距離
4/34

 雨曇りの中でも、彼の浮かべる笑顔は華やかで麗しい。
 彼がこんなにもまばゆいのは、並の人間が持ち合わせていないものを、持っているからではないだろうか。

 普段から見せる、無駄のない洗練された所作も、身にまとう特別な雰囲気も、昨日今日で身についたものではない。きっと幼い頃から、特別な指導を受けて育ったのだろうと思う。

 彼は一体何者なのだろう――彼のことを知るたびに、その疑問が湧いてくる。けれどなぜかそれを、深く問いただす気持ちになれないでいた。
 知りたいのに知りたくない。そんな気持ちになるのだ。

 それがなぜなのかはよくわからないが、いまは知らなくても困ることはない。心に晴れ間を持たせてくれる、彼がいてくれるだけで構わないのだ。

「雨、濡れちゃったね」

「だから傘を差せって言ったのに」

 五分ほどの距離を歩いて帰るだけなのに、マンションに着いた時には二人ともびしょ濡れだった。あと数メートルと言うところで、雨脚が強くなったのだ。
 それなのに折りたたんだ傘を開きもせず、リュウは並んだ肩を抱いて駆け出した。

 走るよりも確実に傘を開いたほうが、濡れないことはわかりきっているというのに、彼は無駄な運動をさせてくれる。
 文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、あまりにも無邪気な顔をして笑っているので、言葉が出なかった。

「靴下、脱いで裾を捲って、いまタオル……ってここで脱ぐな」

「これで拭けば、ここ濡れない」

 洗面所にタオルを取りに行く前に、リュウは着ていたTシャツを脱ぐと、それで身体や足元を拭き始める。
 着ているものも濡れてしまっているし、確かにそのほうが早いかもしれないけれど、あまりにも大雑把過ぎて驚くしかない。

 結局ズボンまで脱いで、下着一枚になったリュウは洗面所にやって来て、濡れた服を洗濯機に放り込んだ。そんな姿に肩をすくめると、彼は小さく首を傾げる。

 呆れられている意味が、よくわかっていないのだろう。だが怒ることでもないし、合理的と言えばその通りだ。
 仕方なく首を傾げたままの彼に、フェイスタオルを被せてやった。滴るほどではないが、だいぶ髪が濡れて頬に貼り付いている。

「ほら、ちゃんと髪拭いて」

 風邪を引かせるわけにもいかない。突っ立ったまま、動かないリュウの髪をタオルで軽く拭いたら、今度は身を屈めて頭を突き出してきた。
 まるで幼い子供か、大きな犬を前にしている気分だ。

 その仕草に思わずため息が漏れてしまう。けれど大人しく待っている姿を見れば、世話も焼きたくなってくる。
 また一つため息をついて、彼の柔らかい髪が傷まないように、優しく髪を拭いてやった。

 仕上げにドライヤーまでかけてやれば、ぺたんとしおれていた髪が、いつものふわふわとした髪質に戻る。触り心地のいい髪につられて、頭を撫でると、至極満足げな笑みを返された。

「もういいだろう。早く服を着てこい」

「うん」

 背中をぺちりと叩けば、リュウはご機嫌な様子で横を通り過ぎていく。鼻歌でも聞こえてきそうな機嫌のよさは、どこから来るのだろう。
 彼のよくわからない、感情のスイッチに首をひねりながら、自分も濡れたシャツやズボンを脱いだ。

 解いた髪を適当に拭いて、服とタオルを洗濯機に放り込む。洗剤と柔軟剤をセットして、スタートボタンを押せば、水が勢いよく吐き出された。
 ぼんやりそんな様子を眺めていたら、ふいに視線を感じる。

 なにげなくその視線を振り返ると、リュウが洗面所の入り口に突っ立っていた。

「どうした?」

 声をかけると、なぜか驚いたように彼は肩を跳ね上げる。その反応に首を傾げれば、手にした服をおずおずといった様子で、差し出してきた。

「あ、えっと、着替え」

「ああ、悪いな。ありがとう」

「うん」

 受け取って礼を言うと、小さく頷き返事をするけれど、リュウはじっとこちらを見つめたまま動かない。
 不思議に思い、名前を紡ぎかけたが、自分の姿を見下ろしてその意味を悟った。

