第19話 会えない時間の痛み

 彼の心の距離が近くなったのはいつなのか。
 これまでを振り返ってみれば、一箇所だけ引っかかる部分がある。

 それは最初に異世界へ誘われた時だ。
 城壁の上で、雪兎がリューウェイクを初めて抱きしめたあの日を境に、ぐんと距離が近くなった気がした。

 おそらく彼は弟妹に対する庇護感情から、一人の人間に対する感情に変わったのではないか。
 その時点でまだ感情が育っていないとしても、芽が出たのは確かだろう。

 本人でさえ、芽生えたものが友愛ではない感情に育つなど、想像もしていなかったに違いない。

(飾り緒を思い出にしてほしいって、言ってたくらいだし。オウカさんと二人で帰ると考えていたはず。ユキさんは、向こうに大切な人を残してきてはいないのかな)

『そんな話は本人に聞けば良かろう』

(バロン、勝手に思考を読まないで)

 仕事の書類を前に、ぼんやりと考え込んでいたリューウェイクは、心の独り言に返ってきた声に眉を寄せた。
 視線を落とすと膝の上に尻尾を揺らした白猫がいる。

『いまの愛し子は隙だらけだ。……まったく』

 恨みがましく見つめても、彼は逆に胡乱げな目を向けてくる。
 しかしぺちぺちと、柔らかな尻尾でリューウェイクの膝を叩き、不満をあらわにする聖獣は残念ながら可愛らしいだけだ。

『しゃんとしろ。そこの男が嫌な目で見ているぞ』

(え?)

 まるでため息交じりな声音。
 呆れた物言いと指摘の言葉に、リューウェイクはようやく思考の海から抜け出す。

 執務机に書類と一緒に置かれた懐中時計は、覚えている限り三十分と少し時間が進んでいた。
 なんという時間の浪費か。

 慌ててペンを握り直して、書類に向かいかけたリューウェイクは、強い視線を感じて顔を右斜め前へ向ける。

「あ、ノエル、すまない。書類はすぐ片付けるから」

「いえ、問題ありませんよ。殿下もだいぶお疲れなのでしょう」

 いつもは黙々と仕事をしているノエルと目が合い、焦りで変な汗が滲みそうになる。
 しかも目が合う直前まで彼の褐色の目は、ひどく重みのあるほの暗さを感じさせた。

 元より活力溢れた性質ではないものの、あんなにも光のない目は初めて見る。
 ノエルの私生活を、リューウェイクは詳しく知っているわけではないが、誰に対しても淡々とした態度で、相手に大きな執着を持たないかと思っていた。

 とはいえノエルは雪兎に対してだけは、敵愾心のようなものを持っている。
 舞踏会でリューウェイクが、雪兎とバルコニーに消えたのはわりと噂になっていた。二人の関係は本当だったかと興味をもつ者も多い。

 雪兎に悪感情を抱いているらしいノエルは、気に入らないだろうはず。
 主人があれ以来、上の空になる回数が多いのだから、余計に悪い印象になっていそうだ。

「お茶を淹れましょうか?」

「ああ、頼む」

 普段と変わらない様子で立ち上がったノエルを視線で追いながら、ペンをぎゅっと握りしめたリューウェイクは、落ち着かない気持ちに戸惑う。

(なんだろう、あの感じ)

 物静かで無駄口を叩くような人間でもない。
 頭が良く回転も速いので、仕事を任せれば完璧であり、細かなフォローも指示をせずとも的確にしてくれる。

 リューウェイクとしては肩肘張る必要がないので、一緒にいて気が楽で仕事がしやすかった。

「いまはひと息ついてください」

「ハーブティーか。うん、落ち着く」

 見慣れた白地に、金色の模様が入ったティーセットが目の前に置かれ、カップに柔らかな花の香りがする黄金色のお茶が注がれた。
 季節やその日の天候、リューウェイクの調子を見て淹れてくれるので、ついほっと息がこぼれる。

「頭痛の薬、そろそろなくなりますがどうしますか?」

「あー、そうだな。いつものとおり頼む」

 よく雪兎の行動に頭を痛めるが、元々リューウェイクは偏頭痛持ちだ。
 ティーセットと同じく置かれた、水の入ったグラスと薬包に視線を向けて、そちらへ手を伸ばす。

 薬包紙を開けば、無臭の淡いクリーム色をした粉薬が現れる。
 口に入れた時の苦みを思い出しながら、眉間にしわを刻みつつ口腔に粉薬を放り込んだ。

 ノエルに差し出されたグラスを掴み、水を煽ればようやく人心地がつける。

「季節の変わり目なので、体調に気をつけてください。いまの時期は日中が温かくとも夜には冷え込みますから」

「移り変わりが早いな。ほんの少し前まで夏の日射しだったのに、いまは随分と穏やかだ」

 背後にある窓を振り返ると、暖かな日射しが室内に降り注いでいる。
 リューウェイクの執務室は日当たりはそこまで良くないけれど、午後は太陽の向きで変わってくるのだ。

 いまよりずっと年若い頃、うっかり仕事に熱中して、冷え込んだ部屋に気づかず風邪を引きかけた経験がある。
 それ以来、ノエルはリューウェイクの体調を常に気にかけるようになった。

