第三幕

 目が覚めると、部屋には暁治一人だった。時刻はそろそろ明け方ごろだろうか。布団から手を出して、隣の窪みを触ると、まだ温かくてほっとする。

 起きようとして、シーツに残る残り香に気づき、昨夜のことを思い出して一人悶えた。もしかして、と思う。まさかこの部屋で寝るたびに思い出すんじゃないだろうな。
 かといって、居間で致しても同じだったろう。暁治は吐息をつくと、頭を切り替えようと目を閉じた。

「おはよ~はる、ちょうどご飯できたよ」

 ひょっこり。扉が開いて、朱嶺が顔を出した。まさか彼が目が覚めたのに気づいたのだろうか。あまりのタイミングのよさに、暁治の目が丸くなる。

 どうやら朱嶺はご機嫌らしい。クリスマスプレゼントにと、キイチが嫌がらせで買った、ピンクのフリフリエプロンを着て、お玉を持っている。字面だけだと新婚ほやほやの若妻のようである。
 嫌がらせは本人にまったく効力はないが、周りへの視覚の暴力は健在だ。変に似合っているところが余計に。

「今朝はなにを作ってくれたんだ?」

「えっとね、雑穀ご飯としじみのお味噌、白菜のお漬物とにんじんのシリシリ、メインはおっきなホッケの開きだよ。愛情たっぷり込めて作ったからね」

「ふむ、味噌汁とホッケの開きは、後で温め直せばいいな」

「え、そりゃ後からなら――」

 きょとんっと、目を瞬かせた朱嶺の腕をつかむと引き寄せる。腕に囲って布団の中へと引き込んだ。

「なんだよお前、冷え冷えじゃないか」

「って、そりゃさっきまで台所にいたし」

 暴れた拍子にお玉が部屋の隅に飛んだけれど、暁治に頬をすりすりされて大人しくなった。美味しいものをいっぱい食べて、栄養が行き届いているに違いない、もちもちの肌だ。

「もぉ」

 背中に手を回して、ぎゅうと抱きつく。口を尖らせてみてはいるが、日ごろスキンシップ欠乏症ゆえに長続きしない。腕の中で暁治の胸に耳を寄せると、少し早い鼓動が聴こえた。ほにゃりと朱嶺の頬が緩む。そのため聞き逃してしまった。

「一人になりたかったんだよなぁ」

「なぁに?」

 首をひねると、暁治が視線を下げて朱嶺を見た。珍しく機嫌がいいのか、口角が弧を描く。

「いや、ここに来た理由だよ」

「うん」

「あっちで色々あってさ。しがらみとか全部、嫌になってここに来たんだ。一人になりたかった」

「そうなんだ?」

「だから最初は苦手だったんだよな。お前のこと」

「えぇ、そうなの!? 僕のこと迷惑だったの?」

「すっごい迷惑」

「えぇ!?」

「って思ってた、最初はな」

 じたばたと暴れる赤い髪を押さえ込むと、なでなでと頭をなでてやる。

「でもなぁ、やっぱ今はいいかな」

 触り心地いいし、なによりこの季節、温かい。

「俺結構冷え性だからなぁ、お前あったかいだろ」

 毛並みもいいし。赤くてふさふさ。

「はる、僕をわんこと間違えてない?」

「犬はもう少し可愛げあるぞ」

「もぉ!」

 ぺしぺしとおでこを叩かれて、暁治が失笑した。ついで声を立てて笑う。

「嘘うそ、お前がいないと寂しいよ。家の中で灯りが消えたみたいだ」

 明るくて騒がしくて。いないと寂しい。毒されてる気がしないではないが、彼がいない人生なんてつまらないと思うほど。

 ぎゅうと、温かい身体を抱きしめる。朱嶺はぴくりと震えたかと思うと、おずおずとまた背中に腕を回した。

「ほんと?」

「ほんとほんと」

 よしよしと頭をなでてやると、複雑そうな表情が浮かぶ。

「なんか騙されてるような気がするんだけど」

「気のせい気のせい、好きだぞ朱嶺」

「僕も大好き!」

 あっという間に機嫌が直ったようだ。こいつ、こんなに単純で大丈夫なのだろうか。自分を棚上げして、心配になる暁治だ。

「えへへ、そうだ、実は僕、はるにまだ言ってなかった言葉があるんだ」

「ん?」

 もじもじと、しかし期待に満ちた眼差し。伸びてきた両手が、暁治の両頬を包み込むと、こつんっとおでこが合わさった。

「ほんとは僕らの再会の日に、言わないといけなかったと思うんだけど」

「なんだ?」

 すぐそこにある朱嶺の瞳を覗き込む。そこに映る自分を見て、我ながらこんなに優しい顔もできるのだと、ひとつ発見してしまう。
 そうだ、彼といるといつもなにか新しいことを見つけているような気がする。それは暁治にとって、目には見えなくても、きっととても大事なもの。

 朱嶺はゆっくりと言葉を告げた。その言葉に、暁治も口を開く。お互い笑い合うと、優しい時間ごと、相手を抱きしめた。

「はる、おかえり」

「おぅ、ただいま朱嶺」

第二幕

「美味しかったぁ!」

ぽんぽんっと、朱嶺はお腹をさするとそのまま横になる。テレビからは今夜が初登板だというシンガーソングライターが、最近有線でよく流れている曲を歌っていた。

「お腹いっぱい。いつもお代わり言わないでも、これくらい食べれたらなぁ」

「お前、これ十人前のつもりだったんだが」

明日みんなで食べようと、かなりの量を作ったつもりの鍋は、ほぼ空になっている。こいつの胃袋はどうなっているのか、一度ぱっかり開いてみたい暁治だ。

「大丈夫だよ、はる。僕なら軽い軽い」

「そういう意味じゃない! お前は食い過ぎだっ!!」

「えへへ、それほどでも」

「褒めてない! ちっとは控えろ」

「食べ盛りなんだよぅ」

「三百歳超えててなに言ってんだこの馬鹿!」

宮古家の収入を一人で食い潰す食欲魔人、朱嶺。キイチがいたら、張り合ってさらにひどいことになる。今日は一匹でよかった、のだろうか。
運動してこいと、食器の片付けに追い出すと、その間に食後のお茶を淹れる。

「あ、今日はそば茶なんだ?」

「よくわかったな」

「うん、美味しそうな匂いだもん」

祖父の家では正治自身がお茶好きだったこともあり、食後にはいつも色々なお茶を入れて楽しんでいた。実の娘である母は特にそういうことはしない人だったのだが、暁治は一人暮らしを始めてから毎食後に淹れるようにしている。
友人宅でも食後のお茶の習慣は特にないらしいので、この家だけのものかもしれない。

ちなみに妹はずぼらな母親似、暁治はまめな父親似とよく言われる。母親が祖父の習慣を引き継がなかったのも道理だろう。

そば茶は崎山さんからのお裾分けだ。親戚が趣味で栽培しているらしい。家庭でも育てやすいと聞いて、春になったら栽培してみようかと思っている。

「なんか、静かだね」

「そうだな」

なんとなくソワソワとしていると、朱嶺と目が合った。

「どうかしたの?」

「い、いや、なんでもないぞ!」

「そっか」

「うむ、なんでも、ない」

手にした湯呑みを両手で握る。朱嶺とお揃いの湯呑みは、先日の温泉土産だ。こちらの世界を手本にしているだけあって、土産物は充実している。

部屋から見える庭には、雪が降っていた。寒いはずである。
しんしんと、雪の音を表現したのは誰だったろう。この季節は東風が吹くらしいが、風はまだ冷たい。黙ってお茶を飲む二人の間に聞こえるのは、テレビの音だけだ。

暁治は湯呑みをテーブルに置くと、両手で包み込んだ。静かな夜だ。そう、二人っきりなのだ。そこまで思うと、ぐぐぐっと指に力を入れていたのに気づいて、湯呑みからぱっと手を離す。

「はる」

「なっ、なんだ!?」

「お茶のお代わり、いる?」

「おっ、おぅ! 貰おう」

でんっと湯呑みを前に出すと、朱嶺が甲斐甲斐しく茶を注いでくれた。
はいっと笑顔で差し出される湯呑み。
しばし、静寂の時が流れる。

「はい、おかわり」

「ありがとう」

礼を言いつつも、受け取った暁治の眉が寄った。キリキリと、コイルのように巻き始める。

「ねぇ、なんかあった?」

朱嶺が訝しげに訊いてきた。

「別に、なんも、ない」

「え? だって唇がアヒルみたいだよ? むにゅって」

「なんでもないっ!」

暁治は右手で口元を隠す。なぜだかどんどん不機嫌になる恋人に、朱嶺の首が傾いた。

「でも」

「うるさいなんもないんだよ! 気づけよこの鈍感馬鹿!」

「へ?」

「もういい、寝る!!」

「えっ、ちょっと待って」

立ち上がりかけた暁治の腕を取る。いつもは能天気な朱嶺も、さすがにここに来てなにかがまずいことに気がついたらしい。

「えぇっと」

腕を握ったはいいものの、朱嶺はこの先どうしたものかと考える。いつもならここで合いの手を入れてくれる駄猫も、拗ねた暁治を癒やしてくれる桃や雪もいない。

「あれ?」

朱嶺がきょとんっとした表情を浮かべた。なにか、忘れているような。
目の前には不機嫌そうな暁治の顔。頬が少し赤らんで、潤んだ瞳に朱嶺が映っている。とてもとてもお間抜けそうだ。

「え?」

きょろきょろ、辺りを見回す。

「放せ」

「え、いやちょと待ってよ。え、誰もいないって」

まさか、と口が開いた。
間抜けな声に、ぐぐぐぅっと、暁治の眉が寄る。

「えと、もしかしてもしかしたら据えぜ――」

ぐいっと腕が引っぱられると、くるりと身体が回転した。背中には畳の感触。上には暁治がいる。のし掛かられて、腹の上に重みを感じた。
やけに真剣な表情を浮かべていて、朱嶺は知らずこくりと息を呑む。

「黙れ」

吐息がかかるほど顔が近づいてきて、噛みつかれた。口元に。

「んぅ……」

くちゅりと、忍び込んできた舌を、無意識のうちに絡め取る。すっかり慣れた互いの唇から吐息が溢れた。

「はる」

朱嶺の眼差しが、熱を帯びる。

「ごめん、まさかと思ってた」

思えばこの家に転がり込んでから、潜り込んだらベッドから蹴り出されるわ、うるさいと部屋から追い出されるわ、この家では恋人同士のお付き合い禁止だと、頭の中に刷り込まれていたらしい。

どちらと言わなくとも、拒否しまくった暁治が悪い。

「うるさい」

図星を突かれて機嫌を損ねたらしい。朱嶺の鼻がぎゅうっと摘まれた。くぐもった声が漏れる。
今日は怒らないイライラしない優しく。先ほどまで唱えていた呪文は、まったく効き目がなかったようだ。

痛む鼻を押さえる朱嶺は、不機嫌そうな彼の顔を見上げる。
思えば、キイチはともかく、桃や雪までまとめていないのはおかしい。あきらかに意図的な排除で、それができるのはこの家の家主だけだ。

「今日でちょうど一年なんだよ」

暁治は、なにをとは言わない。そういえば、ちょうど今ごろだったことを思い出す。

「なるなる、引っ越し記念日かぁ」

「それと再会記念日だ」

拗ねたような口調に、朱嶺はこの普段は頑固で意地っ張りな恋人が、意外に記念日にこだわるタイプなのを知った。

「そっかそっかぁ」

ほにゃりと、自然に頬が緩む。
見栄っ張りな彼が、みんなに穏便に外出して貰うため、どんな言い訳をしたのだろうと思うと、胸がドキドキしてしまう。これは歓喜だ。
朱嶺は、僕いっぱい愛されてると、見るからに上機嫌になった。

「別にたまたまだ。たまたま今日がそうだなと気づいただけで、たまたまだからな」

「そかそか、覚えていてくれてありがと」

「うむ」

ちゅーっと、赤くなった頬にキスをする。朱嶺の恋人は、今日はツンテレからツンデレにジョブチェンジしたらしい。口に出したら怒り狂うから言わないが、可愛いマジ可愛い。うっとりする朱嶺だ。
怒りん坊だけど、意地っ張りですぐ不機嫌になるけど、これも惚れた欲目だろう。
朱嶺は腕を伸ばして暁治を抱きしめると、ひょいっと横抱きしたまま起き上がった。お姫様抱っこというやつだ。

「朝までいっぱいイチャイチャしようね」

今日は大人しい恋人を抱え直すと、廊下に出て離れへと向かう。
暁治は彼の言葉に、口を開く代わりに重々しく頷いた。朱嶺の心臓が大きく跳ねる。

「やっぱり僕、すごーく愛されてる?」

「当たり前だ、馬鹿」

いささか甘さに欠けるが、朱嶺にとっては十分なご褒美に感じた。日ごろいかに餌を与えられてないかがわかる。ここに石蕗辺りがいたら、不憫なわんこですねぇと、なでなでしてくれたかもしれない。

ちゅっちゅと、音を立ててキスをすると、ゆっくりと彼をベッドへおろす。
性急に服を脱ぎながら、二人してシーツの中へと潜り込んだ。
冷たい指先を絡めると、朱嶺が軽くキスを落とす。

横目で暁治を見て薄く笑う表情には、いつもの柔らかい眼差しはない。甘く熱を帯びた視線に、暁治はこくりと息を呑む。
例えるなら、野生動物が獲物を見る瞳のようだ。
こんなときの朱嶺は、初めて出会ったころのように傲慢で酷薄そうに見える。ただ、視線だけが熱くて、……溶けそうだ。

