約束
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 それでもリュウには心が傾いた。傍にいると、あの悪夢も忘れられるほど心穏やかにいられた。
 だからあの人の存在を強調するように、白昼夢を見たのだろう。人を死に至らしめてしまったことを忘れるなと、幸せになろうなどと考えてはならないと、教えるために。

「宏武、俺だけを見て! アキと宏武が違うように、その人と俺は全然違う」

「……アキ?」

 聞き覚えのない名前に、思わず首を傾げてしまう。そんな自分の反応に、彼は逡巡するような表情を浮かべる。勢いで言葉にしてしまったものを後悔している顔だ。
 それでも口を引き結んで、こちらを見つめていたリュウは、デニムの後ろポケットから、パスケースのようなものを取り出した。

 身体を起こして、差し出されたそれを受け取ると、そこにはしわしわになってよれた写真が一枚入っていた。
 写真には太陽のように眩しい笑顔を浮かべたリュウと、朗らかな明るい笑みを浮かべた少年のような子が、肩を並べて写っている。

 これがリュウの恋人――アキと呼ばれた子だろうか。真っ黒な瞳と、肩先まで伸びた艶やかな黒髪。
 なんとなく自分に似た顔立ちをしているようにも見えるけれど、自分はこんな風に穏やかな優しい表情は、浮かべられない。

 二人を見ているとまた胸が軋んだ。見れば見るほど、幸せそうな二人だと思った。
 写真を見ただけでも、その仲がわかるくらいに信頼し合い、愛し合う二人――この写真がこんなにしわしわなのは、雨に濡れたせいか。

 この写真をなくして、彼は雨の中を探し歩いていたのだろうか。それほどまでに大切な人なんだ。

「見た目、ちょっとだけ似てるかもしれない。けど宏武とアキは全然違う。宏武だから好きなんだ」

「似ているからついてきたんだ」

「それは! それはただのきっかけだ。宏武の傍にいて、宏武の可愛くて優しいとこが愛しいなって思った。すごく脆くて弱いところ、それを知って傍にいたいって思った。だから好きになった。宏武だから愛してるんだよ、信じて!」

 腕を伸ばして、目の前にある身体を抱き寄せるリュウは、縋りつくように必死だ。本当に彼はいま、自分を想っているのか。
 自分は彼の恋人の「代わり」では、ないのだろうか。胸の中に微かな期待が湧いてきそうになる。

 だがまだ恋人の影を、追いかけているんじゃないのかと、そう疑り深くなる自分もいた。

「宏武、アキはもういない。いまの俺の言葉だけ信じて」

「でもリュウは、まだアキを忘れてないんだろう?」

 投げかけた言葉に彼は息を飲み込み、目を見開いた。戸惑うような瞳に、やはり彼が追いかけてるのは、自分ではないのだと感じる。
 こうしてまだ写真を持ち歩いているくらいだ。まだ愛しているに違いない。

 もういないから、愛せなくなってしまったから「代わり」で、心を埋めようとしているんじゃないのか。

「……忘れてない。アキは、俺のことを置いていってしまったから」

「置いて、いった? どうして彼は、死んでしまったんだ?」

 目を伏せたリュウの顔に、どこかもの悲しい影を感じて、思わず問いかけてしまった。自分の問いかけに、彼はなにかを堪えるように唇を噛む。
 まるで大きなものを飲み込むみたいな、苦しそうな顔だ。

 それをじっと見つめていると、絞り出すような声で、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。

「アキはアパートメントの窓から、飛び降りて死んだ。少し前までいつもと同じ顔で、笑っていてくれたのに、なにも言わずにいなくなった。愛してるって言ったら、嬉しそうに頷いてくれたのに」

 感情を押し殺すかのように顔を強ばらせて、唇を震わせながら彼は瞳を潤ませた。
 そこにはなぜ? と言う感情よりも、後悔が浮かんで見える。

 終わらせなくちゃいけない運命なんだ――そう呟いた彼を思い出す。
 いままであれは、リュウの感情なんだろうと思っていた。だが本当は恋人が残した想い、だったんじゃないだろうか。

 すべてを捨てなきゃいけないと、そう思ったのは、アキのほうだった。

「……どうして彼がいなくなったのか、わかっているんじゃないのか?」

 自分が投げた問いかけに、リュウはいまにも泣き出しそうに顔を歪めた。

「俺が、アキを愛してしまったから、アキはマモンにひどい仕打ちを受けていた。でも俺は、なにもしてあげられなかった。守ってあげられなかった」

 もしかしたら自分とリュウは、同じものを抱えているのかもしれない。愛する人のすべてを受け止めたい――そう思いながらも、自分の想いに相手が苦しむ姿を見てきた。

 愛おしいという感情はふくれ上がるけれど、その愛では心さえ救ってあげられない。
 大切な人をその手で守ることができなくて、自分自身すらもがき苦しんでいる。

 お互いがお互いのすべてを愛していたのに、愛するがゆえに愛し方を掛け違えてしまったのかもしれない。
 だからあの人もアキも、最悪な結末を選んでしまった。

 残された自分たちは、愛する人への想いを断ち切ることはできなかった。
 あの映画の主人公のように、愛を手放して、すべてがリセットされるなんてことはあり得ない。

 心があれば、どうしたって失ったものの大きさに、引き裂かれる思いをする。
 だからあのラストに自分は引っかかりを覚えた。でもリュウはアキの気持ちを、そこに重ねてしまったのだろう。