 それと同時に、悟られたことに気づいたのか、彼の顔が一気に耳まで紅潮する。しかし逃げ出すかと思った彼は、そこに立ったまま相変わらず動かない。
 向けられる視線はなんとなく居心地が悪いが、長く息を吐き出しながら、ズボンに足を通しシャツを羽織った。

「リュウ」

 入り口に立ち尽くす彼のに近づくと、こちらを見ていた目が所在なげに泳いでから伏せられる。けれどその目をじっと見つめれば、ゆるりと視線を持ち上げ、彼はこちらを見た。

「ご、ごめんなさい」

「別に怒ってるわけじゃない」

 叱られることを想像していたのか、目の前の彼は首をすぼめて、身体を萎縮させている。その姿に自分は大きくため息を吐き出して、手を伸ばした。
 すると叩かれるとでも思ったのか、ぎゅっと目をつむったリュウは、ビクリと肩を跳ね上げた。

「怯え過ぎ」

 傷を負った動物が、その身を守ろうと必死になっているかのようだ。
 彼にとってこのことは、自分には知られたくないこと、だったのかもしれない。だから不安が募って、落ち着かないのだろう。

「宏武?」

「純真な動物にも欲はあるよな」

 彼は無垢な生き物だけれど、やはり動物なのだ。それ相応の欲は持ち合わせているわけで、素直な性格そのままに、その欲が顔を出しただけ。
 まさか自分が、彼の欲を駆り立てるに値するとは、思ってもみなかったけれど。

「気持ち悪くない?」

「別に、人の性癖なんて気にならない」

 それに自分も人のことは言えない。自分は恋愛する相手にこだわりはないのだ。だから男でも女でも、情が湧けば好きになることもある。
 いままでどちらとも、付き合ったことがあるけれど、どちらがいいとかそういう風には思ったことはない。

 情が湧いて、相性が合えばそれでいいのだ。だからリュウの恋愛対象がなんであっても、気にはしない。
 しかしリュウはきっと、その性癖が正しくないと言われて育ったのだろう。

 人に知られることも、公言することも恥なのだと、言われてきたに違いない。だからあんなにも怯えたりするのだ。

「じゃ、じゃあ、触れてもいい?」

 けれどそれを自分は、拒絶することなく受け入れた。だから受け入れてくれる相手に、興味が湧いたのだろう。
 彼にタイプがあるとして、それのどこかに自分が当てはまったとしても、それは気の迷いだ。

「それはあんたの目に、自分が性的対象に映ってるってこと?」

「宏武ステキだよ。すごく色っぽくてドキドキする」

 恐る恐る伸ばされた手が、ゆっくりと頬に触れる。そしてぬくもりを確かめた手は首筋を撫で、胸元まで滑り落ちていく。
 羽織っただけのシャツの隙間に指先が滑り込み、それをはだけさせる。

 緊張しているのか、普段よりも触れる手が熱く、しっとりと汗ばんでいた。
 いつも自分を見つめるキラキラとした瞳には、いま熱を宿した炎が揺れている。

 その目を見つめて考えた。きっと彼との相性は悪くはない。健気な彼を自分の手の内に収めることは、多分きっと容易い気がする。けれどその先が考えられない。

「駄目だリュウ、離れて」

「宏武に触れたい」

「そんな感情、いまだけだよ。それは一時の気の迷いだ」

 見知らぬ場所で、見知らぬ人に出会い、優しくされたから、心が勘違いしているのだ。もしそうじゃないとしても、自分たちはこれから先も一緒にいられるとは限らない。

 そこまで考えて、そうかと納得する――彼のことを知るのをためらうのは、情が湧かないようにするためだ。

 彼の隣は居心地がいいから、このままだといつか必ず情が湧いてしまう。目の前にある無邪気な笑顔が、愛おしいと思うようになる日が来る。
 それは予感ではなく確信だ。だから彼のことを知りたくない。彼に惹かれてはいけないのだ。

 けれどどうしたら傷つけずに、彼を引き離すことができるのか。不器用な自分にうまくそれができるのか、それがよくわからなかった。

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