第32話 新年の準備
突然の前陛下の来訪で、城は少し慌ただしい日が続いている。
ふた月も過ぎればいい加減、通常の流れに変わるはずだが、新年を迎える準備に移行して引き続き、城の従事者は忙しい日々を送っていた。
リューウェイクも例に漏れず忙しく、公務に加え騎士団の仕事も山積みだった。
年末は城だけでなく各領地も忙しいので、あまり辺境伯領の者たちを借り出すわけにいかない。
目下、数日後に開催される新年を祝う公式行事を、滞りなく終わらせるのが最優先事項だ。
「――それでですね。天然の魔石を砕いて、作ったインクで魔法陣を書きまして、向こうの世界へ送ったところ、物質を破損なく送り合うことが可能になりました」
「すごいな、あちらでも魔石の魔力を頼りに魔法陣が発動するのか」
仕事の合間にリューウェイクが研究室に顔を出すと、嬉々として帰還術の責任者である室長が、今日の成果を報告してくれた。
雪兎たちの世界に魔法は存在しないと聞いていたので、予想外の結果で驚きを隠せない。
「これで殿下があちらへ行っても、手紙くらいはやり取りができますよ」
「それは、嬉しいな」
インクに含まれた魔力を使い切れば、もうその魔法陣は使えないけれど、使い方次第で色々な役に立ちそうに思える。
雪兎から聞いた〝電池〟というものが思い浮かび、改良すれば用途も広がるだろう。
この先も研究を続けてもらうため、リューウェイクが去ってからの管理者や、費用の工面も計画を立てる必要がある。
私財、収益はすべて第三騎士団の団長である、ラインハルト・ボルフェルタへ預けるよう手続きが進んでいた。
リューウェイクは辺境伯家には世話になりっぱなしなので、財産は自由にしてくれていいと言ってある。
とはいえあのラインハルトだ。おそらく当面の研究費は、そこから捻出されるに違いない。
「忙しい年末まで、研究を続けてくれて感謝する」
「なにをおっしゃいますか。研究者にとって実りある研究は、どんな物にも変えがたいのです」
「そうか、では君たちが心置きなく研究に没頭できるよう、あとでなにか差し入れるよ」
「いつもありがとうございます。しかし殿下こそ忙しいのでは?」
「そうだな。だがこれから――」
話の途中で研究室に来訪者が来て、リューウェイクはそちらへ視線を向ける。
研究員の一人が応対している人物は、いままさに話題に上げようとした人物だ。リューウェイクと目が合うと彼はひらりと手を振って寄こす。
「ああ、ユキトさまと食事ですか? 昼時を過ぎましたね」
「そうなんだ。ようやく食事にありつけそうだ」
納得したように頷いた室長は雪兎へ会釈を返し、にこりと穏やかな笑みを浮かべる。
さらには時間がもったいないと、リューウェイクを研究室から送り出してくれた。
気の利く彼や、研究室の面々には滋養にいい食べ物と、合間に食べられる甘味を送る手筈を侍従に整えてもらうことにした。
そしてリューウェイクは雪兎を伴い、昼食を求めて城下へ下りた。
「ユキさんは午前中なにをしていたの?」
「俺は騎士団の雑用を手伝わされていた。ケインが相変わらず人使いが荒くてな」
「ケインさんは誰に対しても容赦がないからね。こういうのを〝猫の手も借りたい〟だっけ?」
「そうそう、バロンの手も借りたいくらいだよな」
とはいえ肝心のバロンも近頃は忙しいのか、城内では滅多に見かけなく、リューウェイクが一人の夜、ふらりと現れて寝台に潜り込んでくる。
ふかふかの毛並みに埋もれて眠るのは、寒くなってきた昨今ではありがたいのだけれど、雪兎が羨ましがって些か複雑だった。
バロン的には、愛し子であるリューウェイクの魔力を傍で感じるのが心地いいらしく、あまり好んで雪兎の傍へは行かないのだ。
「女将、今日の定食を二つ」
「かしこまりました。今日も殿下はお昼が遅いですね」
このところ昼は、二人で食堂に来るのが定番になっているため、女将が心配そうに頬に手を当てる。
「いまの時期はなかなかな」
「もうすぐ新年ですしね。少しでもユキトさまとゆっくりしていってください」
「ああ、ありがとう」
食事時を過ぎたので、客はまばらだ。
しかしちょっとした間食、お茶をしに来る者もいるので、完全に客が途絶える時間はほぼない。
