予定外の出来事
26/34

 ドイツの三大都市ミュンヘン――音楽都市とも言われて、オペラやコンサートが楽しめることでも有名だ。
 七月のいまはシーズンオフだが、音楽祭や野外コンサートなどは各所で催されている。

 けれどそこへ赴いて音楽漬けにならなくとも、ここには足を伸ばせば、ゆっくりと過ごせる場所がいくらでもあった。
 いつもマンションに、こもりきりの仕事をしている宏武には、いい機会だ。フランツもそれを考慮して、日程にゆとりを持たせてくれた。

 だからのんびり観光くらいはできるだろう、着いた頃はそんなことを思っていた。

「待って宏武! それってそんなに急ぎの仕事なの? 宏武じゃなきゃ駄目なの?」

「……悪い。先方がどうしても、自分に任せたいってことらしいんだ。納期は六日あるけど、なるべく早く終わらせるから」

「六日! もうそれってホテルにこもりきりになるの決定でしょ!」

 交友関係の薄い宏武の携帯電話が鳴った時点で、嫌な予感はしていた。日本とこちらの時差は十二時間。
 それなのに通話で連絡がきたと言うことは、それだけ急ぎで、確実に捕まえたいと言うことだ。

 仕事が速い宏武が、すべての時間を割いてしまうことはないとしても、空けてもらった日程は潰れると考えていいだろう。

「宏武と過ごす時間が、数時間のディナーだけで終わったってことだね」

「ごめん、急ぐから」

「んー、もう仕方ないからいいよ。フランツに言って予定の調整してもらう。宏武は仕事に集中して」

 そんなに申し訳なさそうな顔をされると、怒るに怒れない。それに指名してきたのなら、それだけ宏武の仕事を信頼してのことだ。
 そこは褒めるべきところで、怒るべきところではない。

 しかし肩を落とすくらいは、許してもらいたい。思わず大きなため息を吐き出してしまった。
 せめてあと一日くらい時間があったら、そんなことを考えてしまう。けれどそんなことを考えても、どうにもならない。

 仕事に集中できるよう、しばらく部屋を出ることにして、別のホテルに部屋を取っているフランツに連絡をした。

「どうしたんですか? そんな通夜みたいな声で」

「ツヤ? ツヤってなに? ああ、そんなことはどうでもいいや」

「いま外ですか? 桂木氏は?」

「宏武はこれから仕事。しばらくこもるらしいから、俺の日程を調整して」

 ホテルを出て通りをふらふらと歩く。ざわめきに気づいたフランツが心配そうな声を出すが、なんだか詳しく説明するのも面倒くさい。
 だがそんな俺の心情くらいは、読み取れてしまうフランツには不要な気遣いだった。

 明日の朝までに予定を決めるというフランツに、夜遊びはほどほどに、と釘を刺されながら、適当に見つけたビアレストランに足を向ける。
 夏の夜は長い、ショーもやっているというそこで、日が暮れて真っ暗になるまで飲み明かすことに決めた。

 それほど広い店ではなかったが、賑わった雰囲気の中にいるとかなり気が紛れる。日ごとに変わるというショーは、ピアノと歌で、それなりに楽しむこともできた。
 しかし散々飲んで、深夜と呼べる時間にホテルに帰っても、宏武はパソコンに向かっていた。

 集中しきっているのか、俺が部屋に戻ってきたことにも気づいていない。仕方なしにシャワーを浴びて、一人ベッドに潜り込むことにした。

 それからぼんやり夢を見て、目が覚めたのは昼近くだった。隣のベッドを見ると、寝る前に見た格好のままで、宏武がベッドに突っ伏している。

 何時まで仕事をしていたのかわからないが、シャワーを浴びる余裕もないくらい、力尽きているのを見ると可哀想になってしまう。
 あんな突き放す言い方をしなければよかった。

 傍に寄って顔をのぞき込んでも、起きる様子はない。いくら夏でも、このままでは風邪を引きかねないので、シャツとスラックスを脱がせてベッドの中へ押し込んだ。

「帰ればまた一緒にいられるし、無理しなくていいよ」

 枕に散った髪を撫でて、そっと唇を寄せれば、険しかった顔がほんの少しだけ和らぐ。その表情の変化に息をついて、薄い唇にキスを落とした。

 本当はもっと触れたかったのだが、せっかく眠っているのに起こすわけにはいかない。しばらく寝顔を眺めてから、ベッドに放り投げっぱなしだった携帯電話を掴んだ。
 そして朝の七時、きっかりに届いていたメールに目を通して、演奏会までの予定を確認する。

 休暇に入っている音楽家たちが多いこの時期、各方面への挨拶回りが主になっていた。
 いまどこにも所属していない俺は、ソロコンサートと客演が仕事になる。横のつながりも縦のつながりも、強ければ強いほどいい。

 いつもはフランツが回って歩くが、俺も行くことでその効果も上がるだろう、という考えに違いない。
 それから主催者との食事会が、四日目の夜。そのほかの時間は暇を持て余して、腕を鈍らすのはもったいないと、リハーサル室を借りてくれたようだ。

 メールを読み終わり、いっそ演奏会までの五日間、ピアノ漬けでもいいと思ってしまった。
 しかし宏武も頑張っているのだ。自分も頑張らなければ、合わせる顔がない。

「フランツ、次は?」

「このあとは少し時間があります」

 けれど退屈で仕方ない挨拶回りも、こなしているうちに愛想笑いがうまくなってくる。いままで仕事でも、こんなに表情筋を動かしたことはないかもしれない。
 ずっと笑っていることが、こんなに疲れるだなんて、思いもしなかった。

