第36話 上がるではなく落ちる

「ここは、魔物の森? 深層部か」

 改めてリューウェイクが自分の周囲を見回すと、積もった雪は見当たらず、青々とした木々が目にとまる。
 真冬の季節にそぐわない景色だが、水晶を収めた祠よりもさらに奥にある、森の深部であれば納得だ。

 人の世界と神の世界の境界とも言える場所で、招かれた者しかたどり着けない。
 リューウェイクも騎士団の初めての任務で、一度だけ迷い込んだけれど、それ以降は今日が初めてだ。

 祈りの塔の召喚陣が描かれた舞台は、この場所を元に作られたらしく、森の中に円柱に囲まれた、大きな石造りの舞台がある。
 まるで巨大な祭壇にも見えるそこに、ラーズヘルムの始祖へ会いに来た女神が降り立ったらしい。

「もしかしてここから?」

「ああ、帰る。桜花もいまこちらに向かっている。もうすぐ着くはずだ」

「魔法陣は完成しているようだけど、足りない魔力は」

 石段を登って舞台に立つと、そこには大規模な魔法陣が描かれている。
 研究室で見せてもらったものより、ずっと精巧で繊細な陣だ。

「実はもう女神の堪忍袋の緒が切れそうでな」

「カンニンブクロ?」

「要は我慢の限界だから、足りない分は自分が補うので、早くリュイを連れて行ってくれって」

「なるほど。人の力で乗り越えてほしかったけれど、黙っていられなくなったんだね」

「そういうことだ。俺に大人しくしてろって言うクセに、女神が俺よりよっぽど毎日文句たらたらで。神殿に行かなくても毎時毎分、話しかけてくるからうるさいのなんのって。だったらお前がなんとかしろって何度叫んだか」

「女神さまも世界に干渉しきれず、鬱憤が溜まってしまわれたのだな」

 ため息交じりに語る雪兎にも笑ってしまうが、あまりにも女神が人間くさくて、リューウェイクはそちらのほうがおかしかった。
 遙か昔は、人の世でラーズヘルムの始祖と共に暮らしたらしいので、女神の人間っぽさはそこから来ているのだろう。

 本来、神という存在は偉大で慈悲深く傲慢と言われる。いまの女神に傲慢さがないのは、始祖がよほど優しい人柄だったのか。

「リュイ、女神はどうでもいい。大人しく待っていた俺を褒めてほしい」

「本当に大人しく待っていた?」

「それは、少々……鍛錬に力が入りすぎた気はするが」

「団員たちに八つ当たりなんて、ユキさんの意外な面が知れたな」

「すまない。怪我をさせるような真似は」

「わかってる。待っていてくれてありがとう。僕を助けに来てくれてありがとう」

 気まずげに視線をさ迷わせた珍しい姿に、リューウェイクは口元を緩め、雪兎を強く抱きしめた。
 大きななにかを成し遂げる力が例えなくとも、リューウェイクにとって雪兎は救世主のような存在だ。

 彼がいるだけですべてが報われる。

「リュイ、最後の確認だ。俺と共に来るか?」

「うん、もちろんだよ。約束したよね? これからはずっと傍にいるって」

「ああ、ずっと傍にいる」

「だったら迷わない。あとの問題は全部みんなに丸投げしようと思って」

「そうか、いい意味で変わったな」

 あっけらかんと言い切ったリューウェイクに、雪兎は優しく目を細めた。
 一歩後ろへ下がった彼は、リューウェイクの手を取ると、引き寄せて手のひらに唇を落とす。

 誓いのような、懇願のような口づけをして、まっすぐと見つめてくる暗赤色の瞳にリューウェイクは頬を熱くした。

「リュイ、必ず君を幸せにする」

「ありがとう。僕もユキさんを幸せにする」

 見つめ合ったリューウェイクと雪兎は、そのまま顔を寄せそうな雰囲気ではあったが、打ち破る咳払いで二人だけの世界から抜け出した。
 ほとんど雪兎しか視界に入っていなかったこの場には、ベイクたちのほかにも第三騎士団の面々が控えている。

