重たいまぶたを持ち上げてみると、自分は清潔な乾いたシーツの上に横たわっていた。触り心地のいいシーツに誘われるように寝返りを打つが、身体がひどく重くてだるい。尻の孔にはいまだになにかが入っているかのような違和感があった。
途切れ途切れの記憶を巻き戻すと、あれから風呂場へ行った記憶が微かにある。そこでもリュウは発情した獣のように自分の中に押し入ってきた。最後のほうは彼の熱と律動だけで何度もイかされて、頭がおかしくなりそうなほどだった。
腹の中に何度も精子を吐き出されて、このまま孕んでしまうんじゃないかなんて錯覚まで起こしてしまうほどだ。けれどそのあとはもう本当に記憶がない。意識を飛ばした自分を介抱して、リュウはわざわざベッドを整えてくれたのか。
しかし身体を持ち上げてみるが、ベッドの上にも部屋の中にもリュウの姿はない。サイドテーブルの時計を見ると十一時を過ぎたところだった。ずいぶんと長く眠っていたんだと気づく。
もう彼は行ってしまったのだろうか。確か昨日リュウは昼までだと言っていた。けれどもしかしたらリビングにまだいるのかもしれない。そう思い、身体を起こしてベッドから下りようと試みた。腰がかなりだるいけれどなんとか立ち上がれそうだ。
「……すごい噛み痕」
タオルケットが肌から滑り落ちるとその下に隠されていた身体があらわになる。鎖骨、腕や太腿、皮膚の柔らかな部分にくっきりと赤い痕が残されていた。鈍い痛みを感じて首筋を指先でなぞるとピリリとした痛みを感じる。
鏡で確認しないとわからないが、ここにも噛み痕は残されているようだ。これはしばらく残りそうだなと思わず苦笑いをしてしまう。リュウのこれはマーキングみたいなものだろう。興奮するときつく噛みついてくるのだ。
けれどそれだけ執着されているのだと思えば、痛々しい痕も愛おしさに変わる。
「リュウ?」
シャツを羽織りデニムを穿いて簡単に身支度を調えると寝室の戸を引いた。すると腹の虫を誘うような匂いが部屋に満ちているのに気づく。視線を動かしてキッチンを見れば、彼が鍋を前にしてなにかをせっせと作っていた。
こちらにはまったく気づいていないのか、鼻歌交じりに鍋をかき回している。ゆっくりと近づいていくと背中を向けていたリュウが振り返った。そしてようやくこちらの存在に気づいたのか、目を丸くして驚きの表情を浮かべる。
「宏武、大丈夫?」
コンロの火を止めて慌てた様子で駆け寄ってくる彼に思わず頬が熱くなってしまう。確かにリュウには激しく抱かれはしたが、あんなにもはしたなく泣き縋って求めたのは自分自身だ。
冷静になるとどうしてあんな真似ができたのだろうと、思い出すのもためらわれるほど羞恥しか湧いてこない。まっすぐな瞳に見つめられて思わず目をそらしてしまう。すると目の前に立つ彼はそんな自分を見つめて口の端をゆるりと持ち上げる。
細められた茶水晶の瞳は企みを含むように輝いていた。
「いっぱい痕、残しちゃった。でもこれでしばらく忘れないね」
伸びてきた手が一つだけ留めていたボタンを外し、シャツの隙間に滑り込む。手のひらは一番多く痕を残す首筋を撫でる。撫でられるたびにひりひりとするそこは、ひどく熱くて否が応でも昨日の情事を思い出してしまう。
触れる手から意識をそらして視線を俯けたら、ふいに気配が近づいて首筋を舌でべろりと舐められる。驚いて肩を跳ね上げると、いたずらっぽい瞳で小さく笑われた。下からのぞき込んでくるリュウの肩を両手で押し離せば、その手を取られて手の甲に口づけを落とされる。
「やめてくれ」
触れられた場所が熱い。慌てて手を振りほどくと火照る身体を抱きしめて彼に背を向けた。けれどリュウは背中から腕を回し抱きついてくる。首筋やうなじにすり寄られると肌がざわめいてしまう。
昨日の晩に嫌というほど身体に教え込まれた感覚は、意識せずとも簡単によみがえってくる。熱を持って触れられるだけで、じわりとした心地よい快感が身体を震わせる。このままではますます忘れられなくなる。
彼を思い出して毎晩身体を疼かせることになりそうだ。最後に身体を重ねたのは間違いだっただろうか。しかし思い出くらいは欲しかったのだ。彼が自分だけを見つめている瞬間を味わいたかった。
「宏武」
「あれが最後だって言っただろう」
