来訪者

 彼が出かけてから、どのくらい時間が過ぎただろう。ふと玄関に掛けてある時計を見上げれば、十八時を過ぎていた。
 思っている以上に時間が過ぎている。確か十六時前くらいに出かけたはずだ。帰ってくるのが随分と遅いような気がした。

 動揺した気持ちを落ち着けるように、しゃがみ込んで膝を抱える。さっきのは一体なんだったのだろう。
 あの二本の足は、悪夢に出てくるものと同じだと思う。まさか白昼夢を見ているのだろうか。

 恐る恐る振り返ると、今度は突然リビングの電気がバチンと音を立てて消えた。部屋が一気に暗くなる。
 停電かとも思ったが、なにかがおかしい。

 じっとリビングのほうを見つめていると、違和感に気がついた。パソコンの電源が入ったままなのだ。
 薄暗い中でモニターの明かりだけが煌々としている。停電が起きたわけでも、ブレイカーが落ちたわけでもなさそうだ。

 だとしても蛍光灯が切れるような前兆はなかった。なにが起きているのか、さっぱりわからない。

 そうこうしているうちに、外で大きな雷が鳴った。ゴロゴロと鳴るとすぐに眩しい光が走る。この時期に嵐というのも珍しい。さらに雨もまた強くなってきた気がする。

 リュウが帰ってくるまでここにいよう。
 そう思いながら、窓に打ち付けられる雨を見ていたら、びりびりと響くような雷の音がしたあとに、大きな稲光が走る。

「ひっ……」

 リビングにある窓の外はベランダだ。雷が光った瞬間そこにまた、二本の足が見えた。それはぶら下がっているのか、風に揺られるように小さく動いている。
 得体の知れないものを前にして、がちがちと歯が鳴る。

 逃げ出したいのに身体が動かない。けれどふいに、部屋の中にインターフォンの音が響き渡る。その音で固まっていた身体の力が抜けた。
 飛びつくように玄関扉に駆け寄り、鍵を外して扉を押し開く。

「Oh!」

 慌ただしく扉を開いたら、見知らぬ男が立っていた。焦げ茶色の髪を後ろへ撫でつけ、蒸し暑い季節だというのにダークグレーのスリーピースを着ている。

 その人は自分よりも背が高く、視線を合わせるのに少し、上を向かなくてはならなかった。
 視線が合うと、人なつこそうに緑の瞳を細められる。
 若く見えるが、落ち着いた雰囲気をまとっているところを見ると、自分より年上かもしれない。四十前後だろうか。

「ヒロム・カツラギ?」

「リュウならいまいない」

 自分の名を訊ねてきたことに、驚きはなかった。彼がなんのためにここへ来たのかも、すぐに気づいてしまう。
 そうか、ようやく来たのか――真っ先に浮かんだ言葉は、それだけだった。リュウが来てもう二週間だ。

 少し遅いくらいではないだろうか。けれどこれで彼との時間もおしまいなのかと思うと、なんだか気持ちが沈んだ。

「そうですか。待たせてもらっても?」

「どうぞ」

 流暢な日本語だ。リュウはいまだに、単語で話すこともあるくらいだから、淀みのない言葉に少し驚いた。
 それが顔に出たのか、彼は目を細めて優しくこちらに微笑みかけてくる。しかしなんだかその視線は居心地悪くて、目を背けながら彼を招き入れた。

 部屋を振り返ると、先ほど消えた照明はなにごともなかったように、室内を照らしている。ほっと安堵の息をついてリビングへ行くと、背の高い客人をソファへと案内した。

「フランツ・オーモンさん」

「フランツとお呼びください」

 ソファで大人しく座っている彼――フランツにお茶を出すと、名刺を差し出された。
 横文字で書かれたそれは、どこかの会社なのか事務所なのかわからないが、肩書きはマネージャーとなっている。リュウはなにかの仕事に就いているのか。