「あんま見んな」

「えぇ……、ひどい」

空いていた腕で顔を隠して、憎まれ口をきいてやると、ふにゃりと顔が緩んだ。春のひだまりのような。いつもの朱嶺の表情。

「悪い口は塞いじゃうよ?」

いたずらっ子のように、はむと口を塞がれた。まだ冷たい指に触れられて、吐息が上がる。いつもならしゅんとしおらしい朱嶺も、閨の中では赦されるのを知っているからだろうか。強気で、貪欲だ。
返事の代わりに伸ばした手で背中を抱くと、ふっと雰囲気が緩んだ。

「えへへ、はる、だぁいすき」

身体の中に熱を受け入れる。後はいつものようにただひたすら熱くて、全部が呑まれてしまった。

第一幕

 縁側から見える庭には、雪が降っていた。
 ほの暗い外の景色は、屋内の明かりに照らされて、手前だけぼんやりと明るく見える。 
 ちらちらと白い雪が舞う庭は、人気もなくわびしさが漂う。

 暁治はしばらく白い景色を眺めていたが、やがてさてと振り向くと、こたつの手前に置かれていたストーブに目を向けた。そろそろ灯油が切れそうだ。
 夜半にかけて冷えると、ニュースで言っていたのを思い出す。誰もいない屋敷の中が寒いのは、温度のせいだけではない気がする。

 そろそろ夕ご飯の時間だなと、ぼんやりと思う。思うのだが、なんとなくなにもする気になれなくて、ストーブのスイッチを切ると、その前に座り込んだ。
 まだしゅんしゅんと沸くやかんをぼんやりと眺める。

 ――一人になりたかったはず、なんだがなぁ。

 だが実際、一人になるとこうだ。やる気スイッチがまったく入らない。
 こたつに潜ると、準備していた熱燗を、ちびりちびりと口にする。肴は炙ったイカだ。噛むほどに口に甘みが広がって、ずっと咀嚼していても飽きない。このままダメこたつ人間になってしまいそうだ。

「今日は怒らない。今日はイライラしない。今日は優しく優しく」

 こたつに潜ったまま目を閉じて、口の中で呪文のように呟くと、ゆっくりと目を開けて、よしと頷いた。
 ふと耳に、電子音が届く。玄関のチャイムの音だ。
 そうだ、あれもこんな夜のことだった。

「怪語れば、怪来たる。だっけ」

 確かに怪は来た。思っても見ない形だが。
 まぁ、別の意味ではハラハラドキドキさせられたし、イライラむかむかもした気がする。
 暁治の眉が自然に寄った。
 もう一度、チャイムの音がした。と思ったら、次いでピンポンポーンっと、リズムを取りだした。うるさい。

「はいはーい」

 ペタペタと、裸足で廊下に出て、背筋を駆け上がった冷たさに一瞬後悔したものの、玄関はすぐそこだ。
 明かりのスイッチを入れると、引き戸の向こうにぽっかりと黒い影が浮かぶ。

「宮古さん、お届け物でぇ~っす!」

 どこかウキウキした口調の配達員は、そう言って引き戸をぽふぽふと叩いた。

「今冬仕込んだ地酒とお寿司もあるよー。お饅頭もあるよー」

 もしかして配達員ではなくて、新手の訪問販売員だろうか。
 などと思わず現実逃避してしまったが、この声は聞き覚えがありすぎた。

「お前家の鍵持ってるだろ?」

「いやー、あいにく手が塞がっててさぁ。はるぅ、開けて開けてぇ寒いよぅ」

「まったく」

「もう、愛しの朱嶺くんのお帰りですよ。開けてぇ、ハグしてぇ、ちゅーしてぇ!」

 叫びながらシルエットが身をよじる。お隣の家まで数十メートルあるが、とても近所迷惑だ。
 
「うるさいうるさい、ちょっと待ってろ」

 恥ずかしいやつだと思いつつ、まんざら嫌でもない自分が腹立たしい。

「早くぅ、愛しの旦那様のお帰りだよぅ」

 誰が旦那様だと心で突っ込む。そもそも旦那というが、別に籍を入れたわけではない。
 鍵を開けて扉を開くと、大きな風呂敷包みを抱えた男が立っていた。

「はるぅ、たっだいまぁ」

「……おかえり」

 一言告げると、反対の手に下げていたエコバックを奪う。自分でももしかしたらそっけなかったかもしれないとは思ったけれど、今更取り繕ったり喜んだりするのはらしくない気がして、暁治はさっさと居間へと戻った。

 その後を歩く朱嶺は、気を悪くした様子もない。慣れているのだろう。安堵する反面、それもどうなんだろうと、いささか気分が落ち込む。
 居間へ戻るとストーブの火が消えたせいか、空気がひんやりとしている。

「おい、灯油を注いでこい」

 言った後で、朱嶺が帰ってきたばかりなのを思い出したが、彼は気を悪くした風もなく、「わかったぁ」と荷物を置いてストーブに向かった。
 すっかり朱嶺使いが荒くなっている。

「……仕事お疲れ様」

 これくらいは言うべきだろう。せっかくの土曜だというのに、学校が終わってから石蕗の家でなにやら手伝いをすると出かけていたのだ。手伝いと言ってはいるが、管理人とやらの仕事なのは間違いない。

「うん! ありがと!!」

 ポリタンクを持って来た朱嶺から、満点の笑顔が返ってきて、なんとなく目をそらす。

「今日はなんか静かだね」

 いつもなら騒がしいくらい賑やかな我が家なのに、今日は人の気配がないのに気づいたらしい。

「キイチと雪は桜小路の家に飯を教えに。そのまま泊まるらしい。桃は宿の方に遊びに行ってる」

 聞けば桜小路は宮古家で食べないときは、外食しているらしかった。夜はこちらで食べるにしても、朝ご飯くらいは作れるようになった方がいいだろうと、キイチが教えに行くことになったのだ。

「ふぅん。今夜は僕らだけかぁ。なんか珍しいね」

「まぁ、な」

 少し口ごもる。

「それより飯は食ってきたのか?」

「まだだよ。なにか残ってたら作って食べようかと思って」

「俺もまだだから、一緒に食べるか」

「あ、そうなんだ? うん、食べよう食べよう」

 朱嶺はお皿の準備するよと、空のポリタンクを持って台所へと向かう。暁治は後から台所へ入ると、奥の鍋に火をつけた。

「今日のご飯はなぁに?」

 お鍋の蓋を射殺さんばかりに睨んでいた暁治は、後ろからかけられた声に飛び上がる。

「はる、どうしたの?」

「なんっ、でも、ないっ! 今日はおでんだ」

「おでん!! いいね、寒いしあったまりそう」

「だろ? 昼から煮てるから味も染み染みで美味いぞ」

「やったぁ! えへへぇ、楽しみ。あ、ご飯なんだけど、『菊花堂』のいなり寿司があるよ」

「そうだろうと思って炊いてない」

 いなり寿司は、石蕗家のお土産の定番だし、宮古家では元々おでんのときは基本ご飯を炊かない。

「さっすがぁ! お箸とお皿、持っていくね」

「おぅ」

 いそいそと皿を準備する朱嶺を横目に、暁治は胸を押さえると、小さく安堵のため息をつく。ぐっと拳を握ると、鍋の蓋を開けた。

末候*鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)

 もうすぐ一年が巡る。
 朱嶺に出会って、春夏秋冬と季節をまたいだ。最初の頃は、まったく信じていなかった、妖怪たちの存在がいつしか日常に変わった。

「暁治さんはお料理が上手ねぇ」

「ああ、まあ、だいぶ慣れました」

 日がうっすらと昇る頃、台所では朝餉の香りが漂っている。せっせと暁治が卵焼きを焼いている、そこは宮古家ではない。
 女中を何人も抱えた、天狗の屋敷だ。

 近頃の暁治は、幽世と現世を行ったり来たりしている。あやかし修業、と言うべきなのか。朱嶺たちの世界で勉強している最中だった。
 ついこのあいだ、指輪の交換をしたばかりなのだが、では早速と管理人の管理人。その仕事を任されることになったのだ。

「じいちゃんの跡なんて継げるのかな。もっと話を聞いておけば良かった。いまごろ仕事なんて忘れて、あの世でばあちゃんとのんきに暮らしてそうだよな」

 元は祖父がしていた仕事だけれど、なんの役割があるのか、暁治はさっぱりわかっていなかった。かいつまんで言えば、こちらとあちらを繋ぐ門、それを管理する役割。
 人間が誤って迷い込まないように、妖怪たちが好き勝手に出入りしないように、二つのあいだを護る門番だ。

 とはいえまだまだ見習い中で、幽世に渡る時は桃のお世話になっている。そのうち自分の力で、渡れるようになるらしい。
 けれど気をつけなければならないことがある。

 幽世にいるあいだは、時間が流れていないに等しい。人の世よりも、時間がゆっくりなのだとか。
 うっかりすると百年経っている――と朱嶺が言っていたやつだ。そのうっかりで、失踪騒ぎになっては大変だ。気をつけるべし。

「綺麗な黄金色の卵焼きですね」

「ありがとうございます」

 女中がしらの寧々がにこにこと笑い、暁治の作った卵焼きを味見する。固唾をのんでそれを見守ると、うんうんと大きく頷いた。

「これならお頭さまも、気に入ってくださいますよ」

「よ、良かった」

「お頭さまは甘い卵焼きが大好物なんです」

「そうなんですか」

「ええ、いまではいつでも鶏の卵は食べられますが、昔は大変貴重だったんですよ。春から初夏が旬と言います」

「卵に旬なんて、あったんですね」

 ここにいると色々な話を聞く。鶏の話で言えば、昔は時計などなかったので、雄鶏の鳴き声で朝の訪れを知ったそうだ。
 いまでも寧々たち女中は、その習慣が身についている。今朝も目覚ましなしで、みんな起きていた。

「御味御汁は白だし、お漬物はカブがお好みです」

「なるほど」

 朱嶺の好みはこの一年で覚えた。なのでいまは、お舅さんやこの家の人たちの好み、それを覚えている最中だ。わりとそれぞれこだわりが多い。

「一番上のお兄さんは、納豆ご飯。庶民派だな。ええっと、三番目は」

「あら、桜小路さま」

「おはようございます」

 メモをとりながら歩いていると、隣の寧々がにこやかな笑みを浮かべた。視線を上げれば、廊下の先から大男が歩いてくる。彼は最近あやかしの仲間に入れてもらった、幼馴染みの桜小路。昨晩はこの屋敷に泊まっていた。
 今日はとあるお披露目があって、親しい友人も招くよう天狗の頭領に言われていた。桃は家と、旅館内にしかいられないので、雪とお留守番だ。

「おはよう、桜小路」

「宮古は朝からか?」

「ああ、そうだ」

「嫁入り、するんだってな。昨日の晩、朱嶺から惚気話を聞いた」

「嫁っ? 惚気っ?」

「ん、ああ、婿か? うん、でも大層喜んでいたぞ」

「……そ、そうか」

 嫁、と言う部分は気にかかるけれど。喜んでいたと言われると、悪い気はしない。しかし照れくさくてそわそわすると、穏やかなまなざしで見つめられて、さらに落ち着かなくなった。

「あの町はいいところだよな。宮古が離れたくないって思うのは、わかる」

「もしかしてお前も、あそこに残るつもりか?」

「それもいいなと思っている。せっかく仲間に入れてもらえたしな」

 彼らがあやかしだと知った時、桜小路は案の定、そうなのか――とあっさり受け入れた。それどころか興味深そうに、あやかしたちのことを訊ねるほどだ。
 長年一緒にいただけあって、そういう大雑把さは、自分に似ていると暁治は思った。

「あら、悟坊ちゃん、お早いですね」

「はぁるぅ~! おっはよぉ」

「なんだよ、朝からテンションが高いな」

 バタバタと廊下を駆けてきた恋人に、顔をしかめる暁治だが、ものともせずに抱きつかれた。うずうずとしたその様子に、ますます眉間にしわが寄る。

「今日はあれ、見せてもらえるんだよね」

「う、う……まあ」

「僕、楽しみぃ」

 周りに花が飛んでいる、気がした。そう思うとこの先へ進むのが、ためらわれる。けれど寧々に、みんながお待ちですよ、と声をかけられてしまった。
 大きな広間には暁治が作った、もとい手伝った。朝餉が次々に並べられている。

「おはようございます」

「うむ、おはよう」

 一番奥、上座に座る天狗の頭領に頭を下げると、鷹揚に頷く。席には朱嶺の兄弟子たちや、ほかのみんなも顔を揃えていた。普段は天狗の仮面をつけているが、この時ばかりは全員素顔だ。
 一番下手に鷹野、その隣にキイチ。河太郎と石蕗はわりと上手側だ。ここで彼らの地位、というものがなんとなく見えてくる。

 朱嶺と暁治も本来であれば、もっと上座になるのだが、桜小路に併せて下座にしてもらった。

「さて、揃ったところで朝餉にしよう。昔は我らと人はともにあった。暁治殿の繋がりを経て、また縁が繋がることを願う」

 頭領の声を合図に、皆で手を合わせる。しばし祈るような沈黙のあと、いただきますと声が揃った。
 何度かここへ訪れているが、こうして全員が集まるのは初めてのことだ。いささか暁治は緊張する。

「この卵焼き、はるが焼いたでしょ? おいしいぃ」

「よくわかったな」

「わかるよぉ、毎日のように食べてたからね」

「ほお、そうか。うん、なかなかに旨いぞ」

 朱嶺の声に、頭領が卵焼きに箸をつける。そして精悍な顔をほころばせて笑った。その表情に暁治はほっと息をつく。

 和やかな朝食が終わると、普段であれば皆、退席するのだが。今日は全員席に着いたままだった。
 その様子に暁治はキリキリと胃を痛める。そして自然と険しい表情になってしまった。隣の朱嶺はそんな暁治の顔を覗き込んでくる。