 フランツの嘘くさい笑みも、こうして見ると実に見事だと思える。
 その調子ですよ、なんてフランツに励まされながら、四日目の昼を乗り切ると、ようやく息をついてピアノが弾けることになった。

 夜の食事会まで好きなだけ弾いていいと、リハーサル室に取り残されて、久しぶりに目の前にしたグランドピアノに胸が騒いだ。
 日本にいるあいだは、マンションからさほど離れていない貸しスタジオで、アップライトピアノに触れるくらいだった。

 広いスタジオまで足を伸ばすよりも、少しでも宏武の傍にいたかったからだ。けれどいざ目の前にすると、気持ちが弾む。
 指を握り、手を解してから鍵盤を軽く鳴らした。乱れのない綺麗な音が響いて、誘われるように指先が音を奏でる。

 選んだ曲は「パガニーニによる大練習曲」第3番嬰ト短調――超絶技巧と言われる「ラ・カンパネラ」の中でも一番難易度が優しく、聴衆に馴染みのある曲だ。
 鐘の音が響くような高音と、流れるような旋律は優雅だが、音が転がり跳ねるような躍動感と、煌びやかさも感じさせる。

 広がる音色は心地いいくらい、耳に響いた。久しぶりに触れた鍵盤に、最初は少し重たさを感じたが、曲が馴染む頃にはいつもの感覚になる。

「宏武にも聴かせたかったな」

 数曲弾き終わると、舞台が終わったあとのように高揚感が増した。それと共に宏武の笑みが頭に浮かんで、しばらく彼にピアノの音を聴かせていないことに気がつく。
 シーズンが終わる前に演奏会に参加をしたが、宏武は仕事で連れて行くことができなかった。

 今回ももしかしたら、聴かせてあげられないかもしれない。そう思うと今度は寂しそうな顔が浮かぶ。

 宏武は本当にピアノが好きだ。
 触れていなかった十年は訳があって聴くこともできなかったと言っていたが、いまは時間が空けばピアノ曲を流している。

 ねだれば必ず弾いてくれるし、彼の奏でる音からはピアノに対する愛情が感じられた。その深い愛情はほかの誰にも負けない。

「ああ、早く宏武を抱きしめたいなぁ」

 相変わらず宏武は朝になると、ベッドの上で力尽きている。夜が明けるまでパソコンに向かい、限界が来るとぷつりとそこで糸が切れているようだ。
 それからまた昼頃に起きて、シャワーを浴びると仕事に戻る。

 食事は片手間だし、ろくに飲み物も飲んでいないので、出掛ける前にタンブラーを三本、目の前に置いていくことにしている。
 それでも口をつけるの半分くらいだ。仕事が終わる前に、倒れてしまわないか心配になる。

 とはいえ俺がしてあげられるのは、そのくらいしかない。拗ねた俺のことを気にして、無理をしているのは、言葉にしなくてもわかった。
 ここまで無茶をさせたいわけではなかったのに、いまさら言葉を打ち消すこともできない。

「リュウ」

 ぼんやりとしていると部屋の扉が開かれて、フランツが顔を出す。その顔を見て、もう時間が来たのかと目を瞬かせる。
 こちらを見ている視線に応えるように立ち上がると、ピアノの上に置いていた携帯電話をポケットに突っ込んだ。

「そういえば、食事会なんでしょ? 着替えたほうがいいの?」

「いえ、その格好で問題ありません。それほどかしこまった席ではないので」

「ふぅん」

 白いシャツにスラックス、という簡単な装いなので、フランツはスーツの内ポケットに入れていた、細いネクタイを取りだして俺の首元で緩く絞めた。
 この暑い時期にスーツを着ろ、と言われなくてよかったと、スリーピースをきっちり着込む、彼に肩をすくめる。

 主催者の家は市街地から郊外へ、車で四十分くらいのところにあるらしい。演奏会もその家で行うらしいので、それなりの邸宅なのだろう。
 演奏者は俺を含めた六人。メインはハープを含めた五重奏で、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの編成だ。

 今日そのうちの何人かとも、顔を合わせることになる。
 ほかの参加者は数日前から顔を合わせて、リハーサルをしているようだが、俺はソロでのみの参加となっているので、そこには参加しない。

 おそらくその条件でしか受けない、とでも言ったのだろう。そうでなければ全員年上らしい顔ぶれの中で、年少の俺が大きな顔はできない。
 それもまあ、すべてフランツの手腕のなせるところだ。

 すべて任せてついて来なさい、と言われた時に迷わずその手を取った。それだけフランツのことは信用している。
 フランツは母親が連れてきた、俺の世話係のようなもの。

 初めてコンクールに出た、十歳の頃から一緒だ。あれから十四年ほど経った。
 いまもなんの不自由もなくピアノが弾けているのは、すべてフランツのおかげだと言ってもいい。

「テーブルマナーは覚えていますか? 最近はナイフとフォークを扱っていないでしょう」

「心配しなくても身に染みついているよ。フランツいつもうるさいじゃないか」

 車の助手席に乗った途端に、グリーンアイを細められて、俺はその視線から逃れるように窓の外を見た。
 その態度に呆れたようにため息をつかれたけれど、気にせず窓を開けて気づかないふりをする。

 今日が終わったら、明日は一日休みにしてくれるとフランツが言っていた。ずっと宏武の寝顔と後ろ姿しか見ていなかったから、少しは話ができるといいな。
 そんなことを想像しながら、ほんのわずかだけ俺は口元を緩めた。