 まるで結婚式の一場面かのようなやり取りに皆、ニヤニヤとしていた。

「案の定、二人の世界だ。……まったく。せめて直接最後の挨拶はしてくれよ。今後も文章のやり取りはできるとはいえ、こうして俺たちが言葉を交わすのは最後なんだぞ」

「……そ、そうだな」

 生ぬるい眼差しが注がれて、リューウェイクの頬は先ほどの比ではない、発熱したみたいな熱さに変わる。
 気を取り直すために咳払いしてみるが、正直格好がつかない。

「副団長! ユキトさまと幸せになってくださいね!」

「オレたちはこれからもずっと殿下やユキトさまを忘れません!」

「落ち着いたら手紙くださいよ! 神殿にリュークさま専用の魔法陣、置いてもらうことになったんす!」

「あとから色々送りますね。必要なものがあれば手紙に書いてください」

「いまはもう一度会える可能性は少ないけど、研究室のみんなが里帰りできるようにするって言ってました!」

「あ、たとえ叶わなくても声とか、姿を写せるくらいはしてみせるって!」

 口を開くよりも先に、次々と投げかけられる仲間たちの言葉に、リューウェイクの中で感情が大きく膨れ上がる。
 昂ぶる気持ちと共に、喉が詰まり熱くなってきて、こらえる間もなく紫色の双眸から涙がこぼれ落ちた。

 泣きそうになっていた姿は見たものの、初めて見るリューウェイクの涙に、団員たちは途端にオロオロし始める。
 それでも雪兎が優しく抱きしめる様子を見ると、ほっと息を吐いた。

「ありがとう。君たちと過ごした日々は、私にとってなによりかけがえのない時間だ。共にいたからこそ私はこれまで腐らずいられた。どこにあろうとも決して忘れないだろう。この場にいる者たち、ここにはいない者たち、第三騎士団すべての者に感謝と敬意を」

 団員たちは敬愛する副団長から伝えられる、最後の言葉を聞き漏らさないように、必死で嗚咽をこらえようとする。
 リューウェイクもさらに涙腺が刺激されて、いまにもこぼれてしまいそうになる。

 こうして顔を見て語りかけられるのはこれで最後。
 全員に会えないのは残念ではあるが、きっといま耳を傾けている者が一言一句、漏らさず伝えてくれるはずだ。

「第三騎士団の諸君! 自分の信念を、騎士団の志を忘れるな。理不尽に黙って打たれる必要はない。君たちは正しい道を掴める力を持っている」

『女神はいつでも正しき者に加護を与える! 未来で輝く星が迷う時はその手で引き戻せ! そなたらの生き様を女神は見ておられる』

 ふいにリューウェイクの言葉に続いて、低く響く声が頭に直接響いてきた。
 周囲の草木が揺れたかと思えば、颯爽と巨躯の白き聖獣が駆けてくる。

 素早く舞台の上に立つと、バロンは咆哮を上げたあと身を伏せて、背に乗せた桜花が下りるのを待った。

「わぁ、なんか決起集会みたい。女神さまからの伝言だよ! リューくんが去ったのちは〝新しき星〟に加護を与える。国の民はの星と共に正しき道を歩むように、とのお言葉です!」

 ふわりとバロンから桜花が下りた瞬間、緊迫した空気が解けた。
 それでも女神の伝言を聞いた騎士団の面々は、気持ちを引き締め、一斉に騎士の敬礼をする。

「我々、第三騎士団は女神の守護する星に忠誠を、護り導くことを誓う!」

 女神からの言葉は近いうち、神殿から神託として伝えられるだろう。
 盟約を結んだとされるルーベントは、まだ十四歳なのですぐに即位は困難だ。

 時期が来るまで王位は据え置いて、舵取りはアルフォンソが行うに違いない。
 些か心配が残るけれど、民に混乱を与えずにおくため、現状ではそれしか方法がない。

 自分の行動で、ここまで時代が動くとは思っていなかった。
 それでもリューウェイクは正直言って安心をした。

 女神の加護などなければ、リューウェイクが生涯、我慢をしても、グレモントの治世は最後まで続いたはず。
 もしそうだとしても、歪な思考までもが末代へ続いてはならない。