「はる、変な顔になってるよ」

「だ、誰のせいだ」

「え? もしかして僕?」

「お前があんなこと言わなければ」

 きょとんとした顔をして見上げてくる恋人に、むむっと眉間にしわを寄せるが、パンパンと頭領が手を叩き、その場が静まる。
 さらにはその場にいる全員の視線が、ある一ヶ所に集まった。

 布のかけられた二つのもの。それを見ると、暁治の胃はきゅうっと引き絞られる。だがそんな心情をよそに、かけられていた布が剥がされた。
 一瞬の沈黙ののち、おおっと周りがどよめく。

「わぁぁ、はる! はる!」

「う、うるさい。首を絞めるな首を」

 隣の朱嶺が急に半立ちになり、襟元を掴んで揺さぶってくる。終いにはバンバンと肩を叩いてきた。

「はるの目に映る僕って、あんななの?」

 広間でお披露目されたのは、暁治が描いた朱嶺の絵だ。ぽろっと頭領にそのことを話したらしく、ぜひ拝見したいと言われた。見せるほどのものでは、と言ったものの――まったく聞いてもらえなかった。

 皆がじっと見つめるので、暁治の心臓はかつてないほど鼓動を速める。それでなくとも恥ずかしい。そこにいるのは桜の中、笑顔で振り返る朱嶺と、稲穂が揺れる中で満面の笑みを浮かべる朱嶺だ。
 暁治の目に映る、愛しい恋人。

「そうか暁治殿の前では、このように笑うのだな」

 ぽつりと呟くような声。天狗の仮面をつけてしまって、表情は読み取れない。それでも頭領の声は、しみじみとした、優しい声だった。

「そなたなら、愚息を幸せにできるやもしれぬな。よろしく、頼む」

「は、はい。ど、努力させていただきます」

 振り向いた彼に、暁治は居住まいを正して頭を下げた。
 いままでの朱嶺は知らないけれど、あの町で一年過ごした朱嶺はよく知っている。いまは知らない一面も、この先一緒にいれば見えてくるだろう。

 そして思うのは、どんな彼でも一緒にいたいと思うに違いない、と言うことだ。

「あとは祝言だな」

「う、うっ、来年と言わずにいますぐしたい。学校なんていつやめてもいいのに」

 数秒前まで嬉々としていた朱嶺が、急によよよっと泣き崩れる。その大げさな泣き真似に、ぺしりと手の平で頭を叩く。するとひどーいと、さらに床にひれ伏した。

「馬鹿、お前……学生生活を送れて楽しいって言ってただろう。そういう経験も大事だ。そ、それにだな」

「なに?」

「もう一年先でも、俺の気持ちは……変わらない。たぶん」

「ええっ! たぶんっ?」

「嘘だよ、嘘。変わらないよ」

「も、もう! はるのツンテレ! でもそういうところも好き!」

「うん、俺も好きだよ」

 たまには素直に言ってみるものだ。瞳を大きく丸くした恋人が、頬を真っ赤に染めた。先日の茹でダコに匹敵するその顔に、暁治は至極楽しそうに笑う。

「はる、一生愛してる!」

 この町で季節が一巡するたび、これからも二人の恋物語は紡がれていくだろう。
 昔々、あるところで――そんな幸せのお話。

次候*水沢腹堅(さわみずこおりつめる)

 しゅんしゅんと、ストーブの上でやかんが湯気を立てるのは、冬らしくていい。マグカップに沸いた湯を注いだら、甘いコーンの香りが漂った。
 居間のこたつで暁治はほう、と息をつく。

 寒い冬に、コーンポタージュスープは身に染みる。少しだけ牛乳をプラスしたそれは、まろやかでこの上なく旨い。
 隣で小さめのカップで飲んでいる桃も、ふにゃりと頬を緩めた。

「旨いな」

 こくこくと頷く彼女は、マグカップに夢中だ。

「たまに静かな日もいいもんだ」

 桃とのんびり過ごす昼下がり。今日は居候たちが買い物に出ているため、暁治は留守番だ。雪がこんこんと降る中に、出て行くことにならずにほっとしている。
 恋人は新年から忙しそうにしていて、いまごろ仕事に追われているのだろう。

 姦しいのも慣れたけれど、たまには静かに過ごしたい時もある。

「へぇ、今季一番の冷え込み、か。雪が降り止まないわけだよな」

 いまの時期は一年で最も冷え込むようだ。テレビのニュースが、水道の凍結にご注意ください、と報じている。
 都会ではあまり考えられないが、本当にこの時期は凍る。夜間は蛇口を少し開けて、水を常に流しておく必要があった。

 この町は山もあり海もある。海風が吹いて、寒さが増しているように思えた。温暖化と言われる昨今だが、あまり関係ないのではないだろうか。
 しかし近所に住む崎山の婆さんの話では、昔に比べたら雪が減った、とのことだ。

 田舎町、恐るべし。
 だがここで暮らしていくことに決めたのだから、この冬の寒さにも慣れなくてはいけない。寒さに慣れることは、果たしてあるのだろうかと、暁治は小さく唸る。

『寒い地域では流れる水も凍るんですよね』

『滝や沢の水が凍るそうです。でも水中に氷柱が立って、綺麗らしいですよ』

「へぇ」

 テレビから聞こえてくる声に暁治は相槌を打つ。
 そういえば常に水の入れ替えがされている、庭の池も凍っていた。流れていくものを留めてしまう、寒さ、恐るべし。

「去年、ここへ来た時も、雪の多さには驚いたよな」

 この町に暁治が来たのもいま時期だ。ここへ来て、まずしたのは雪かきだ。門から玄関にたどり着くまでに、雪を掻かなくてはいけなかった。
 立ち尽くす暁治に、近所の人が雪かきのスコップを貸してくれて、終わった頃には寒さを忘れた。

 そしてその日の晩、夜半過ぎに朱嶺が訪ねてきたのだ。
 気づくともう少しで一年になる。彼に会ってからそんなに経つのかと、時の流れを感じた。

 あの日は突然の来訪者に驚いたものだが、それでもほいほいと家に上げてしまう暁治は、かなり不用心だ。
 少年と幼い子供ではあったけれど、見知らぬ相手を簡単に招き入れた。

 それがあやかしがこの家に入る条件だと、知ったのは随分あとだった。騙された、と思うものの、いまやすっかりそれも慣れてしまった。
 順応力が高いのもまた、暁治だ。

「だけど俺は、一人になりたくて、来たはずなんだがなぁ」

 ぽつりと呟いた言葉に、桃が顔を上げる。少ししょんぼりとした表情に、暁治は笑って彼女の頭を撫でた。

「最初はそう思ってた、けど。いまは桃に会えて良かったよ」

 ほわりと笑みを浮かべた、この家の座敷童さま。
 いきなり朱嶺に妹です、などと言われた時には面食らったが、いまではすっかり、このうちの癒やし要員だ。彼女がいるだけで家が華やぐ。

 しかし思えば、この家に来て静けさを感じたのは、ほんのわずかだった。振り返ってみても、朱嶺に振り回された一年だったと思う。
 とはいえそんな日常も悪くない、と暁治は思い始めていた。

「ただいまぁ」

 しみじみと回想に浸っていたけれど、絶妙なタイミングで当人が帰ってくる。飲んでいたコーンスープを吹き出しかけて、桃に小さく笑われた。

「はるはる!」

「帰って来るなり騒々しいな。今日は遅くなるんじゃなかったのか?」

 すぱーんと、勢いよくふすまを開いた恋人に、暁治は呆れてため息をつく。だがいつもなら文句を言う彼が、嬉々として近づいてくる。
 その勢いに気圧されるけれど、いきなりぎゅっと手を握られた。

「いてもたってもいられなくて、急いで仕事を終わらせてきたよ!」

「そ、そうか。なにかあったのか?」

「んふふ、じゃじゃーん! これ見て!」

 着物の袂から、なにやら得意気に取り出す。それに首を傾げる暁治に、朱嶺はずいと手にあるものを向けてきた。
 視線を落とすと、そこにはビロード貼りの、四角いケース。まじまじと小さな箱を見つめれば、彼の手でそれは開かれた。

「できたよ、指輪!」

「あ、ああ、本当に作ったんだな」

 二つ並んだ、乳白色のつるりとした指輪。小さな青い石が埋め込まれているそれは、華美ではなくわりとシンプルだ。
 つい最近、鹿の角を再利用すると、ウキウキ言っていたことを思い出した。改めて見ると、なんとなくむず痒い気持ちになる。

「角で本当に指輪が作れるんだな」

「縁結びの神様に、祈祷してもらったからね! 御利益が抜群だよ!」

「ふぅん。まあ、綺麗だな。……これって、結晶が入ってる?」

 じっと指輪を見つめていた暁治は、さらに顔を近づけて覗き込む。二、三ミリ程度の石の中に、白い小さな結晶らしきものが見えた。
 すると朱嶺はにへらと相好を崩して、くふふとおかしな笑い声を上げる。

「ほら、僕たちが出会ったのは冬でしょ。季節にちなんだものを入れたら、素敵かなぁって」

「お前、ロマンチストだったんだな」

「さあさあ、指輪の交換!」

「え?」

 いきなりずいと距離を縮めてくる彼に、無意識に身体が逸れる。しかしすぐさま手を取られて、逃げ場がない。
 だが指輪を一つとった朱嶺は、ふいにぴたりと止まった。その動きに暁治は、訝しげに首をひねる。

「ど、どうした?」

「……はる」

「なんだ?」

「僕に言い忘れてること、あるよね?」

「言い忘れてること?」

 急に真面目な顔をする恋人に、暁治の頭の上で疑問符が飛ぶ。なにか言うことがあっただろうかと、考えるものの、さっぱり思い当たらない。

「ほらほら」

「なんだよ」

「もう、はるは僕のどこが好き?」

「えっ?」

「このあいだ、僕に聞いたよね? でもはるの気持ちを聞いてない」

「あー、うーん」

 期待に輝く瞳。その表情に暁治はあからさまに唸った。しばらく言葉を紡げず唸っていると、かぱっと口を開いて、朱嶺が呆気にとられる。

「ええ? そこ悩むところなの? あるよね、僕がスキーってところ!」

「そうだなぁ。騒がしくて、大飯食らいで、図々しくて」

「ちょっと待って、そこが好きなの?」

「最後まで話を聞けよ」

 しょぼーんと表情を暗くする、朱嶺の額を手の平で叩く。そして暁治は大きく息をついて、柔らかいほっぺたを摘まんだ。

「いひゃいよ、はりゅ」

「正直言えば、そういうところ、……なんだこいつって思ったよ」

「ええぇ」

「でもそういう面も含めて、面倒くさいことを全部忘れさせてくれる、お前の明るさが……いいかな」

「惜しい! もう一声!」

 最後に言葉を濁した暁治に、競りかなにかのように、声を上げる朱嶺。それに思わず吹き出すように笑ってしまった。
 そしてひとしきり笑ったあと、暁治は両手で彼の顔を包んだ。

「なにもかも吹っ切れさせてくれる、お前の笑顔が好きだよ」

「んんっ」

 唇をむずむずとさせた朱嶺は、暁治の両手にほっぺたを押し潰される。それでもご満悦なのか、いつもの朗らかな笑みを浮かべた。
 大好きな笑顔、それに暁治はそっと唇を寄せる。

「病める時も健やかな時も、だね」

「そうだな」

 桃が見守る中で、二人でお互いの指に指輪をはめる。小さくパチパチと手を叩かれると、照れくささが増した。

「ところで、はる」

「なんだよ」

「指輪の交換をしたってことは、僕と添い遂げるんだよね?」

「ま、まあ、そうだな」

「じゃあ僕たちの祝言はいつにする? 冬が明けた頃にしよっか?」

「そうだな、……春、来年の春だな」

「ええっ! なんで!」

「だってお前まだ学生だし」

 再びぽかんと口を開いた朱嶺の間抜け顔に、桃と一緒に腹を抱える。
 来年なんて待てない! ――駄々っ子みたいな声が、静かな家の中に大きく響き渡った。
 ちょうど帰ってきた居候たちが、その声になにごとかとやってくる。けれど恋人は、ひどいひどいと泣き濡れた。

初候*款冬華(ふきのはなさく)

 一月も半ばを過ぎ、雪が降り積もる毎日。都会ではお目にかかることができない、銀世界だ。積雪は一メートル、あるとかないとか。
 雪を掻いても掻いても終わらないが、寒さで冬ごもりしたくなる。

 そんなことを考えながら、暁治は居間から見える庭を眺め、息をついた。
 その視線の先には、見た目若人なあやかしたち。縁側のガラス戸を通しても、雪が降る外の世界は寒そうだ。それなのに、揃いも揃って大はしゃぎしている。

「猫はこたつで、丸くなるんじゃなかったのか」

 キイチは朱嶺に雪玉をぶつけて、意気揚々としている。それに負けじと応戦する姿は、本当に少年のようだ。
 河太郎と鷹野はかまくら作りに勤しんでいる。そのすぐ傍には、不格好な雪だるまが二つ。

「妖怪は雪に強いのか? いや、妖怪に限ったことじゃないな」

 先ほどまでかまくら作りに混じっていた、桜小路が楽しそうになにかを作っている。嬉々とした笑顔は、最近よく見るようになった。
 黙っていると厳つい顔をしているが、このところ笑っていることが多いので、穏やかに見える。

 この町に来て、かなり気持ちにゆとりが出たのだろう。
 周りが賑やかだから、それに感化されているのかもしれない。なんにせよ、いいことだ。
 茶をすすりながら、暁治は手元に視線を落とした。