リューウェイクに気づくと皆、笑みを浮かべて挨拶をしてくれる。
さらには必ず傍にいる雪兎へ視線を向け、なにかに満足するが如く深く頷くのも定番だ。
最近は城下に雪兎との関係が噂され始め、リューウェイクが国を去ることも遠回しに、話題に上っているらしかった。
おそらく騎士団員や、リューウェイクの傍にいる者たちがわざと噂を流している。雪兎の世界の言葉で〝外堀を埋める〟というやつだ。
両親や兄たちが表立って横やりを入れないよう、彼らは手を回している。
「この世界はいいところではあるよな」
「そう? ユキさんの世界は雑多で騒がしいんだっけ?」
「慣れるまでリュイは苦労するかもしれないな」
「そんなの文化の違う場所へ行けば、どこへ行ったって一緒だよ。言葉が違うように、その場所が築いてきた文明があるんだ。新しい知識に対して、僕は好奇心が強い。なによりもユキさんといられるのなら、頑張らないと罰が当たる」
周囲へ視線を向け表情を曇らせる雪兎に、リューウェイクは笑みを返し腕を伸ばす。
そしてテーブルの上に置かれた彼の手に、そっと自身の手を重ね、いたわるように撫でた。
(優しい人だな。いつだって僕の心配ばかりだ)
雪兎の懸念はもっともだとしても、不安ばかりを抱いて行くよりも、リューウェイクは新しい文化に触れられる機会を大事にしたい。
やんわりとはにかんだ雪兎が手を握り返してくれて、ほっとした気持ちでリューウェイクも笑みを浮かべた。
「向こうに慣れるまでは、俺の経営する店のどれかで店番でもしてもらおうか」
「カフェ、だった? コーヒーという飲み物を飲んでみたい。こちらではリーフティーやフルーツティーが主だから、色々気になるな」
「一緒にたくさん経験をしよう」
「楽しみだな」
忙しすぎると現実から逃避したくなるもので、最近は二人で未来の話をするのが日課になっている。
おかげで予想できる不便さを差し引いても、雪兎の世界は興味を引くことばかりだ。
向こうへ行ったらこちらと完全に断絶すると思っていたが、いまの研究がさらに進めば、半永久的に物品や文字での交流はできそうに思える。
それがまた安心感に繋がり、ただ素直にまだ見ぬ場所へ思いを馳せられるのだ。
「リュイを連れて帰ると伝えたら、両親と兄が喜んでいる」
「そうなの? 僕が行ってご迷惑にならないのならいいけど。もしかして恋愛ごとに運がなさすぎて心配されていた?」
「まあ、そうだろうな。兄なんかは別れたあとに必ず、こうなると思っていたと自信満々に言うんだ。酷いだろう?」
「それだけ心配していたんじゃないかな? ユキさんの兄上は優しくていい人なんだね」
拗ねたように口を引き結ぶ雪兎に、リューウェイクは小さく笑う。
これまでしっかりした大人という印象が強かった彼だが、気の抜けた場面が増え、恋人へ見せる表情に変わってきた。
くすぐったい感じがしても、リューウェイクはそれがひどく幸せと思う。
単にひたすらに護ろう、支えようとするだけでなく、甘えて寄りかかろうとしてくれるのが嬉しかった。
「新年の行事にリュイは出ないんだよな?」
「うん。表立って参加はないかな。宴は催されるけど、王族は陛下と王妃殿下の顔見せくらいだし、第三は城の第二や、城下の第四の補佐に回るのが毎年恒例だね。今回はオウカさんやユキさんは参加しないと、か。顔見せだけだろうけど、面倒だよね」
「長時間そこに縛られるとかではないみたいだから、少しは頑張るさ。終わったら一緒の時間は過ごせるか?」
「無事に終われば翌日から三日間、緊急時以外はみんな休めるから」
「そこでフラグを立てるなよ」
なにげない話をしながら笑い合う、人として当たり前の日常を生まれて始めて味わい、リューウェイクが浮かれてしまうのはどうしようもない。
常に神経が張り詰めて、気を抜く余裕もない日々を送ってきたのだから、反動というものは避けようがないだろう。
これまでは些細な違和感も見過ごしはしなかった。
己がした大きな失敗に気づいた時、リューウェイクは雪兎の〝フラグ〟という言葉を思い出す羽目になる。
新年の幕開けを翌日に控え、リューウェイクはその日も慌ただしい一日を終わらせて、とっぷりと日が暮れた頃に自室へ戻った。