「リュウを保護してくださりありがとうございました。公演を控えてるさなかの失踪でしたので、かなり肝を冷やしておりました」

「公演?」

「ご存じではないですか? リュウ・マリエール、ピアニストですよ。公演のために二週間前に来日しました」

 首を傾げた自分を見て、フランツは驚きに目を見開いた。そんなに有名な人間だったのだろうか。
 確かに一般人とは少し、違ったところは持ち合わせてはいたが、そこまで驚かれるとは思わなかった。

「申し訳ない、その分野は詳しくないので」

 ピアノはやはりどうしても好きになれない。なぜかと言われると、その理由はいまだ定かではないが、聴くだけで息苦しさを覚えてしまい体調を崩す。
 クラシック全般が苦手なわけではなく、ピアノの音色だけがどうにも苦手で、耳障りに聞こえてしまう。

「え? そうなのですか?  本当に?」

「なにか、おかしいですか?」

「あ、いいえ」

 不思議そうに何度も訊ねてくるフランツに、思わず険のある言い方をしてしまった。すると慌てたように彼は首を振り、申し訳ないと頭を下げてくる。
 少し大人げない反応をしてしまっただろうか。けれど彼が大げさに驚くからいけないのだ。

 人間不得手なものはいくつもあるものなのに、なぜそんなにも驚いたりしたのだろう。クラシックの分野に詳しくない人など、ごまんといる。

「リュウは元気ですか?」

「そう思いますよ」

「それはよかった!」

 そういえば初めて出会った日は、抜け殻のようだった。大事な仕事を放り投げてしまうほどの、なにかがあったのだろうか。人があんな風に空虚になるのは、どんな時だろう。

 心によほど大きな傷や、ストレスを抱えてしまった時――ふとそこまで考えて、なんだかその先を知りたくないような気持ちになった。
 だがそれは想いとは裏腹に、あっけなく明かされてしまう。

「恋人を亡くしたばかりで、仕事も手につかなかったのです。彼は音楽家としてのパートナーでもあったので」

「……そう、ですか」

 フランツはこちらが聞きもしないことを、つらつらと話してきた。リュウの最愛の人は幼馴染みだったそうだ。
 リュウがピアノを、彼がバイオリンを弾き、二人でどんな時も一緒に歩んできたのだと言う。

 二人で世界の舞台に立ちこれからと言う時に、恋人は儚い命を散らしてしまった。
 いままで二人で歩いてきた道を、一人で歩くのは辛過ぎたというわけか。どこにでもありそうな安いシナリオだ。

 しかしなぜ、そんな話を自分に聞かせるのだろう。自分は彼を拾った家主でしかないのだから、そんな内情を聞かせる必要はないはずだ。
 彼はここまで来るあいだに、どれだけのことを調べ上げてきたのだろう。

 素性や仕事、交友関係、人の性癖まで洗いざらいか。

「数年前、この近くの公民館で二人は演奏会に参加したことがあるんですよ。日本へ来るのはそれ以来です」

「そうですか」

 恋人との思い出の地を巡っているあいだに、リュウは道に迷いでもしたのだろうか。それともあの公園に、なにか思い入れがあったのか。

「彼は日本人だったのですが、あなたに面差しがよく似ている。少々驚きました」

「……そうですか」

 なにを言われても、曖昧な相槌しか打てない。悪意ではないのだろうけれど、あなたに懐いているのはいまだけなのだと、そう言外に言われた気がする。

 どの程度似ているのかはわからないが、もしかしたらリュウは自分を見て最愛の人が迎えに来てくれた、と勘違いしてしまったのかもしれない。

 だから彼は迷いなく自分について来た。違うと気づいても似ているから傍にいたのだ。
 自分は最初から誰かの「代わり」だったのか。あの笑みも、優しい手も、唇も、なにもかも代わりだから与えられたものなのだ。

「リュウはいつ頃、戻りますか?」

「そろそろだと思います」

 思った以上に傷ついている自分がいた。
 それにひどく動揺してしまう。彼との関係は上辺だけで割り切るべきだと、深い情などかけるなと言い聞かせていたのに。

 いままで傍にいた彼が、すべて泡沫なのだと思うと、ひどくやりきれない気持ちになる。
 ひと時でもいいから、自分のものだったと、思っていたかったのだろうか。浅はかでバカな自分がいま心底嫌になった。