「さむっ」

 一人でこたつを満喫していたが、ふいに冷気が漂う。顔を上げて庭へ視線を戻すと、ガラス戸が開いている。そこには桜小路が立っていて、縁側で彼らを見ていた桃が、満面の笑みで振り返った。
 暁治と目が合うと、彼女はなにかを手にして駆けてくる。そして瞳をキラキラさせて、それを暁治の目先に差し出した。

「雪うさぎ、か。って、手に持ったら溶けるぞ」

 慌てて立ち上がり、暁治は台所から銀トレイを持ってくる。桜小路が作った小さな雪うさぎは、全部で七羽。
 微妙にサイズ感が違うそれらは、この家の家族たち、だそうだ。

「これだけいたら、毎日騒がしいはずだよな」

「宮古、楽しそうだな」

「え? そうか?」

「ああ」

 やんわりと目を細められて、少しばかりくすぐったい気持ちになった。毎日が楽しい――その感情が、暁治の欠けていた部分を埋めたのは、間違いない。

「コウちゃん! この上、固めて!」

「いま行く」

 騒がしい声、賑やかな声、笑い声。それを聞いていると、なぜだか心が優しく凪いでいく。いつの間にかこの空気に、自分が溶け込んでいることに、暁治は気づかされた。

「あのかまくら、何人仕様だよ」

 庭の一角にできたかまくらは、大人が数人は入れそうだ。
 そういえば、と思い出す。子供の頃に作ったかまくらは、朱嶺と暁治が入ってちょうどくらいだった。そんな些細なことが、大人になったのだなと感じさせる。

「雪景色もいいもんだな」

 自然と浮かぶ笑み、暁治はまた手元に視線を落とす。そして手にしたスケッチブックに、鉛筆を走らせた。

 すらすらと手が動く。描きたいものが、どんどんと浮かんでくる。絵を描いていて楽しいのは、こういう時だ。
 ふと息をついて、こたつの上の湯飲みに手を伸ばした。けれどいつの間にか、熱かったお茶は冷め切っていた。随分と時間が経っていたことに気づき、暁治は庭を見る。

 完成した大きなかまくらに、七体の雪だるま。けれどそこには、彼らの姿がなかった。
 不思議に思い首をひねるが、すぐに玄関のほうからわいわいとした、騒がしい声が聞こえてくる。

「駄烏! ちゃんと雪を払うにゃ!」

「ちゃんと落としたよ!」

「兄ぃ、キイチ殿、喧嘩はいけないでござる」

「やあやあ、桜小路殿のおかげで、捗りましたなぁ」

「駄猫は放って置いて、桃ちゃん、行こう行こう。寒ーい」

 どうやら雪を払うために、そちらに回ったようだ。きっと雪合戦が白熱したに違いない。そんなことを思い、肩をすくめる暁治だが、はたと我に返り、床一面に散らばった紙をかき集めた。
 けれどそうこうしているうちに、足音が近づいてくる。

「はる~!」

 からりと障子が開かれて、顔を上げた瞬間、ひらりと紙が一枚宙に舞う。とっさに手を伸ばすものの、届かなかった。

「あ、絵を描いてたの?」

「み、見るな!」

 足元に落ちた紙を拾い上げる朱嶺に、制止の声をかけるけれど、その甲斐もなくそれに視線が集まる。彼の後ろから覗き込む一同に、暁治の顔が赤く染まった。

「これは……」

「おれたちにゃ」

「おお、さすがは絵師でござる」

「私もおりますな!」

 感嘆の声が上がるが、身内に見られると恥ずかしいものだ。絵を見れば、暁治の目に彼らがどんな風に映っているのか。それがバレてしまう。
 顔を上げた桜小路は、落ち着きなく視線をさ迷わせる暁治に、意味ありげに微笑んだ。

「もっとほかにもあるの?」

「見たいにゃ!」

 わっと群がってきたあやかしたちに、あっという間にスケッチブックや紙をさらわれる。貼り出すみたいに、床に一枚ずつ並べられて、暁治はいたたまれず、顔を覆う。
 けれどこんな風に、手放しで喜んでもらえるのは、子供の頃以来だと思った。

 感動したように、みんなが笑顔を浮かべている。描いた絵を誰かに褒めてもらえることが、純粋に嬉しいと感じた。
 それとともに、揺れ動いていた気持ちが固まった。

「はる?」

「うん、ちょっと」

 賑やかな彼らを背に、暁治はその場を立つ。訝しげな朱嶺の顔に、片手を上げて返すと、自室に戻った。

「はい、今回は、すみません」

 まず暁治がするべきことは、桜小路が持ってきた話に答えを出す、それ一択だ。
 画廊の担当者に電話をかけて、自分の気持ちを正直に伝えた。

『そうですか。そちらに残られるのですね』

「とても悩んだんですが、……ここで描いていくことが、自分のプラスになると思ったんです」

『確かに、ここ一年で宮古さんの絵は大きく変わられました。残念ですが、自分に納得された時に、また連絡をください』

「ありがとうございます」

『ビジネスとして、今回の話は白紙に戻ります。ですが私は、あなたの絵が好きです。あなたと仕事がしたい。コンテスト、ぜひとも参加してください。宮古さんの可能性を信じています』

 画廊・月葉堂が年に一回行うコンテストは、次世代の画家を輩出する大きな展覧会だ。そこで賞を獲った画家は、大きく飛躍することがほとんどだった。
 期待をかけられることが、こんなにも嬉しいと思うのも、久しぶりだ。

 ここへ来たばかりの頃は、もっとできる、もっと上を目指せと言われ、その重さに暁治は負けかけていた。しかしいまは、前へ進む勇気が湧いてくる。
 心に大きな変化が生まれた証拠だろう。

「はる」

 電話を切ると、小さな呼び声が聞こえた。それに振り向くと、朱嶺が部屋の戸口で、思い詰めたような顔で立っている。
 その顔に暁治は笑って肩をすくめた。

「なんだよ。その通夜みたいな顔」

「決めたの?」

「決めたよ」

「大きなチャンスだよね」

「……ああ、でも俺はここで、絵を描いていくことに決めた。この町に根を下ろすよ」

「え?」

 パチパチと瞬いて、朱嶺は呆気にとられた顔をする。てっきりもう、暁治がここにいる選択をすることに、気づいていると思っていた。
 恋人のその間の抜けた反応を見て、暁治はぷっと吹き出すように笑う。

「なんだよ、俺がお前を置いて帰ると思ってたのか?」

「いや、その、だって。暁治の将来がかかってるって、コウちゃんが言ってたし」

「確かにそうだけど。俺の可能性は、ここで終わるわけじゃない」

 この町にいてもできることがある。いや、この町だからこそできることが多い。天秤はどちらか片方に、傾かなければいけないわけではない。
 それならば夢も、希望も手にしてもいいはずだ。

「そっか」

 ほっとしたように表情を和らげた朱嶺は、へにゃりと笑った。そして近づいてくると、ベッドに腰かけていた暁治に飛びつく。
 勢いのまま二人で倒れ込めば、ぎゅっと力強く抱きしめられた。

「はるはきっとすごい画家になるよ。あんなに優しい絵を描けるんだもん」

「まあ、長年生きてきたお前が言うんだから、信じるよ」

「僕の自慢の恋人だよ」

「そうか、そりゃ良かった」

「知ってる? ふきのとうって、この時期に蕾を出すのに、春の季語なんだよ。雪の下で春を育むんだ。まるでいまのはるみたいじゃない? いっぱい栄養つけて、春に蕾を開くね」

「春に、はるって……ややこしいな」

「僕、もしはるが帰ってしまっても、きっと追いかけてたよ」

 身体を起こした朱嶺は、覗き込むように顔を寄せてくる。視線を合わせると、ふふっと小さく笑って、唇に触れるだけのキスをした。

末候*雉始雊(きじはじめてなく)

 実のところ朱嶺たちも、すっかり忘れていたらしい。
 わざとじゃないよ! と、瞳を潤ませながら謝ってきたので、暁治は少しばかりならと話を聞いてやることにした。

「だからね、幽世で旅館やるのに、なにか売りを作ろっかってなってね――あ、はる。ここもうかゆくない?」

「おぅ、大丈夫だ」

「うん、そんで桃が名物だし、うちの座敷童様と同じ名前だからこれ、いけんじゃね? って、桃ジュース売り出すことになったの」

 ――でも、人間に飲ませない方がいいっての、みんな忘れててねぇ~。

 そもそも基本的に人間がいないから、そこまで考えるやつがいなかったともいう。
 こしこしと、背中を流しながらお気楽に笑う妖を、殺気を込めた眼差しで振り返ってやると、朱嶺はぴいっと身を竦ませた。

 後から旅館にやってきた石蕗が、「これ、先生飲んでたけど大丈夫なの?」と、指摘して、初めて気づいたらしい。

「うぅっ、はるは正治さんの孫だし、知ってて飲んだのかなって」

 それで収めて黙っておこうと先延ばしする辺り、とてもタチが悪い。

「さすがに食べ物にそんな地雷があるとか、気づくわけないだろ」

「ううっ、ごめんなさい。あ、じゃぁもしかして――」

「もしかして?」

「あ、ううん、なんでもな」

「吐け」

「……あのね、ここ桃ちゃんに頼めばいつでも来れるんだけど、僕らが普段いる世界とは違うから、知らず独りで来ると大変なことになるので気をつけてね」

「例えば?」

「帰ったら百年経ってたり?」

「そんな怖いとこなのか、ここは」

 近所にできた温泉の感覚でいた暁治は、思わぬ情報に身を震わせる。まるで浦島太郎だ。

「ホテル龍宮城なら、幽世列車に乗れば、ここからすぐだよ」

「龍宮城はホテルだったのか」

 龍宮城、つい先日なにか思った気はするが、こんなに近くにあったらしい。さすが幽世だ。確かにおもてなしの心に満ちた場所ではありそうだが。
 ごく一般人を自認する暁治は、立て続けの新事実に、もう驚く気力もない。

「うちは桃ちゃんがいるから大丈夫なんだけど、よそから行く時は注意してね。まぁ、一人で行くことはないと思うけど」

 行くことはないと言われても、なにがあるかわからない。ついうっかり、百年経ってしまったら大変だ。もうないかと頬をつねってやると、みぃと鳴き声が出た。声は可愛い。

「うぅ……くすん、痛いお。他はない、と思う。戻ってくる前にこっちで見つけられたら、なんとかなるんだけどねぇ」

 朱嶺は頬をなでつつ立ち上がると、さぱさぱと、暁治の背中にお湯かけた。暁治は少々考え込んだ後、顔を上げて彼を見上げる。

「ほんとに食った分だけ寿命伸びるのか?」

「う~ん、最近は食べた人間自体いないからわかんない。はるが飲んだのジュースだし」

「そうか……」

「はる?」

 なにやら難しい顔で考え込んだ暁治見て、朱嶺はこてりと首を傾げた。

「まぁ、食っちまったもんは仕方ない」

 あっさりと。暁治はやれやれと両手を上に上げて伸びをする。考えても、どうにもならないことを悩んでも無駄だ。後のことは後で考える。彼は切り替えが早かった。
 変なものを食べて死ぬよりは、長生きの方がマシだ。そう考える暁治は、ある意味朱嶺よりも能天気かもしれない。

 湯を流してもらって身体もさっぱりした暁治は、温かさに吐息を吐きつつ風呂に浸かった。桶や石鹸を片付けた朱嶺が、隣に滑り込むと笑顔で身を寄せてくる。

「まだ許した覚えはないぞ、召使い」

 ぺしりと、伸ばされた相手の手を叩く。

「えぇぇ……?」

「なんだ、ドレイの方が良かったか?」

「僕Mっ気ないから、そういうプレイはちょっと」

「おい奴隷、一番高い酒持って来い。お前の奢りだ」

「はいご主人さま、ただいま――しくしく、はるのおにちくぅ……」

「文句言う前にとっとと持って来い。一緒に酒の肴も頼むぞ。お前も飲んでいいが、ノンアルコールでな」

「うぅぅ~……」

 ハンカチがあれば、口元で噛んでキリキリ引っ張ってそうな顔をした奴隷を追い立てる。朱嶺は湯船のそばに据え付けられた端末を操作した。
 カラオケや回転寿司などのレストランでもお馴染みの注文端末だ。現世と原理は同じかわからないが、なかなかハイテクな設備を備えているようだ。

 今日も貸し切り状態の湯船で足を伸ばしていると、入り口で従業員から桶を受け取った朱嶺が、とてとてと小走りにやって来た。
 言われた通り、酒とノンアルコールドリンクのようだ。毎回不満そうなのに、そういうところはとても律儀だ。

 思えば朱嶺は、こちらを振り回してばかりのくせに、暁治が本当に嫌なことはしない、気がする。つらつらと考えていたら、湯に戻ってきたところで目が合った。

「いや、お前、俺のどこが好きなんだろうって」

 もの問いたげな視線を向けられ、ついそんな言葉が口をついた。いきなりなにを聞いているのか。

 自分で言うのもなんだが、彼と再会してから、なにかにつけ塩対応している自覚はあるのだ。今の態度もそうだが、相手のことを奴隷とか。そのうち付き合ってられないと、別れを切り出されても不思議ではない気がする。

「え、全部」

「え、嘘だろ」

 思わずおうむ返しに聞いてしまった。
 正直、出会ってからこっち、彼に惚れて貰えるような行動を取った覚えがない。むしろ日ごろから傍若無人に振る舞って、ひどいだの鬼だの言われた記憶しかない。もっともそれらは朱嶺の自業自得だと、自信を持って言えるが。

