絶対に不幸にしてはならない、というような感情が湧く。

 要するに失敗できない関係だ。責任が重たくなるし、それにへこたれてしまうのも仕方なく思える。それでも純粋なほどまっすぐだから、その手を握りたいとも思う。

「あ! でもほかの人には言ってません! でも言ってないですけど、うっかりバレてたりもするかもしれません。今日のことでちょっと自信が持てなくなりました」

「まあ、そこまで後ろめたくなる必要はないんじゃないか。周囲に気を使うのはお互いのためだ。周りのためじゃない」

「あの、なんていうか自分の性癖? みたいなことよく考えるんですけど。俺は彼が初恋みたいなもので、それ以外の選択肢なんてなくて、同性だからとか異性だからとかよくわからないんです。彼は一時の熱に浮かされてるんじゃないか、なんてたまに言うことがあって。春日野さんはそういうのって」

「俺の場合も似たようなものでどっちも大丈夫だから、性癖というより気の迷いのように思われている。正直周りもそこまで深刻じゃない。けどいつまで遊んでるんだって言われることはある。いつかは女と結婚して落ち着くだろうって思われてる。男しか駄目なわけじゃないならって」

 付き合っている相手がいるとわかっていて、いつ新しい彼女を連れてくるの? なんて邪気もなく言われたことがある。
 昔から変わらず、ちょっと物珍しいものをつまみ食いをしているだけ、と言う感覚で見られていた。

 確かにそれほど相手に熱心なわけではなかった。けれどそれは男だとか女だとかそれ以前の問題で、どちらだから天秤が傾くというものではない。
 それが伝わることはいまだにないのだが。

「外野の声なんて気にしなくていい。気の迷いってわけじゃないなら、しっかり掴まえておけ。不安定な関係が怖くなるのは仕方ない。何年経ってもちょっとしたひずみで不安なんて生まれる。それでも信じられるのは、最終的に自分と相手の言葉と気持ちだ」

 偉そうに言えたものではない。いまの自分だって不安でぐらぐらして泣き言を言っている。
 それでも隣にいる男がまっすぐに手を伸ばしてくれさえすれば、それだけで救われる。人の気持ちなんて、複雑に絡んでいるようで結局は単純なんだ。

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