「愛したことを、後悔はしてる?」

「してない」

 うっすらと涙が浮かんだ目は、揺らぐことなくまっすぐだった。そこには淀みもなくて、強い意志さえ感じる。
 リュウは本当に、アキのことを愛しているんだ。いまも心の中から失われないくらい深く。その想いは簡単に、拭い去れるような想いじゃない。

「けどいまは、宏武のことが好きだ。それはいけないこと? 宏武もまだ忘れていないんでしょう?」

「それは」

 瞳をのぞき込まれて、今度は自分が息を飲む。彼と同じように、自分もまだ忘れていないのだということに、改めて気づかされる。
 いまはもう、愛おしさではないかもしれないけれど、自分の心にはまだあの人がいる。その存在はなによりも大きい。

 彼がアキを忘れられないのと同じくらい、深い感情だ。リュウはあの人に、自分は彼の恋人に、お互いもういない相手に心が焦げ付くような嫉妬をしているのか。
 そう考えると、なんて滑稽なんだろうと思えてしまう。

 しかし先立つ人の面影は、深く心に刻みつけられて、そう簡単には消えていかない。

「宏武、お願い。いまだけを見て」

「わかってる。いつまでも過去に囚われ続けるのがよくないことだって」

「ちゃんと俺の目を見て」

「けど、自分はあんたの恋人みたいに、一緒に飛び回ることはできない。ずっと一緒にはいられない」

 過去と決別をして、リュウだけを見て、彼だけを追いかける。それはどれほど幸せだろうかと思う。だがいくら考えても、いまの自分には一緒に飛び立てる翼はない。
 夢を分かち合い、ともに歩くことはできないのだ。

 自分と彼は生きていく世界が違う。
 まっすぐに彼を愛せないもう一つの理由は、傍にいられない。それがわかっているからだ。

 彼が離れているあいだに、気持ちが移ろいでしまうのではないかと不安で堪らない。これから先の未来、彼に愛されている自信がないのだ。

「時間が欲しい」

「……時間があれば、俺のこと信じる?」

「わからない。わからないけど、いまはまだ受け止められないんだ」

 気持ちの整理がまだつかない。リュウの心に恋人がいると思うだけで、胸が苦しくなってしまう。時間が経って彼の中にいる恋人の影が薄れたら、この苦しみも消えていくかもしれない。

 だがそれよりも自分は、心にある闇を払拭しなくてはいけない。あの人の影が、自分の心の影がつきまとう限り、まっすぐにリュウと愛し合うことはできない気がする。
 いまのままでは過去に囚われて、怯えるばかりだ。

 しかし答えがわかっていても、まだ心は揺れ動く。本当に心を癒やしたら、あの記憶から抜け出して、後悔の念を断ち切ることができるだろうか。
 そうしたら少しは素直に、心にある感情を受け入れて、リュウのことを信じられる日が来るのか。

「待つよ。宏武がその人のことを忘れるまで待ってる」

「離れて会えないあいだも、好きでいてくれるのか?」

「うん、好きだよ。ずっと宏武を好きでいる」

 自分を抱きしめる腕が力強くて、思わず両手を伸ばして、彼の背中に抱きついてしまう。指先に力を込め、しがみつくように背中を抱き寄せた。

 彼は首筋にすり寄り、頬に口づけ、まるで甘えているかのようだ。けれど確かなそのぬくもりを感じて、自分の心が安堵しているがわかる。

「宏武、キスしていい?」

 ふいに真剣な目をして、リュウはこちらを見つめた。いままで何度も口づけてきたのに、今更なぜそんなことを聞くのだろうと訝しく思う。
 けれど彼の言葉に、自分は素直にゆっくりとまぶたを閉じた。するとふわりと優しく唇にぬくもりが触れる。

 ついばむような口づけは、なんだかとても甘くて、触れるほどにリュウが恋しくなった。
 あと少しで離れなくてはならないのだから、いまのうちにもっと心に刻みつけておかなければと思ってしまう。

 閉じていた目をゆるりと開けば、まっすぐな瞳が目の前にあった。視線が合うと、ついばむだけだった口づけに熱がこもる。
 彼の舌先が唇を撫でるたびに、甘さが広がっていく気がした。

「宏武、忘れないでね」

「忘れないよ。忘れられない」

 こんなにも心を揺さぶる人を、忘れることなんてできやしないだろう。それよりもこれから先、離れていられるのか不安になる。
 彼がいなくなった時間を、自分は一人で過ごしていけるのだろうか。大きな穴が空いてしまうんじゃないかと、心許ない気持ちになる。

「宏武、好きだよ」

 揺れる心の内を見透かしたのか、リュウはなだめるみたいに、髪を優しく梳いて撫でてくれた。

「リュウ、もう一度キスして」

 髪を撫でる手に、自分の手のひらを重ねて、綺麗な茶水晶の瞳を見つめた。彼は嬉しそうに微笑むと、そっと唇を重ね合わせてくれる。
 優しい口づけが胸に染み渡るようで、なんだか少し気持ちが落ち着いた。

 これからの時間は、乗り越えていかなければならないことがたくさんある。自分と向き合って、一つずつ答えを出していかなければ、不安や恐れは消えないだろう。

 自分は早く彼の気持ちに応えられるよう、しがらみから抜け出さなくてはいけない。
 寂しがっている場合ではないのだ。

「リュウ、いまはこれでさよならだけど、また会える時まであんたのことは忘れない」

 再びキスを交わしたら、部屋の中にインターフォンの音が響き渡った。二人の時間はここでおしまいだ。けれど終末しか訪れないと思っていた未来には、小さな希望が見えた気がする。

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