 最初に会ってすぐ、結婚すると約束したものの、暁治にはどうも解せない。朱嶺は、自分のどこが好きなのか。

「う~ん、そう改めて聞かれると難しいけど。はるが、はるなとこ?」

 さぱりさぱりと湯に浸かると、朱嶺は暁治のそばへと寄って来る。

「なんだよ、それは」

「はるって、なんのかんの言っても、受け入れてくれるじゃない? 僕や、僕らを」

 人ではない妖であることや、妖の世界にあっさり馴染んだり。先ほどだってついうっかり人外になったと言われたのに、すぐ割り切ってしまう柔軟なところも。

「さっき親父殿も言ってたでしょ? 天狗って修行してなるものでね、僕も元は人間だったんだ。人としていたころは、時代のせいもあるけど、ほんと生きるのが精一杯でさ。こうして学校に行ったり、はるたちと気ままに暮らしたりとか、想像もしてなかったよ」

 持ってきていた桶に気づいたらしい。徳利を取り上げると、どうぞと暁治に酌をする。いい酒と注文した通り、淡麗な飲み口が、喉をくすぐった。

「はるに初めて会ったときは、面白そうな童だなって思って。天狗の中では僕末っ子だけど、いい加減生きるのも飽いてたし、結婚とか言われた時も、そういう余興もいいかなって、面白半分だったのは否めないよ。でもはるが小さいころも、この一年も、一緒過ごしていて僕思ったの」

 首を傾けると、こてりと、暁治の肩に頭を寄せる。

「小さいころのはるは、意地っ張りで頑固で可愛いかったよね。再会してすっかり意地悪な大人になっちゃったけど、頑固なとこは変わってないし。昔から押しに弱くてお人好しで、でもすごく優しい。他にもいっぱいあるけど、平気なふりして迷ったり悩んだり。僕はそういうはるが大好きだよ。あ、ツンテレなとこもね。あいらびゅーなの」

 えへへぇと、朱嶺はほにゃほにゃと頬を緩めて、暁治の頬に唇を当てた。

「でもでも、ありていに言えば、一目惚れってやつかな。僕面食いだからねぇ。って、はる?」

 そっち方がよほど綺麗な顔をしているじゃないかと思ったのだけれど、あまりにストレートな台詞たちに、もう止めてくれと、暁治は横を向いて手で顔を覆う。聞くんじゃなかった。

「ねぇ、はるぅ? こっち向いてよ。誰もいないしさ。僕とはぐしてちゅーしよ?」

 かもんかも~んと、手を広げる朱嶺。思えば、こいつはこういうやつだった。
 暁治は、無言で手のひらを広げると、がしりと彼の顔をつかんで押し返した。アイアンクロー。

「ひゃん! ぴゃるぅ~」

 情けない声で、暁治を呼ぶ。

「うるさい、せっかくいい気分なんだ。美味い酒味合わせろ」

 どうせ捻くれてるのは自覚してる。くいっと杯を煽ると、朱嶺は口元に手を当て、瞳を潤ませた。

「うっうっ、はるのいけずぅ~、鬼ぃ~」

 しくしくと、顔に手を当て泣き真似をする恋人の顔を覗き込む。本人面食いと言ってはいたが、暁治の方だってかなりのものだと思う。

 ――これが恋人、なぁ。

 顔はともかく、趣味は悪いよな。深々とため息をついたのに気づいたのか、きょとんっと、目を丸くしている朱嶺に顔を寄せると、ちゅっと唇にキスを落とす。
 こういうやつには、先手必勝。たまには仕返ししてもいいはずだ。相手の耳元へ顔を近づけると、暁治はそっと囁いた。

「そんな俺が、好きなんだろ?」

 顔をのぞき込んで、にやりと歯を見せて笑うと、朱嶺の顔がぼんっと、一瞬で真っ赤になった。まるで茹で上がったタコのようだ。

「え、……あ、……うん! はる大好きっ!!」

 朱嶺は両頬に手を当て、顔をうにゅりと緩めると、暁治の大好きな笑顔を浮かべた。

次候*水泉動(しみずあたたかをふくむ)

 確かに旅行に行くのは了承した。
 行き先も面倒だから相手に任せて、どこに行くのかも聞いてなかった。
 自業自得といえば、それまでなのだが。

「ほほぉ、そなたが婿殿とな」

 真っ赤な顔に長い鼻。右手でつるりと顎をなでているのは、どこから見てもまごうことなき天狗というやつだろう。
 がっしりとした体躯は、かなり鍛えてそうで、身長も二メートル以上はありそうだ。

 正面にどしりと座られ、威圧感たっぷりに見下ろされた暁治は、涙目になりつつ、隣に座する恋人に、視線をこそりと向ける。

「え、だって、やっぱオツキアイの次は、結婚前に親へ挨拶でしょ?」

 恋人=朱嶺は、花が綻ぶような、朗らかな笑みを浮かべた。晴れやかな顔だけ見ると極上品だが、いっそ殴って砕いてやりたいと、暁治は思った。

 モデル代と称して暁治とのらぶらぶ旅行をせしめた朱嶺。すぐにでも出発したそうな彼を引き留め、連休の朝に出発した二人は、桃が開いてくれた扉を潜って幽世へとやって来た。
 前回来たあの道のりはなんだったのか。そう思うお手軽さだ。

 受付を済ませると、朱嶺に手を引かれて、長い廊下を歩く。どうやら地下の大広間に向かっているようで、途中横切った大浴場の入り口から、温かな空気が漂ってきた。
 先ほどからちらりちらりと、後ろの暁治を見る朱嶺は、どこかそわそわ浮き足立っている気がする。

「ねぇねぇ、はる」

「なんだ?」

「僕らはらぶらぶアツアツの恋人同士だよね?」

 そう聞かれると反発したくなるのはなぜだろう。思う気持ちを抑えつつ、暁治は、うむとだけ頷いた。

「そろそろオツキアイも三ヶ月だっけ。いい頃合いだよね」

「まぁ、それくらいかな」

 なにがいい頃合いなのか、よくわからないが。訝しげな暁治に気づいているのか、朱嶺はうんうんと頷いた。

「ゆーゆがね、人の世には、はうつーまにゅあるというのがあるって言うから、僕勉強したの」

 石蕗の名前が出た、この辺りで暁治はなんだか嫌な胸騒ぎを覚える。普段鈍い学習能力も、いい加減働いてもいい頃合いだと思ったのかもしれない。

「オツキアイは、順番が大事なんだって」

「……そうだな」

 その割に、こいつは色々すっ飛ばしてる気はするが、言っていることは間違いではない。それとも色々すっ飛ばしまくっているのを見兼ねて、お節介な保護者どもが気を利かせてくれたのだろうか。

「朱嶺、お前一体どこに――」

「着いたよ~」

 暁治の言葉を遮ると、朱嶺はそばの襖をからりと開けた。

「親父殿! 僕の大事ならぶらぶはにぃ~を連れて来たよ!! すごくすご~く可愛いんだから、イジメないでねっ」

「なっ!?」

 抵抗する間もない。暁治は腰を抱かれて、一緒に部屋の中へと運ばれた。一瞬の早業である。
 かくして、冒頭に至る。というわけだ。

 心の準備もなにもあったもんじゃない。騙し打ちである。
 かと言って親に挨拶なんてハードルが高いもの、面と向かって言われても頷かなかったろうけれど。

 周りを見ると、彼の両脇には山伏装束の者が数名控えていた。天狗の仮面を着けている者もいる。もしや朱嶺の兄たちだろうか。
 素顔の者の中に、朱嶺の七番目の兄者こと、リヨン・リヨンのマスターを見つけて、ぺこりと頭を下げた。
 ここはもう、腹を括るしかなさそうである。

「ええと――」

「婿殿の職業は画家だとか?」

 どうしようかと口を開きかけたところ、向こうから切り出され、暁治は慌てて頷いた。ぶんぶん。

「あはい、一応は」

「一応?」

「あ、いえ。まだまだ駆け出しですので。今は教師と兼業しております」

「ふむ」

 またしても、顎をなで頷かれる。無言の間が辛い。

「趣味は、なんですかな?」

「え~っと、料理、ですかね」

 ぽりぽりと、頭をかきつつ、返事をする。自分は一体なにに参加しているのだろう。まるでお見合いだ。
 厳つい顔をしかめつつ、ふむと頷く天狗は、またそれっきり黙り込む。居た堪れない。

 前に桃を預かったとき、連絡をくれた声なのは間違いない。低く威厳があり、いささかしゃがれた声は、まさに天狗の頭領に相応しい。

「え、えぇと、朱嶺くんにはいつもお世話――」

 しているのはこちらの気がしたので、暁治は口籠もった。
 学校では人気者で、いつもクラスの中心です。ちょっと元気すぎるところと、人の話を聞かないところが少し困ったところでして。とか。待てそれでは家庭訪問だ。
 なにを話せばいいのだろう。ちらりと横を見ると、朱嶺が笑顔でサムズアップしている。いっそ殴ってやりたい。

 しかし考えてみれば、暁治は教師、朱嶺はとうに成人してはいるものの学生だ。そこを言われるとまずい気がするが、恋人として付き合ってるのは事実で。

「えぇと……朱嶺――悟くんとは、オツキアイさせていただいています」

 ……話が終わってしまった。
 いかん。他にも言うことがあるだろう、俺。
 言い訳させてもらえるなら、この部屋に入るまで、なにがあるかまったく知らなかったのだ。下準備もなにもなく、レベルいちでラスボスと対戦など、できるわけがない。

「ソレは、儂の末の息子だが」

 やがて無言に耐えかねたのか、天狗の頭領が口を開く。

「儂とは親子の血の繋がりはないが、そやつは息子の中でも一番力が強い。儂の跡継ぎにと思うていたが、嫌だと言い始めた。なんでも好いた相手ができて、添い遂げたいとな」

「は、はい……」

 じろりと睨まれて一瞬で固まった。その様子を見た朱嶺は、唇を尖らせる。

「親父殿、威圧は解いてよね。もう、はるをいじめたら、メッだよ? ただでさえ、顔が怖いんだから」

「ふん、これしきで狼狽えるような腑抜け、我が一族の末席には相応しくはないぞ。正治殿の孫と言うが、挨拶ひとつできぬとは。少しは期待したが」

 固まっていた暁治は、祖父の名にぴくりと身体を揺らした。

「天狗の頭領殿」

 居住まいを正す。確かにいくらパニックになったとはいえ、彼の言う通り、挨拶くらいはすべきだろう。ましてや朱嶺の親で、初対面なのだ。

「ご挨拶遅れて申し訳ありません。改めて初めまして。私、宮古暁治と申します。朱嶺悟さんとお付き合いさせていただいています。これからもよろしくお願いします」

 ぺこりと、頭を下げる。

「はる、そこは『私にください』じゃ、ないの?」

 不満げな朱嶺の頬をつねった。

「お前は物じゃないだろ」

「うん!」

 言葉とともに、手を振り切って抱きついてくる朱嶺を押し返す。石蕗たちの前では慣れたとはいえ、初対面で衆人環視の中ではまだ恥ずかしい。

「ごほん」

 まだ話の途中だった。

「ふん、儂は悟の父だ。修行中の身ではあるが、天狗の纏めをしておる。まぁ、まだまだ及第点にはほど遠いが、その頑固そうな性根は見どころがありそうだ」

「うん、はるはすっごい頑固だよ!」

 それって褒め言葉なのだろうか。暁治が首をひねっていると、ふぃっと、周りの空気が和んだ。

「え?」

 もしかして、これでよかったのだろうか。マスターが認めてないとか言ってたのって、暁治が挨拶に来なかったから?
 まだ呆然としている暁治に、どうぞと盆が差し出された。氷の入ったグラスが載っている。少しピンクがかった白いジュースだ。

「あ、どうも」

 顔を上げるといつの間にそばに来たのか、盆を手にしたマスターが頷いている。ちょうど喉が渇いていたこともあり、暁治は一気に飲み干した。
 ここの旅館名物らしい。桃のジュースだ。宿泊客に無料で振る舞われているものらしく、前に来たとき気に入って、よく飲んでいたから知っている。ちなみに朱嶺は炭酸水で割るのが好きだ。

「美味い」

「これ、美味しいよね」

 朱嶺も貰ったらしい。隣で飲んでいる。相変わらず能天気な恋人を見て、暁治はため息をついた。天狗の頭領には一応了解は貰えたようなのだが、まだまだ悩みは尽きない。

「そうなの? 例えば?」

「例えばだな、お前三百歳だろ」

「うん、まだぴちぴちだよ!」

「ピチピチは意味わからんが、俺は二十五だ。歳の差というか、俺の方が先に……」

「あ~、なるなる」

 朱嶺は、飲み干したジュースをそばに置くと、なんだそんなことかと、ぽぅんと手を打った。
 そんなことか呼ばわりは腹立たしいが、言いたいことは伝わったらしい。

 妖の世界に生きる朱嶺と違って、暁治は普通の人間だ。今は共にいられても、その内別れはやってくるだろう。遺してゆく者と残される者。どちらが辛いかはわからないけれど。

 朱嶺は、俯く暁治を見つめながら、こてりと首を傾けた。

「はる、そのジュース、なにか知ってるっけ?」

「ん? 桃のジュースだろ」

「うん、幽世名物、桃源郷の蟠桃ジュースだよ」

「桃源郷?」

「そうそう。土産物売り場にあるジュースの瓶のラベルに猿の絵があったでしょ? あの桃、孫悟空って猿も大好物でね。ひとつ食べると百年寿命が伸びるんだって」

「へ?」

 まだジュースの入ったグラスと、朱嶺の顔を見比べる。次に旅館の至るところに置かれていたジュースの冷却クーラーが脳裏に思い浮かんだ。

「えぇぇぇぇっ!?」

 旅館で、『ご自由にどうぞ』と貼り紙があったら『普通』は飲むと思う。そしてジュースにそんな効果があるなんて、『普通』は思うわけがない。
 なんていうチートの大盤振る舞い。暁治は文字通り頭を抱えた。