翌朝に時間の余裕がある夜は、雪兎の部屋で一晩過ごすけれど、さすがに大規模な催しの前夜に、頭を恋愛思考にしておくわけにはいかない。
部屋に持ち込んだ書類をソファで読み返しながら、メイドの淹れてくれたお茶でリューウェイクはひと息をつく。
今夜中に当日の人員配置や、人の流れを把握しておく必要があった。
城の催しは貴族向けの宴で、内容としては陛下への挨拶待ちを利用し、家門の当主たちが他家と交流をする場としている。
年末なので、王都にいる貴族はさほど多くないため、大仰な催しではない。
城下では年明けを祝う新年祭が毎年、広場周辺で行われていた。
第三はどちらにも関与するので、どの隊がどの場所にいるのか覚えるのが大変だ。
「オウカさんの言っていたスマホ、とかいうのが欲しい」
音声や文字を離れた場所にいる相手と交わせる。
騎士団員にとって、喉から手が出るほど欲しい代物だ。小型で携帯できる通信具があれば、遠征でも役に立つだろう。
研究室に構想だけでも伝えておこうと、リューウェイクは頭の隅に留め置いた。
「殿下、お茶のおかわりをお持ちしました」
「ありがとう。でももう遅いから皆、今日は下がっていい」
「はい、ありがとうございます」
部屋の時計を見れば、かなり夜も更けた時刻だった。年末はいつもリューウェイクは遅くまで仕事をする。
そのためこうしてメイドや侍従が、わざわざ主人に付き合い、隣室で控えて気を配ってくれた。
普段の執務での夜更かしは、早く寝るよう促されるのだが、さすがに新年の宴を間に合わせの対応で済ませられない。
ゆえに遅くまで付き合ってくれるのだ。
「あっ、そういえば君、年が明けたら結婚すると言っていたな。私からも祝いの品を贈らせてもらうよ」
「……は、はい。光栄でございます」
お茶のおかわりを注いでくれた彼女が以前、報告してくれた内容を思い出す。
なにを贈るべきかと考え、相手は誰だったか、まず記憶を探る。
第一騎士団の隊長格の人物で、年若いため立場が安定するまで結婚を控えていたと言っていた。
幼い頃に婚約をした間柄だと聞き、その時も祝いの言葉を贈った。
(結婚というのはある種の一区切りだよな。仕切り直して新しい人生を次は伴侶と歩む)
退室していく彼女の背中を見送り、結婚という言葉にリューウェイクは感慨深い気持ちになる。
この世界でも雪兎の世界でも結婚は叶わないが、新しい世界に立つのも一区切りだと思えばいい、そう結論づけた。
帰還の術の完成は大詰めだ。基本的な構造は完成しているので、人間を三人という物量を、どのくらいの魔力で移動させられるか。
両手で抱えられる程度の大きさは送れるらしく、いま研究員たちは物質と魔力の計算に頭を悩ませている。
計算を間違い、全員を送りきれず異空間に取り残しては問題だ。
だがあとは計算式の完成と魔力の確保をするだけで、異世界への帰還が可能となる。
「我が国の研究員と魔法使いは優秀だな。過去の偉人たちが残した研究を、時を経て成功へと繋げた。それだけ成長してきたという証しだ。古くから召喚術は存在したが、あれは女神にうかがいを立てて、門を開いてもらい、喚び寄せる仕組みだ。似ているようでまったく違う」
今回の時空転移魔法は膨大な魔力を必要とするので、現状は頻繁に行えない。それでも時が過ぎれば、また人が文明を発達させるだろう。
領地と王都の行き来など、長距離移動が可能な転移門ができたらどれほど便利か。
「夢が広がるとはこういうことだな」
生まれ落ちた世界を離れるとはいえ、そこに生きる民たちは皆、リューウェイクにとって愛おしい存在なのだ。
彼らの未来を明るいものにする努力は惜しみたくはなかった。
「僕がいるあいだにできる、こと……っ」
今後の展開に思いを巡らせながら、書類に視線を落としていたリューウェイクだが、ふいに頭がくらりとしてめまいが起こる。
書類の文字が霞み出した状況を、とっさに把握しようとしたものの、これは眠気などという可愛い表現では済まない。
強制的に意識を奪おうとする、この頭を朦朧とさせる原因はなにか。
いまにも落ちそうな意識を引き止めて、最後に口を付けたカップに気づいたところで、リューウェイクの意識は途切れてしまった。