「ノエル、いつもありがとう」

「いえ、当然のことをしているにすぎません」

 胸に手を当て恭しく臣下としての礼をるノエルを、リューウェイクはじっと見つめた。
 乱れなく整えられた褐色の髪。着崩した姿など見た覚えがない、きっちりとした制服。

 ふっと交わった瞳は、揺らぎのない静かな湖面のようだ。
 彼は普段となんら変わらないというのに、どこか胸騒ぎを覚える。

「バロン? 散歩か?」

 ふいに膝のぬくもりが消え、リューウェイクが視線を落とすと、床に降りたバロンが尻尾を揺らして返事をする。

 時折こうして、執務室を抜け出し歩き回っているバロンは、城勤めの者たちの癒やしと和みになっていると、喜びの声をよく耳にした。

 彼は「偵察だ!」などと言っているけれど、メイドや厨房の者におこぼれをもらっているのを、リューウェイクは知っている。

 可愛らしく扉の前で鳴けば、前室に控えている侍従が扉を開けてくれるので、バロンは尻尾を立てながらそそくさと出て行った。

「自由な、猫だな。あ……すまない。助かる」

 膝の上が寒々しく感じていたら、そっと膝掛けをかけられる。
 リューウェイクが視線を向けると、再び頭を下げてノエルは自席へ戻っていった。

 しばらくするとカリカリとペンを滑らせる音が聞こえてくる。
 七年ものあいだ、この静けさをノエルと過ごしてきたのだ。

 願わくば、ずっと変わらない日々を過ごしていきたいと、心で祈りながらリューウェイクは温かなカップを傾けた。

 


 その日はすっかり夜の帳が下りた頃合いに、リューウェイクは執務の残りを手に宮殿の私室へ戻った。
 ノエルが帰ったあとも仕事を続けたけれど、終わりが見えないので、書斎で続きをするつもりだ。

 近頃は気のせいではなく、割り振られる仕事が目に見えて増えている。
 聖女と懇意になり、里心を強くさせないためだと気づいていても、リューウェイクは毎日決められた予定をこなした。

 兄たちがいくら邪魔をしようが、帰還の術の研究を止めるわけにはいかない。

「あぁ、今日もユキさんには会えなかったな」

 まきに着替え、ガウンを羽織ったリューウェイクは、私室から書斎へと移動した。
 まっすぐに執務机へ向かい、手にした書類の束を机上に放って、自分の体も椅子に投げ出すように座る。

 両手で顔を覆い、吐き出したため息はやたらと重たかった。
 舞踏会の夜から、一体どれほど日が過ぎたか数える余裕もないが、体感では半月、もしくはそれ以上過ぎている。

 数日は雪兎と会話をした覚えがあったものの、いまはそんな記憶さえ薄れてきていた。
 仕事のきつさもさることながら、雪兎に会えない状況が殊のほかこたえている。

「駄目だ。こんなんじゃ、来年のいまにはもういないかもしれない人なのに」

 ぐっと手を握り感情をこらえると、胸がきつく締めつけられるような感覚がした。
 自分が選んだ選択肢だというのに、すでに後悔し始めている現状。

 リューウェイクは再び、重たい息を吐く。
 とはいえ最初から、彼の優しいぬくもりは忘れようがないとわかっていた。

「はあ、弱音を吐いている場合じゃない。せめて仕事はちゃんと……っ」

 気持ちを入れ替えるため、気合いを込めて身を起こしたリューウェイクだったが、突然のめまいと共に頭に痛みが走る。
 とっさにこめかみを押さえても、脈打つような痛みが続いた。

 ズキズキと痛む中で、城の侍医が困った笑みを浮かべ「殿下の頭痛は、原因の多くが心因性です」と告げた日が思い返される。
 習慣づいた痛みは十歳を過ぎた頃から始まっていた。

 週に一度はやって来て、心配そうに診てくれた医師は老齢でいまは隠居してしまったが、最後まで気にかけてくれた希少な人物だ。

「頭痛薬は……あれ、そういえばノエルがそろそろなくなるって言ってたな。こっちに補充をしてなかったのか」

 鍵付きの薬棚までなんとか歩いて行くが、引き出しを開けたそこはからだった。
 詰めた息を吐き出し、リューウェイクは棚に手をついたまま、ずるずるとその場にしゃがみ込む。

「ユキさん。ユキさん、会いたい」

 一度覚えてしまった安らぎは、すっかり心に染み込んでしまったのか。
 これまでは一人で耐えてこられたはずなのに、あの温かな人が傍にいないこの瞬間が、なによりもリューウェイクには辛い。

 たった数週間でこれなのだから、の人がいない未来をどうやって生きていけば良いのだろう。

 痛みに耐え、縋るように指先に力を込めると、圧力でヒビの入った爪の先が欠けて血が滲む。
 聞こえてくるのは自分の吐き出す荒い呼吸音だけで、静かな空間にそれさえ飲み込まれた。

 一人きりである現実がリューウェイクの胸に突き刺さる。

「殿下?」

 どれほど時間が過ぎたのだろうか。
 しんと静まり返っていた空間に扉をノックする音が響いた。