「俺、あのジュース、十杯以上は飲んでるんだが」

 自分の意地汚さが情けない。うなだれる暁治のそばで、ほわり、花が綻ぶような笑顔が目に映る。

「いっぱい寿命伸びるね」

「いっぱいじゃない!!」

「いゃぁぁ、はる痛い痛いって!!」

 げしげしと、繰り出すパンチを受けて、朱嶺が悲鳴を上げた。
 色々やるせない気分の暁治と、殴られるままの朱嶺を見ながら、天狗の頭領は深く頷く。

「婿殿のパンチ力はなかなか見どころがあるな」

「鍛えればいいとこ行きそう」

「早速修行に誘うか?」

「朱嶺頑張れよ~」

 弟に似て能天気な声を上げる天狗たちは、手にしたジュースを飲みながら、いつ果てるともない痴話喧嘩を観戦していたという。

初候*芹乃栄(せりすなわちさかう)

 お正月といえば、たこ揚げ、駒まわし。おせちと雑煮。初詣。
 日本はクリスマスから年始にかけて、イベントが目白押しだ。最近はハロウィンも盛況である。

 宮古家では暁治が、日本の妖怪どもがなにがハロウィンだと、イベント自体はしなかったのだが、かぼちゃは食べた。リヨン・リヨンの店主の差し入れのカボチャパイを、桃がことの他喜んだ。

 紅白を観て年が明けたら、神棚を拝んで、稲荷神社に初詣だ。田舎の神社だが、屋台も出ていてなかなかの人出だった。
 石蕗の姉が神楽舞を舞っているのを見て、神秘さに感動もしたものだ。主に普段の粗雑さ、豪快さを隠した舞の意外性についてだが。

 正月休みを終えたというのに、宮古家の妖どもは未だに頭の中が正月らしい。
 ぐでりとこたつに潜って出てこない。このまま春まで居座りそうな気配だ。
 今しがたもこたつの中でごそっと朱嶺が動くと、キイチの耳がピンっと立った。

「痛いにゃ!!」

「はぅ、なにするんだよ駄猫!」

「また蹴ったにゃ!?」

 どうやら朱嶺の足がキイチに当たったらしい。こたつの中で醜い争いが始まった。

「朱嶺殿、キイチ殿、ケンカはいけませんぞ!」

 こたつの上に皿を並べていた河太郎が、窘める横で、お手伝いしていた桃もコクコクと頷く。
 去年は居間の畳を掘りごたつにしていたのだが、今年は上から蓋をしてある。穴を塞ぐと畳敷きと変わらない。そのため足を伸ばせるのはいいのだが、度々勢力圏争いに発展してしまうのが難点だ。譲り合い精神は、少なくとも彼らにはない。
 仲がいいのも困りものである。

「おい、遊んでないで支度を手伝えよ」

 台所の暖簾から顔を出した暁治は、手にしたお玉で二人を指した。
 先ほどより台所からは、温かい匂いが漂っている。今日の夕飯は鰤の煮付けとおせちの残り、厚焼き卵と雑煮。そして七草粥だ。

 春の七草はセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロだ。暁治がネットで調べたところ、歌を歌いながら細かくするとあった。まるでまじないか呪文のようである。

 そもそも七草粥自体、験担ぎのようなものだ。毎年母親が作っていたので食べてはいたが、暁治自身はそんなに美味しいとは思ったことはない。
 ちょうどお隣から季節ものだとお裾分けされたことと、せっかくだからと季節の行事も兼ねて作ることにした。

 鍋の蓋を開けると、くつくつと粥が吹いている。実家の七草粥は塩味だったのだが、食いたい盛りの居候どもがいるのだ。エネルギーが足りないだろう。
 鳥もも肉や長ネギ、しょうがや酒を入れて煮込み。最後に七草を加えて一煮立ちした後、鶏がらスープと塩こしょう、ごま油で味を整える。
 最後はゴマと、自家製フライドガーリック。

「いい匂いですな」

 河太郎の横で、桃も顔を輝かせている。シェフの面目躍如である。
 粥に汁物はどうかと思ったのだが、気にするような輩はここにはいない。
 まだ大晦日にやった餅つきと、ご近所からもらった餅が山ほど残っているのだ。消化せねばと、使命感に燃える暁治だ。
 
「はる、僕お餅五個食べる」

「まったく、お前の胃袋はどうなってるんだ?」

 ケンカは終わったらしい。居間から顔を覗かせる朱嶺に、呆れた声しか出ない。大量のお餅が消費されるのも、間近だろう。ありがたくはあるが。

「おれも五個食べるにゃ」

 キイチも張り合うように冷凍庫から餅を取り出すと、網を持って行った。ストーブの上で焼くつもりらしい。
 とてもじゃないが、他の連中の分が間に合わない。暁治はアルミホイルを取り出すと、餅を載せてオーブンに放り込んだ。食欲魔人どもは勝手に焼けばいいだろう。

 粥は鍋ごとこたつの上だ。お代わりはご自由に。居間ではいつの間に来たのか、石蕗と桜小路がいた。

「お邪魔してます」

「よぉ」

 二人とも差し入れは持参済みなところは、高ポイントだ。いつもの『菊花堂』のいなり寿司と果物、大きなロースハムと焼き豚。缶ジュースの詰まった箱は、お歳暮の横流しだろうか。

「ハム切って来るか」

「分厚く頼むにゃ」

「任せろ」

 ついでにフライパンでちょっと炙ると、じゅわじゅわと脂がにじんでくる。少し焦げ目がついたのが、暁治の好みだ。
 そしてマヨネーズ。これは譲れない。ご飯と一緒に食べるのが美味しいと思う。

 皿を持って戻って来ると、すでに粥を配り終えたらしい。みんな一斉に暁治を見た。
 鷹野はまだバイト中で、後から店主と一緒に年始挨拶に来る予定だ。たくさん作ったし、なくなることはないだろう。

「よし、食うか」

「うん!」

 朱嶺が箸を手に、大きな声で返事をした。暁治が座るやいなや、揃っていただきますと手を合わせる。

「この粥、鶏が入ってる」

 いつもは無愛想な桜小路の頬が綻んだ。

「あぁ、サムゲタン風にしてみた」

「長ネギも柔らかくていいな。甘くてとろとろだ」

「しょうがの味もしますね。温まりそうです。あ、このニンニクも美味しい」

 石蕗がお粥に添えたフライドガーリックを、箸でつまんで口に入れた。もぐもぐと咀嚼する顔は、いつもの無表情がほんのりと緩んでいる。

 この日ばかりはと、神社で分けてもらったお神酒を出して、桜小路に振る舞う。視界の隅で朱嶺が物欲しそうな顔をしていたが、素知らぬ振りで自分も飲み干した。久しぶりのアルコールは喉にくる。
 否、先日夢の中で飲んだはずなのだが、あれはノーカンのようだ。

 わいわいと騒がしい宮古家だが、ほんの一年前にはこうなるとは、想像もしていなかった。
 去年の今時分はまだ実家にいて、遺品整理に追われていたころだろうか。
 向かいでおせちを口にする桜小路とも、このような関係になるとは思ってもみなかった。
 一寸先は闇とも言うが、人生なにが起こるかわからないものだ。

「はる、これ美味しいねぇ」

 隣で笑う朱嶺を見て、知らず暁治の頬が緩む。

「当然だ」

 なにせ美味しい七草粥を作るために、ネットで情報収集しまくったのだ。元々食事を作るのは苦ではなかったのだが、美味しく食べてくれる人がいると、腕の張り合いが違う。

「あ、そういや、はる」

「なんだ?」

「僕を描いたってホント?」

「ぶはっ!」

 ちょうど粥を口に入れたところ。とっさに口を覆って防いだものの、思い切りむせた。

「あれ、坊、知らなかったんですか?」

 咳き込みながら容疑者に目を遣ると、視線の先で石蕗が首を傾げている。前に彼が知っていたと、もう一人の朱嶺が言ってはいたが、どうやら石蕗が話したのではなさそうだ。

「うん、聞いてなかったよ~。モデルに内緒にするとかって、ずるくなぁい?」

 ぷんぷんと、口を尖らせると、暁治の肩に手を回してきた。

「賞も取ったっんだってね! モデル代は弾んでよね」

「そっちか」

 なんて即物的な。
 別に内緒にするつもりはなかったのだが、最初描いたときはリハビリ代わりで、人前に出すのが億劫だったこともあり、その後のも前のを言えずにいたため、そのままになってしまっていた。

「お前、モデル代以上に食ってるだろ」

 今食っている餅が七個目だと、気づかない暁治ではない。

「それはそれ、これはこれだよ!」

 宮古家食材消費率ナンバーワンを誇る妖は、ドヤ顔で胸を張った。暁治は右手を伸ばすと、顔をがしりとつかむ。アイアンクロー。

「痛い痛いよはるぅ」

 両頬を手で覆った朱嶺が、恨めしそうに視線を向けてきた。栄養が行き届いているのか、ツヤツヤと血色のよい肌が見える。A5ランクの特上霜降り肉に違いない。

「というか、石蕗でないなら一体誰に……」

 知っている人間なんてそんないないはずだと、朱嶺や石蕗たちの視線の先に目を向ける。

「すまん、俺だ」

 ぺこりと頭を下げるのは、宮古家の新人だ。

「てっきり知ってるものだと」

 これに関しては桜小路を責められない。言わなかったのは暁治だ。

「コウちゃんはね、モデルがいいと褒めてたよ! 受賞は僕のお陰だよね」

 もしや朱嶺の、桜小路への当たりが最近柔らかいのはそのせいか。お世辞を言うタイプではない分余計に。
 しかたない。

「わかった。払う」

「おぉ、はるってば太っ腹。二メートルはあるとみたよ!」

 正直そんなおデブは嫌だ。暁治は心の中で突っ込んだ。
 おおよそのモデル代の相場を思い浮かべる。家族や妹は描いたことあるが、人物画自体滅多に描かないので、いまいちよくわからない。

「あ、お金じゃなくてもいい?」

「……いいけど」

 訝しげに寄った暁治の眉の間を突いた朱嶺は、いたずらっ子のように歯を見せた。

「じゃ、一緒に旅行に行こう。もちろん夫夫水入らずで!」

「こないだ温泉行ったとこだろ」

「あれは水入らずじゃなかったし! 結局みんなでお泊まり会だったでしょ」

 確かに。気づけばみんなが加わって、あまり旅行といった気分ではなかったと思う。

「わかった」

「やったあ!!」

 ため息混じりに肩を落とすと、朱嶺が両手を上げてはしゃいだ声を上げた。

「よかったな」

「うん!」

 桜小路の言葉に、嬉しそうにサムズアップしてみせる。

「そうだ、コウちゃんにもこれをあげよう」

 懐から取り出した包みを、桜小路に渡す。

「じゃじゃ~ん。サトちゃん特製、お饅頭!」

 いつから入れていたのか、お馴染み崎山さんちのお饅頭だ。

「坊、いいのですか?」

「うん、いいよ!」

 首を傾げて尋ねた石蕗に、朱嶺が大きく頷く。それを見た暁治はなんとなく不思議に思った。

「妖のルールみたいなものなのですよ」

 顔に出たらしい。いつの間にかそばに来ていた河太郎が耳打ちしてきた。

「こちらの世界に招待してもいいかどうか。サトさまが決めてあれを渡すのです」

 こちらの――妖の世界。教えてもいいかどうか。桜小路は受け入れられた、ということらしい。

「管理人の仕事の一つなんですよ。もっとも、昔はもっと自由だったんですけどね」

 そういう河太郎の表情は、なんだかしんみりとしたように見えた。

末候*雪下出麦(ゆきわたりてむぎいづる)

 前振りもない、唐突な桜小路の言葉には驚かされた。あまりの勢いに呆気にとられたほどだ。しかし暁治の頭に浮かぶのは疑問符ばかりで、まったく要領を得なかった。

「なんの話をしているんだ?」

「月葉堂が宮古と契約を結んでもいいって」

「え? あの有名画家を多数マネージメントしてる画廊?」

「そうだ! チャンスだ、宮古!」

 ぎゅっときつく掴まれた肩、それとともに暁治の中に高揚感が生まれたのは、嘘ではなかった。それでもぽつりと聞こえた、「帰るの?」という朱嶺の声に、暁治は我に返った。
 目の前にぶら下げられたご馳走を前にしても、逡巡する気持ちが生まれる。このままこの場所を離れても、いいのだろうか、という思いだ。

 結局、桜小路が独断で持ち帰ってきた話は、暁治が担当者と話し合い、来年まで保留となった。
 条件は都心に住まいを戻すこと。もちろん住居は向こうで用意してくれる。なるべく静かで、自然が多いところを用意すると言ってくれた。

 しかし迷いがあるうちは、はっきりとした答えが出せそうもない。
 もっと絵を描きたいとそう思う気持ち、それは確かにあった。むしろ暁治にはその気持ちしかない、と言ってもいい。

 それでも朱嶺の存在は特別だ。チャンスが巡ってきたのは、彼のおかげだろうとさえ思う。そしてこの場所が、すべてを変えてくれた。
 いまがあるのはここでの生活があればこそだ。