甘い声で名前を耳元に囁かれる。それだけのことなのに肩が震えて、吐息がかかる耳まで熱くなってしまう。耳たぶを優しく唇で食まれると背中がゾクゾクとした。慌てて腕を振りほどこうとするけれど、しっかりと自分を抱きかかえた腕は離れていかない。
それどころかますます強く抱きしめてくる。身体を揺すってそこから逃げ出そうとするが、体格差がある上に昨夜の疲れが抜けていない身体だ、どう考えても無理がある。
リュウにその気がなければ離してもらうのは難しいだろう。けれどこのままではまた熱が高ぶってしまいそうだ。なんて浅ましい身体なんだろう。そう自分に毒づくけれど、耳の縁を撫でられ、耳穴までじゅぶりと舐められると小さく声を漏らしてしまう。
「リュウ、やめろ」
耳の穴をたっぷりと蹂躙した舌は耳裏を舐め、うなじや首筋に残された噛み痕を舐めていく。少しの刺激にも敏感に反応してしまう身体は、次第に立っていられなくなるほど震えてしまう。
崩れ落ちるように床に膝をついたら、その上にリュウは覆い被さるように身体を寄せてくる。彼から身体を離すように仰向けて倒れると、彼は自分にまたがりまっすぐにこちらを見下ろした。
「リュウ、これ以上はやめてくれ」
「じゃあ、もうこれで終わりって、言わない?」
縋るような目で見つめられて思わず言葉が詰まる。終わりにしたくはない。けれどもどうしたって自分とリュウには終わりが来てしまうのだ。彼はこれからも世界を飛び回って活躍していくのだろう。
一つの場所にとどまって自分などを相手にしている暇などない。自分が彼の足かせになるのは嫌なのだ。自分がいるせいで飛び立てなくなったりしたら、拭いきれない後悔に苛まれてしまうだろう。
「また誰かの羽根を折るだなんてことはしたくない」
飛び立つ力を持った翼を手折ることはもう二度としたくない。またあの時のようにすべてが壊れてしまったらと思うと、怖くてその手を握ることができなくなる。ああそうだ――自分があの夢から抜け出せないのは、あの人に呪われているせいじゃない。
自分自身があの夢に囚われているせいだ。記憶を奥深くに押し込んでも、夢を見ることでそれを忘れるなと自分に言い続けてきた。大切な人の人生を狂わせながらも安穏と暮らしている自分が許せなかったのだ。
しかしだからと言ってその命を絶つ勇気など持ち合わせていない。ただただ苦しむことが過去への贖罪なのかもしれない。
「またピアニストだなんてなんの因果だろう」
「宏武の心には誰がいるの? その人を、愛してるの?」
「違う。これはそんな感情じゃない」
あの人のことは忘れられないけれど、そこにある感情はもう愛おしさではない。いま愛おしいと感じるのはリュウだけだ。しかしあの人の存在は彼よりも深く心に根を張っている。浸食するかのような闇が心を覆い尽くして、自分を捕らえて放さないのだ。
どうしたらこの呪縛から逃れることができるのかわからない。リュウのことを好きになればなるほど影は大きくなっていく。誰かを愛することを心に広がる闇が許そうとしない。あの人以上の存在を心にとどめることを許してはくれないのだ。
「リュウが好きだ。でもまだ飛び立つことができるあんたを、あの人のように不幸にしてしまいそうで怖い」
「宏武、違う。その人と俺は違う」
頭ではちゃんとわかっている。けれどまったく違うのに、いまはそれが重なって見えてしまう。輝かしいほど大きく羽ばたいていたあの人の人生――それを壊してしまったように、自分はリュウまで不幸にしてしまうんじゃないかとそう思えてならない。
リュウが不幸になるのは見たくない。想像しただけで胸が苦しくなって、涙が込み上がってくる。瞬きをしたらしずくがこめかみを滑り落ちていった。
「好きでいるのが怖い。あの人の影に覆い尽くされてしまいそうで、好きになるほど苦しくて辛い」
あの人の影は自分の心の影なのだとそう気づいてはいる。誰かを愛してはいけないと戒めるのも自分自身だ。誰と付き合っても長く続かなかった理由はきっと、心に溜まった闇が幸せになることを拒んだからだろう。
自分にその資格がないのだと相手に背を向けたのだ。愛しいと思うのにリュウに向き合えない、それは心にこびりついた闇のせいだ。それは深く染みついて簡単には消えない。