 ただこれからルーベントは、凄まじい重圧の中を戦わなくてはいけない。支えてあげられないのが唯一、リューウェイクの心残りな部分だ。
 アルフォンソがそこを手助けできるかは怪しい。

「おい、こら! リューク! 丸投げするんじゃなかったのか!」

「あ……そうだった」

 いつもの癖で、考え込み始めたリューウェイクに気づいて、ベイクの声が飛ぶ。
 ハッとしてリューウェイクが顔を上げると、皆が忍び笑いをし始めた。咳払いをして姿勢を正すものの、途端に大きな笑い声が辺りに響く。

「あとの厄介はすべて任せろ! ボルフェルタ団長もケインの実家も王子殿下の後見に名乗りを上げる。ほかにも次々と有力な家門から声が上がってる。これは全部――リューク、お前の功績だ。お前が少しずつ着実に積み上げた信頼の証しだ」

「……そうか。わかった。あとは任せた」

 直接リューウェイクが関わった家門は多くないとしても、そこから広がる縁というものがある。
 細々と続けてきた交流がこんな形で実を結び、心の内に充足感が溢れた。

「じゃあ、そろそろ帰ろっか」

『全員、魔法陣に乗れ』

「リュイ、行こう」

「うん」

『おお、そうだった。帰る前に一発、花火が上がるそうだぞ』

「ハナビ?」

 三人が魔法陣に乗りいざ、という時にバロンが思い出したように空を見上げた。
 視線の方角には王城があるけれど、花火の意味がわからずリューウェイクはバロンにつられ、夜の暗い空を見つめる。

 そして数秒ののち、雷雲もないのに突然巨大な稲光が空に走った。
 音は聞こえなかったものの、雷の迫力は遠く離れているのにまざまざと感じさせられた。

 ここで見えるということは、王都だけでなく、近隣の領地でも見えたのではないだろうか。

「え? ハナビってあれか? いまのは大丈夫なのか? かなり凄まじい雷だったぞ」

『心配するな。王座のある位置に落ちたはずだが、屋根に穴が空いた程度だろう』

「バロン! 屋根に穴が空くのはその程度とは言わない! ハナビとか言うやつも、上がるんじゃなくて落ちたぞ!」

『聖者は花火は煌びやかな光だと。怒り心頭になったら雷が落ちるのだと言っていたぞ。どちらも一緒ではないのか?』

「はぁ? それはたぶん、なにか違う」

 きょとんと首を傾げる聖獣に、リューウェイクは大きなため息を吐いた。
 元凶である雪兎は桜花と共に、頭上で互いの手を打ち鳴らして喜びをあらわにし、雷の派手さで大いに盛り上がっている。

 驚くどころか随分と楽しそうだ。

「ああ、もういい! バロン、行くぞ! 僕はあとのことは考えない! 城の修繕費がいくらとか考えないからな! 皆に任せた!」

『よし、三人で手を繋げ。行くぞ』

 雪兎と桜花の手を握ると、足元の魔法陣が光を帯びてキラキラと輝き始めた。
 ゆらゆらと立ち上る光の粒子が舞い踊り、辺りが少しずつ霞んでいく。

「第三騎士団、副団長リューウェイク・ロズレイ・ラーズヘルム殿下に栄光あれ!」

 かき消えていく景色の中で、最後に騎士団全員の声が聞こえた気がした。

 落雷の夜を最後に、ラーズヘルム王国から〝女神の愛し子〟が消え去り、救済者である聖女も同様に現れなくなった。
 祈りの塔にある召喚陣は音もなくひび割れ、聖女召喚に関する書物は忽然と消え去ってしまった。

 この先、二度と国は聖女召喚を行えないだろう。
 唯一、最後に聖女が遺した、聖遺物が国に残されたのは女神の慈悲か。