 忙しい都会の毎日の中で、現状と変わらない気持ちで絵を描けるのか、それがわからなかった。

「はるぅ、こんな時間にどこ行くの?」

「え? ああ、回覧板」

 夜半前、上着を羽織った暁治が、三和土へ下りようとしたところで、声をかけられた。後ろを振り向くと、昨夜も遅くまで仕事に駆り出されていた朱嶺が、瞼をこすっている。
 先ほどまでこたつで寝ていたのだが、どうやら起こしてしまったようだ。

「僕が行ってくるよ」

「え?」

 あれからというもの、朱嶺は暁治にべったりだった。出先を告げずに一人で出かけようものなら、失踪でもいたかのような慌てぶり。
 彼は帰ると思っている。なにもかもを置いて、いなくなると思っているのだろう。あの時、言いかけた彼の言葉もいまだ聞けていない。

「ゴミの収集日が変わったんだ。今年は雪が多いもんね」

「ああ」

「じゃあ、行ってきまぁす」

「気をつけてな」

 カタンと閉まった玄関戸の向こう。暗がりに薄らと見える影に、初めて出会った日を思い出す。夜更けに訪れた珍客が、こうして日常に溶け込む日が来ようとは。
 手持ち無沙汰になった暁治は、無意味に首の後ろを掻く。そしてため息を一つついて、踵を返した。

「蕎麦、茹でるか。ついでに夜の準備もしよう」

 今夜は新年を稲荷神社で迎えるために、山登りをする予定だ。
 石蕗家の稲荷は通常、山の麓にある社が本殿とされている。けれど本来の本殿は、山の中腹に鎮座する社のほうだった。

 そこは朱嶺を追いかけ、幽冥界という場所に行くために通った、あの社だ。社から幽世、幽冥界、と繋がっている。
 仮とは言えど管理人の管理人――ということで、入り口の管理は行わなくてはいけないらしい。

 新年早々、なにかがあることは九十九パーセントない、と聞いている。けれど形だけでもお仕事をする必要があるそうだ。験担ぎというものだろう。
 初詣なので、桜小路も同行する予定だ。桃は体裁上、実家に帰っていることになっている。

「夜は甘酒と汁粉と、あんまり重い物は持ちたくないな。でもまあ、いいか。んー、年越し蕎麦も食べるし、食べ物はいらないか」

 汁物はスープジャーに入れる。どうせ持つのは、山道に慣れた鷹野や河太郎だ。参道は雪かきしてあると言っていたが、いまも降り続いている雪では期待はできない。
 いっそのこといつぞやの提灯で、道を開いてくれたらいいのにと思う。桜小路にバレないように、ひっそりこっそりと。

「海老天、大きいのにしてよかったな。質素な蕎麦も見栄えがいい」

「ねぇねぇ、はる。お年玉もらった」

「え? ちょっと気が早くないか?」

 蕎麦が茹で上がり、年越し蕎麦の準備ができた頃、ようやく朱嶺が帰ってきた。十分と少し先のお隣まで行って帰ってくるのに、随分と遅いと思ったけれど、引き止められていたようだ。
 お年玉と称したみかん一箱を抱えていた。

「手袋してなかったから、冷えてるだろ」

「うん、外は雪が降ってて寒いよ。凍えちゃう」

 出来上がった蕎麦の器に手を当て、暖をとる姿に、思わず暁治は笑ってしまった。視線が合うと彼もふにゃりと頬を緩めて笑う。

「夫夫水入らずだね」

 朱嶺の向かいでこたつに足を入れると、ちょんちょんとつま先でつつかれた。桃は幽世へ行っていないし、キイチは石蕗家の仕事に借り出されている。
 確かに二人きり――それに気づいて、暁治は少しだけ口元を緩めた。

「そうだな」

「あ、はるがデレた」

「あったかいうちに食えよ」

「いただきまーす」

 湯気が立ち上る蕎麦に二人で箸を向ける。ずるずると麺を啜る音が、静かな中にやけに響いた。
 紛らわすようにつけたテレビでは、数時間で年が明けると盛り上がっている。時計を見るともうあと三十分もすれば二十三時だ。

「あー、今年に思い残すことはないか?」

「え? なに、いきなり? はる、どうしたの?」

「いや、その」

 つゆまでぐいっと飲み干し、一息ついた朱嶺が、心底不思議そうな顔をして見つめてくる。その反応に、自分で言っておきながら、暁治はもごもごと言葉を濁す。

「はるこそ、思い残すことはない?」

「思い残す、ことは……ない。なんだかんだと騒がしかったけど、実りあるいい一年だったよ」

「僕もだよ。いい一年だった」

「朱嶺、来年は」

「じっくり考えなよ。二択になることは、最初から決まってたもんね。大丈夫」

 まだ若いのだから、夢を追うことは悪いことではない。けれど意志は早めに決めたほうが、心残りが少なくていい。
 そんなアドバイスをくれたのは、ずっと自分より年若い石蕗だった。

 心残り――それは彼と、この家だ。
 向こうへ戻ればあちらが生活の中心になる。ここには訪れることは、極端に少なくなるだろう。

 暁治がこの家から遠ざかったら、桃は、ほかのみんなはどうなるのか。

「浦島太郎が、竜宮城へ行けたのは一度きり、だよな」

 行きて帰りて、道は――

「暁治殿~! 参拝に行きまするぞ!」

「着く前に年が明けるでござるよ!」

 ぐるぐるとした思考が、ふっと賑やかな声にかき消される。我に返ると、茶色い瞳がじっとこちらを見つめていた。
 瞬く暁治に、その瞳はやんわりと細められる。

「はるは、自由でいいんだよ」

「朱嶺」

「ほら、行こ。もうあと少しで年が変わっちゃう」

 本当はそんなこと思っていやしないのだろう。掴んだ手を離す気はないのかもしれない。
 握られた手の温かさに、暁治は胸を締めつけられるような心地になった。それは自分も同じ気持ちだからこそだ。

「桜小路、絵のほうは順調か?」

「ああ、いい具合に進んでいる。それより、こんな時間だが、間に合うのか?」

 玄関先に出ると、桜小路もいる。年越し蕎麦を食べないのか、と声をかけた時は、絵がキリのいいところまで進まないと、年が明けられないと言っていた。
 どうやら一段落したようだ。

「任せてくだされ! このわたくしめがばびゅーんと……ゲフンゲフン」

「わりと近いでござる。さほど時間はかかりませんぞ」

 河太郎の調子では、あの提灯が活躍してくれると思ってよさそうだ。しかし桜小路にネタバラシはできない。鷹野に背中を叩かれむせた彼は、慌てて口をつぐんだ。

 雪はこんこんと降っているが、稲荷の参道へ向かうと、不思議と雪が薄らとしか積もっていない。山道も短縮できることを考えれば、かなりスムーズに辿り着けそうだった。
 年が明けるまであと三十分。

「宮古」

「ん? なんだ?」

「いや、悪かった」

「なにが?」

「良かれとしたことだったが、短慮だった。彼が卒業するまで一年、長いよな。でもたまに帰ってきたら」

「いや、それはたぶん、できない気がする」

 道中、隣でそわそわしていたのは、これを言いたかったからか。急に桜小路に謝られて、暁治は苦笑交じりの笑みを浮かべた。

「どうしてだ?」

「なんとなく、そんな気がした」

 もしこれがおとぎ話だとしたら、物語の主人公である暁治は、訪れた泡沫の世界、この場所には、二度と戻れない。

 現実はこの町に戻ってくることは可能だ。けれどそこはいまある、朱嶺と、あやかしたちとともに過ごした世界、ではないかもしれない。
 しかし暁治は夢も捨てきれない。秤に乗せたものはどちらも重かった。

「大丈夫だよ。俺は悔いのない選択をする」

「そう、か」

「うん」

 この町での二度目の冬――これが最後になるのか、これからも続くのか。
 まだ暁治の中で定まってはいないけれど、最後に手にするのは、希望だと信じてたかった。

「強く、逞しく、だ」

 この時期に芽吹く麦は、踏みしめるほど霜の下で、強く生長すると聞いたことがある。それと同じように、へこたれそうになった時は大きく身体を伸ばす。
 そして冷たい雪を押しのけるのだ。

「はーるー! そろそろ日付変わるよー!」

「おう!」

 踏み出す一歩――新しい年が始まる。

次候*麋角解(おおしかのつのおつる)

 冬休みに入り、いよいよ年の瀬と言った毎日。この町は大晦日から三ヶ日まで、ほぼ店が閉まるとのことだ。近所にある崎山さんの商店も例外ではなく、冬籠もりのための買い物をしなくてはならない。
 人手は多ければ多いほどいい。というわけで、普段から暁治の財布にたかっている妖怪たちの出番だ。

「ええーっと、これは鷹野が買い出しに出てるし、こっちの特売は河太郎が行ってくれてるからいいか」

「暁治、お餅はたくさん買うにゃ」

「餅って、結構高いよなぁ」

「元はお米ですからね。相応の値段です」

 年末特売のために、中心部の大きなスーパーへ来ていた。両隣ではキイチと石蕗が荷物持ちをしている。年末年始の神社は、さぞかし忙しいだろうと思っていたのだが、石蕗自ら雑用を買って出てくれた。
 キイチの告げ口によると、向こうが忙しすぎて、逆にこちらのほうがマシだとか。さすがはこの町一番の神社である。

「暁治、数の子が食べたいにゃ」

「おせちは桜小路が予約してあるって言ってたから、いらないぞ」

「それなら今日いないのは許すにゃ」

「大晦日までには帰るって言ってたけど。なんの用だろうなぁ」

 数日前に突然、家を数日空けるからよろしく頼む、と言われた。仕事は休みを取ったと言っていたので、実家の用事だろうかと踏んでいる。
 しかし先日の一件以来、やる気に満ち満ちていて、いまにも休み返上しそうな勢いではあった。

 あの様子では、あっという間に自分の壁を乗り越えていきそうだ。そう思うと負けていられないなと、暁治にも気合いが入る。

「天狗の坊は帰ってこられるんですかね?」

「朱嶺、忙しそうだしな」

「寂しそうですね」

「い、いや! ただ騒がしいのがいないと静かなだけだ」

 ニヤリと笑った石蕗に冷や汗をかく。さらに焦って顔をブンブンと振る暁治に、ますます笑みが深くなった。
 桜小路が不在の頃から、朱嶺も家にほとんどいない。天狗は神様の御使いだから、忙しいのだとぼやいていた。

 帰ってきても布団で三秒寝。ゆっくり話す時間もなかった。慌ただしく走り回る、まさに師走といったところだ。

 けれどスーパーから戻ると、玄関に下駄が一足。

「ただいま」

「はーるー! マイダーリンおかえりぃ」

「なんだそれ」

 玄関先から声をかけると、バタバタと足音がして、やけに元気な朱嶺が滑り込んでくる。その手にはなにやら長細いものが二本。よく見ると枝分かれしたそれは、鹿の角のようだった。

「そんなもの振り回すなよ、危ない。障子に穴が開くだろう。どうしたんだそれ」

「仕事のお礼にもらった! 鹿は神様の使いだからね。ご利益あるよ」

「折ったのか?」

「違うよ。いまは鹿の角が落ちる時期なんだよ」

「ふぅん、で、それどうするんだ? 飾るのか?」

 首がついてこないだけマシだけれど、その見るからに立派な角を、再利用する用途が思いつかない。仏間に置くのでも――正直、邪魔そうだ。
 そんなことを思って首を捻る暁治の反応に、目の前の顔がぱあっと華やぐ。

「これはねぇ。細工師に頼んで加工してもらおうと思って!」

「また面倒くさいことを」

「指輪! 指輪とかどう?」

「婚約指輪ですかね。おめでとうございます。あ、お邪魔しますね」

「えっ!」

 瞳をキラキラさせる朱嶺と、その横をなんの躊躇いもなく通り過ぎていく石蕗。取り残された暁治はぽかんとしたが、キイチに声に我に返る。

「駄烏! 図々しいにゃ! 二度も敵に塩は送らないのにゃ!」

「ふーんだ! はるは僕にぞっこんなんだから!」

「気の迷いにゃー!」

 シャーっと威嚇するキイチをひらりと交わして、朱嶺はいたずらっ子のように舌を出す。そうしてみると本当に子供のように見える。
 夢の中で彼は、いまの自分は暁治仕様に可愛いを演じている、と言っていたが、どちらも素のように思えた。

 大人びた鋭い彼も、子供のように無邪気な彼も、二つは一つ。不思議な気持ちになるけれど、一粒で二度おいしいやつか、と暁治は一人で納得した。
 結局のところ、考えるとどちらの朱嶺も同じくらいに――愛おしい。

 ふっとそんなことを思って、ひどく頬が熱くなった。

「ほ、ほら! 買い物してきたやつを片付けるぞ!」

「暁治! おれと買い物袋、どっちを取るにゃ!」

「んー、買い物袋だな。冷凍品もあるし」

「にゃー!」

 ムンクの叫びよろしく悲鳴を上げたキイチを尻目に、暁治は石蕗に続いて玄関へ上がる。するとちょこんと柱の影から桃が顔をのぞかせ、にこりと笑った。
 雑踏の中の一輪の花。頭を撫でると、手をきゅっと握ってくるので、ほっこりとした気持ちになる。

「やーやーやー!」
「やーやー、とぅ!」

 荷物を手に桃と台所へ向かう途中、庭で鹿の角を手にチャンバラをしている、シロとクロがいた。あちらは稲荷神社の御使いだが、ご利益ものの角を木刀にするとは。
 稲荷神社でフォックスハウンドを飼う石蕗家らしい。

「石蕗、悪いがこっちも入れてくれ」

 台所で食材を仕分けしている教え子に、追加で買い物袋を差し出したら、黙って肩をすくめられる。
 なんでもそつなくこなす彼は、家事もわりとできるようだった。几帳面なところがあって、冷蔵庫を整理させるとすっきりとする。

