距離

 雨曇りの中でも彼の浮かべる笑顔は華やかで麗しい。彼がこんなにもまばゆいのは、並の人間が持ち合わせていないものを持っているからではないだろうか。
 普段から見せる無駄のない洗練された所作も、身にまとう特別な雰囲気も、昨日今日で身についたものではない。きっと幼い頃から特別な指導を受けて育ったのだろうと思う。

 彼は一体何者なのだろう――彼のことを知るたびにその疑問が湧いてくる。けれどなぜかそれを深く問いただす気持ちになれないでいた。
 知りたいのに知りたくない。そんな気持ちになるのだ。しかしそれがなぜなのかはよくわからないが、いまは知らなくても困ることはない。心に晴れ間を持たせてくれる彼がいてくれるだけで構わないのだ。

「雨、濡れちゃったね」

「だから傘を差せって言ったのに」

 五分ほどの距離を歩いて帰るだけなのに、マンションに着いた時には二人ともびしょ濡れだった。あと数メートルと言うところで雨脚が強くなったのだ。
 それなのに折りたたんだ傘を開きもせず、リュウは並んだ肩を抱いて駆け出した。走るよりも確実に傘を開いたほうが濡れないことはわかりきっているというのに、彼は無駄な運動をさせてくれる。
 文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、あまりにも無邪気な顔をして笑っているので言葉が出なかった。

「靴下脱いで裾を捲って、いまタオル……ってここで脱ぐな」

「これで拭けば、ここ濡れない」

 洗面所にタオルを取りに行く前に、リュウは着ていたTシャツを脱ぐとそれで身体や足元を拭き始める。着ているものも濡れてしまっているし、確かにそのほうが早いかもしれないけれど、あまりにも大雑把過ぎて驚くしかない。
 結局ズボンまで脱いで下着一枚になったリュウは、洗面所にやって来て濡れた服を洗濯機に放り込んだ。そんな姿に肩をすくめると、リ彼は小さく首を傾げる。

 呆れられている意味がよくわかっていないのだろう。しかし怒ることでもないし、合理的と言えばその通りだ。仕方なく首を傾げたままの彼にフェイスタオルを被せてやった。滴るほどではないがだいぶ髪が濡れて頬に貼り付いている。

「ほら、ちゃんと髪拭いて」

 風邪を引かせるわけにもいかない。突っ立ったまま動かないリュウの髪をタオルで軽く拭いたら、今度は身を屈めて頭を突き出してきた。まるで幼い子供か大きな犬を前にしている気分だ。
 その仕草に思わずため息が漏れてしまう。けれど大人しく待っている姿を見れば、世話も焼きたくなってくる。また一つため息をついて、彼の柔らかい髪が傷まないように優しく髪を拭いてやった。

 仕上げにドライヤーまでかけてやれば、ぺたんとしおれていた髪がいつものふわふわとした髪質に戻る。触り心地のいい髪につられて頭を撫でると、至極満足げな笑みを返された。

「もういいだろう。早く服を着てこい」

「うん」

 背中をぺちりと叩けば、リュウはご機嫌な様子で横を通り過ぎていく。それにしても鼻歌でも聞こえてきそうなくらいの機嫌のよさはどこから来るのだろう。よくわからない彼の感情のスイッチに首をひねりながら、自分も濡れたシャツやズボンを脱いだ。
 そして解いた髪を適当に拭いて、服とタオルを洗濯機に放り込んだ。それから洗剤と柔軟剤をセットしてスタートボタンを押せば、水が勢いよく吐き出される。ぼんやりそんな様子を眺めていたら、ふいに視線を感じた。
 なにげなくその視線を振り返ると、リュウが洗面所の入り口に突っ立っている。