 忙しい父とのんびり屋の母と、奔放な姉を持つとこうなるのだ、と言っていた。

「さて、支度をするか。キャベツとにんじんと、玉ねぎと豚バラ、でいいな」

 桜小路が不在で、宮古家はありふれた食卓に戻った。今日の昼ご飯は中華麺でお手軽焼きそば。
 大人数にも対応しやすい庶民派レシピ。焼きそばソースは喫茶店リヨン・リヨンの秘伝ソース、を分けてもらった。

「ホットプレートでいいですか?」

「ああ、うん。こたつに置いておいてくれ」

 もうしばらくすれば鷹野や河太郎も帰ってくる。指折り数えて人数を確認した。
 贅沢三昧な食事もいいが、自分で作るご飯もやはりいい。
 ザクザクとキャベツを切りながら、そんなことを思う。とはいえ毎日毎食、桜小路にご飯をたかっていたわけではない。

 そんな日は、鍋とか、鍋とか、鍋とか。人数が多いと、繊細な料理を作っている余裕がない。主婦と主夫の皆様には、頭が下がる思いがする暁治だった。

 ソースが焦げる香ばしい匂いがする中、大荷物を手にした鷹野たちが帰ってくる。ご近所からもらってきた、かき餅や干し柿、そして米俵。
 俵には目を剥いたけれど、いまの宮古家ならば楽勝の範囲だ。

「シロー、クロー! 遊んでないで手を洗え!」

「ごはんー!」
「やたー!」

 どこの屋台だ、という量の具材たっぷり焼きそばは、七人もいればいい感じに捌ける。ただし食卓が狭くてもう一つテーブルを出した。
 これは先日のクリスマスの時に買い足したもの。客人は多いよ、と聞かされて、料理を並べるのに、役立った。

「いただきまーす」

 全員が席について、両手を合わせる。それとともに予想以上のスピードで、焼きそばの山が崩されていく。

「いやぁ、やはり暁治殿の家は落ち着きますなぁ」

「誠に誠に。ここが我が家といった感じでござる」

「……河太郎、鷹野。そこは突っ込んでいいだろうか。お前たちの家はここじゃないだろ!」

「そうだよ! ここは僕とはると桃ちゃんの家だからね!」

「おれが抜けてるのにゃ!」

 女性が三人寄ると姦しい、というが、男が四人集まっても姦しい。桜小路が来てから疎遠になっていたが、少し前までこれが日常であったというのだから、驚きだ。
 ため息まじりに暁治が食後のお茶を啜れば、ただにっこりと「お疲れさまです」と石蕗に微笑まれた。

「家族、か。まあ、悪くはないけど」

「はる、僕と所帯を持つ気になった?」

「なんだか忙しいってわりに、水を得た魚のように元気だな、お前」

 ウキウキとした様子で隣に寄ってきた、朱嶺の額をつんと指先でついたら、にへらと締まりない顔で笑う。
 この機嫌の良さはどこからくるのだろう――そう考えて、ふと不在の彼を思い出す。

「あれか、桜小路がいないからか。お前、まだ疑ってるのか?」

「もしものことがあったらどうするの!」

「いや、もしもとかないから」

 このあいだ友情を再確認したところだ。そもそも彼は恋愛対象には微塵も掠らない。それでも疑り深い顔をする恋人に、ため息が出た。

「宮古先生。来年の契約はどうするんですか?」

「えっ? 来年? あ、……そういうことか」

 桜小路が来たことで、暁治が都会に帰ってしまうことを危惧している、そういうことだ。しかしこれは自分の問題でもある。
 彼が云々ではない。残るのか、帰るのか、決めるのは暁治自身だ。

「はる、僕は」

 黙り込んだ暁治に、朱嶺が口を開くと同時か――家のチャイムが鳴らされた。そしてさらに二度、三度、いたずらかと思うほど連続して鳴り響く。

「誰だ? 騒がしいな。朱嶺、ちょっと待っててくれ」

 話を遮るようで申し訳なかったが、鳴り止まないチャイムは、出るまで止まなそうだった。はいはい、と呟きながら、三和土に下りて暁治は玄関戸を開く。
 すると突然、両肩を掴まれ、大音量で叫ばれた。

「東京へ帰ろう!」

 数日ぶりの友人は、必死の形相で見下ろしてくる。暁治の頭に浮かんだのは、疑問符だけだった。

初候*乃東生(なつかれくさしょうず)

 二人でしっぽり温泉旅行、のはずが、なぜだか家族旅行にようになったあのあと。一人、留守番となった桜小路の家へ暁治は向かった。
 同じく留守番になっていた、子猫の雪を迎えに行くためだ。

 本当ならば、雪も幽世に連れてこられたらしいのだが、さすがに桜小路だけ仲間外れにするのは、気が引けたのだろう。
 家を留守にするからと桃が預けたとか。

 雪がちらつく中、徒歩十分はかなり身体が冷える。足早に歩き、暁治はようやく桜小路宅に到着する。
 平家の庭付き一戸建て。2LDKという広さは、一人暮らしには十分すぎるほどの広さがあった。

 だが彼の実家は、この家の敷地が二つ分くらいはすっぽり入るので、本人はそれほどそれを感じていないかもしれない。
 そんなことを考え、暁治は呼び鈴に手を伸ばす。しばらくすると、玄関扉が開き、数日ぶりの彼が顔を出した。

 暁治も平均より身長が高いが、桜小路はそれよりもかなり背が高い。
 目の前に立つとさすがに圧迫感がある。久しぶりのその感覚に、暁治は少しばかり苦笑いをした。

「宮古、帰ったのか」

「留守にして悪かったな。これは土産だ」

「わざわざすまない。あ、雪はいま寝ているんだが」

「そうか、上がっても?」

「もちろんだ」

 招き入れられた家は、彼が借りた時にも訪れたが、少しばかり生活感が増したようだ。生活用品が増えている。

 それでも静かなこの家で一人は、さすがに寂しくもなるだろう。猫が欲しいという気持ちは頷けた。

「あれ? 絵をまた描き始めたのか?」

 襖が開いた一室。床にスケッチブックや絵の具が広げられている。そして壁やイーゼルに立てかけられたキャンバスには、描きかけの絵があった。
 まだラフのような状態だけれど、視線が吸い寄せられて、立ち止まらずにはいられない。

 桜小路の絵は引力がある。見るものの足を止めさせ、呼吸をするのも忘れるくらい見惚れさせる。
 暁治が自分に足りない部分だと、そう思わせる魅力。

「ああ、宮古の絵を見て、立ち止まってはいられないと思った」

「このあいだは、どうでもいいって言ってたのに」

 この言葉は頭に血が上るくらい、暁治に突き刺さった。それは苛立ちだった。人にはないものを、たくさん持っているくせに――余裕だな、そう感じたのだ。
 暁治が足掻いて、必死になっていたものを簡単に手放す。

 それに腹が立ったのだ。

「この町は優しくてあたたかくて、美しい。それを感じたら、俺なんかが描かなくても、いいんじゃないかと思えた」

「うーん、インプット期みたいな感じか?」

「うん、それだな。いま自分に足りないもの、それがわからなかったんだ」

「お前に足りないものなんてあるのか?」

 彼は才能の塊だ。子供の頃から見てきたから、暁治はそれを直に感じてきた。生き物の躍動感、光の煌めき、息吹、温度、それらが感じられる。
 人物を、自然をより美しく、色鮮やかに表現できるのが、桜小路の強みだ。

 もちろん静物も、触れられそうに思うほど繊細に描く。写実的な絵は暁治も得意としているが、彼には到底敵わない。

「ふと、思ったんだ。つまらない絵だな、と」

「え?」

 ぽつりと呟かれた言葉に、暁治は驚いて振り返る。後ろに立っていた桜小路の表情は、真剣そのもの。冗談を言っているわけではないようだった。
 あの時、自分にも向けられた言葉。彼はなにを思ってこの言葉を呟いたのか。

「盛大なブーメランってやつだな」

「桜小路、俺に言った言葉、覚えてたんだな」

「ああ、すまない。いま思うとこれは傷つける言葉だったな。俺はどうやら言葉が足りないようだ。宮古ならもっといい絵が描けるのに、もったいないって言いたかったんだ」

「それは、言葉が足りてないというか。伝わる意味が全然違うぞ」

 難しそうな顔をして顎に手をやるその様子に、暁治はぷっと吹き出した。あの言葉の裏に、そんな意味があったなんて、誰が想像するだろう。
 それでも喉に引っかかっていた棘が、するりと抜けたような気分だった。しかし昔から彼は、言葉が足りない。

 よく言えばまっすぐで言葉を飾らない、と言えるだろうが。受け取り方を間違えると、辛辣に聞こえる。
 暁治に伝わったのは、後者だ。絵描き失格の烙印を押された気持ちになった。

「いままでなぜ、相手がそんなに不機嫌になるのか、よくわからなかった」

「お前ってさ、前から思ってたけど。結構天然だよな」

「そうなんだろうか? ここへ来て、人と接することや考えることが増えたら、自分に非があること、足りないものがあることに気づいたんだ」

「まあ、言葉が足りないのは確かだけど。お前の絵に足りないものがあるなんて、想像ができない」

 この部屋にある、デッサンやラフを見ているだけでも、その実力は見て取れる。彼がなにを思い悩んでいるのか、暁治にはまったく考えつかない。
 それでも黙って答えを待つと、桜小路はおもむろにキャンバスに近づいた。

「俺の絵からは、なんというか。愛情が感じられない。見るものに暖かなものを与える、愛が足りない気がするんだ」

「んー、愛? また抽象的な」

「いまの宮古の絵からは、それを感じる」

「そ、そうか?」

「ああ、心が豊かになったんだな。一番の原動力は、恋というやつだな。きっと」

 振り向いた桜小路は眩しそうに目を細めて、満足げに頷く。けれどしたり顔で、そんなことを言われた暁治は、頬の熱さに身悶えそうになっていた。
 朱嶺を描いたあの絵を見られた時から、なにか言われるのではと心配になっていたが、いまこんなところで。

 反論もできず、思わず遠くに視線を向けると、桜小路がふっと笑ったのを感じた。

「俺はいままで、絵のことしか考えていなくて。誰かを想うことも、誰かを労わることもできていなかった。ゆとりがないんだ」

「桜小路は、早い時期から大人に囲まれていたから。まあ、その辺は仕方がないんじゃないか?」

 学生の時から大人たちが、将来性のある彼に群がっていた。思い返せば彼に友達、と呼べるものがいたのかどうかさえ、わからない。
 もしいたとすれば暁治くらいなのではないか。

 音信が途絶えて訪ねて来るくらい。なんでも言ってくれると、信頼してくれるほど、彼の傍にいたのは暁治しかいなかった。

「気づいたなら取り戻せるんじゃないか?」

「そうだろうか。そうだといい」

「大丈夫だ。俺だって、ここへ来て得たものは大きい」

 小さく笑ったその顔に、グッと親指を立てて、友人の一歩にエールを送る。

 昔、祖父が話していた言葉を、暁治はふと思い出した。夏枯草という花は、夏に枯れゆくけれど、寒い冬に芽吹く花。ほかの花たちが枯れゆく中で、命を膨らませ、冬を乗り越える。
 どんなに暗く冷たい季節が訪れても、厳しい季節の中で芽を出し育つ。

 その言葉を振り返ると、それはまるで――いまの自分たちのようだと思えた。

「みゃあ」

「雪、おはよう。お姫様のお目覚めだな」

 二人で顔を見合わせていると、鳴き声とともに足元に柔らかな感触がした。擦り寄ってくる身体を抱き上げて、暁治は彼女の顎をカリカリと撫でてやる。
 気持ちよさそうに目を細めるその姿に、自然と顔も綻ぶ。

「あっ、そうだ。桜小路」

「なんだ?」

「これからうちで」

 二つ目の用事を思い出した暁治が、声を発そうとした瞬間。けたたましく家のチャイムが何度も響いた。そしてその音に混じって聞き慣れた声がする。

「はぁ~るぅ~! もう準備できてるよ!」

「うるさいぞ! 近所迷惑だ!」

「あ、宮古」

 催促するように鳴らし続ける恋人に、暁治はため息まじりに足を踏み出した。けれど呼び止められて、その足を止める。
 やけに真剣な声。
 その先を見つめれば、精悍な顔が決意を新たにしていた。

「あの時の言葉、いまさらだけど訂正する。お前の絵は優しくて愛に溢れているよ。とても素晴らしい絵だ。……俺は、宮古に負けないように頑張る」

「桜小路」

 胸がじわりと熱を帯びる。ふつふつと込み上がるような気持ちは、例えるならば情熱。
 自分も負けるものかと、本来の暁治の負けん気強さが内から湧いてくる。自然と持ち上がる口角に、桜小路は大きく頷いた。

「はる! とコウちゃん! もうクリスマスパーティー、始まっちゃうよ!」

「わかってるよ!」

 玄関から先へ上がれないのは妖怪ゆえか。早く! と急かすようにまたチャイムが鳴る。しかし大きな声に目の前の顔が、不思議そうに傾げられた。

「クリスマス、パーティー?」

「桜小路、行こう。のんびりしすぎて、日付も忘れたか? 今日はクリスマスだ。ご馳走作ってみんな待ってる」

「みんな、か。お前たちの家族に、入れてもらえるのは嬉しい」

「……家族。ああ、家族だな。でも桜小路だって、もう家族みたいなものだろう。さあ、行くぞ」

 驚いた顔をして立ち尽くす親友の、腕を掴んでもう一度足を踏み出す。
 その夜は久方ぶりに家の中が大賑わいになった。妖怪にクリスマスは関係あるのか、という突っ込みは、その時ばかりは心に納めた。