「どうした?」

 声をかけるとなぜか驚いたように彼は肩を跳ね上げる。その反応に首を傾げると、手にした服をおずおずといった様子で差し出してきた。

「あ、えっと、着替え」

「ああ、悪いな。ありがとう」

「うん」

 受け取って礼を言うと小さく頷き返事をするけれど、リュウはじっとこちらを見つめたまま動かない。不思議に思い名前を紡ぎかけたが、自分の姿を見下ろしてその意味を悟った。
 それと同時に悟られたことに気づいたのか、彼の顔が一気に耳まで紅潮する。しかし逃げ出すかと思った彼はそこに立ったまま相変わらず動かない。向けられる視線はなんとなく居心地が悪いが、長く息を吐き出しながらズボンに足を通しシャツを羽織った。

「リュウ」

 入り口に立ち尽くす彼の前まで近づいていくと、こちらを見ていた目が所在なげに泳いでから伏せられる。けれどその目をじっと見つめれば、ゆるりと視線を持ち上げ彼はこちらを見た。

「ご、ごめんなさい」

「別に怒ってるわけじゃない」

 叱られることを想像していたのか、目の前の彼は首をすぼめて身体を萎縮させている。その姿に自分は大きくため息を吐き出して手を伸ばした。すると叩かれるとでも思ったのか、ぎゅっと目をつむったリュウはビクリと肩を跳ね上げた。

「怯え過ぎ」

 傷を負った動物が、その身を守ろうと必死になっているかのようだ。彼にとってこのことは、自分には知られたくないことだったのかもしれない。だから不安が募って落ち着かないのだろう。

「宏武?」

「純真な動物にも欲はあるよな」

 彼は無垢な生き物だけれど、やはり動物なのだ。それ相応の欲は持ち合わせているわけで、素直な性格そのままにその欲が顔を出しただけ。まさか自分が彼の欲を駆り立てるに値するとは思ってもみなかったけれど。

「気持ち悪くない?」

「別に、人の性癖なんて気にならない」

 それに自分も人のことは言えない。自分は恋愛する相手にこだわりは特にないのだ。だから男でも女でも情が湧けば好きになることもある。いままでどちらとも付き合ったことがあるけれど、どちらがいいとかそういう風には思ったことはない。

 情が湧いて相性が合えばそれでいいのだ。だからリュウの恋愛対象がなんであっても気にはしない。
 しかしきっとリュウはその性癖が正しくないと言われて育ったのだろう。人に知られることも、公言することも恥なのだと言われてきたに違いない。だからあんなにも怯えたりするのだ。

「じゃ、じゃあ、触れてもいい?」

 けれどそれを自分は拒絶することなく受け入れた。だから受け入れてくれる自分に興味が湧いたのだろう。彼にタイプがあるとして、それのどこかに自分が当てはまったとしても、それは気の迷いだ。

「それはあんたの目に自分が性的対象に映ってるってこと?」

「宏武ステキだよ。すごく色っぽくてドキドキする」

 恐る恐る伸ばされた手がゆっくりと頬に触れる。そしてぬくもりを確かめた手は首筋を撫で、胸元まで滑り落ちていく。羽織っただけのシャツの隙間に指先が滑り込み、それをはだけさせる。緊張しているのか、普段よりも触れる手が熱くしっとりと汗ばんでいた。
 いつも自分を見つめるキラキラとした瞳には、いま熱を宿した炎が揺れている。その目を見つめて考えた。きっと彼との相性は悪くはない。健気な彼を自分の手の内に収めることは、多分きっと容易い気がする。けれどその先が考えられない。

「駄目だリュウ、離れて」

「宏武に触れたい」

「そんな感情、いまだけだよ。それは一時の気の迷いだ」

 見知らぬ場所で見知らぬ人に出会い優しくされたから、心が勘違いしているのだ。もしそうじゃないとしても、自分たちはこれから先も一緒にいられるとは限らない。そこまで考えて、そうかと納得する――彼のことを知るのをためらうのは情が湧かないようにするためだ。

 彼の隣は居心地がいいから、このままだといつか必ず情が湧いてしまう。目の前にある無邪気な笑顔が愛おしいと思うようになる日が来る。それは予感ではなく確信だ。だから彼のことを知りたくない。彼に惹かれてはいけないのだ。
 けれどどうしたら傷つけずに彼を引き離すことができるのか。不器用な自分にうまくそれができるのか、それがよくわからなかった。