森のカントリーハウス
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 森の木立の中にある邸宅は、石造りのカントリーハウス。夕日に照らされたそこは、絵本の挿絵のような柔らかな雰囲気がある。
 車を降りると、広い敷地に見合った大きな邸宅からは、ピアノやヴァイオリン、チェロやハープの音色が聞こえていた。

 その音を聴きながらフランツのあとに続けば、呼び鈴を鳴らしてすぐ、使用人らしき女性が玄関扉を開けて、俺たちを招き入れる。
 どうやら到着は最後だったようで、みんなが待ちかねていると、やんわり微笑まれた。

 こんな時まで、大きな態度でいいものなのかと思いはしたが、下手に出るのとそれだけで、上下を決められてしまうことがあるとフランツがよく言っていた。
 要するに舐められたらおしまい、と言うことだ。

 若いからと言う理由で、ポジションを決められてしまうことも少なくない。上のものから順序を並べていくという考えは、どこにでもある。

「リュウ! よく来てくれたわね」

 オレンジ色の陽射しが差し込むサロンに通されて、にこやかに迎えてくれたのは、五十を過ぎたくらいの聡明そうな顔立ちをした女性。
 淡い金色の髪に、少しくすんだブルーの瞳。

 その顔を見てふっと、頭の中で色々なものが巻き戻される。そしていくつかの場面で、彼女を見かけたことを思い出した。彼女はコンサートに何度も足を運んでくれている、上客だ。
 不自然さが出ないように笑みを返すと、腕を伸ばして細い肩を抱きしめる。

「ミセスグレーテ、お久しぶりです」

「元気そうでよかった。あなたったら最近、少し仕事を絞りすぎてはなくて? 会えなくて寂しかったわ」

「すみません。来シーズンはもう少し頑張ります」

「そうしてくださると嬉しいわ。さぁ、皆さんにもあなたを紹介するわ」

 細い小さな手を取って室内を見渡せば、視線が四つ。それは様子を窺うようにこちらを見ていた。顔ぶれは正直言うと、あまり覚えがない。

 恰幅のいいヴァイオリニストの南条清太。棒のような細さのチェリスト、ニコラ・フェレーニ。豊満な身体つきをしたハーピストのナタリア・ドミニナ。

 名前を聞けば、思い当たるかと思ったけれど、愛想笑いしか浮かばなかった。あとでフランツに確認を取っておこう。
 しかし四人のうち一人、紹介を受けなかった人物がいる。

 二十代後半か三十代くらいの小柄な男性。ピアノの前に座っている、少し気難しそうな顔をしたその人をじっと見つめてしまった。

「ああ、彼は初めてよね。上地孝彦、日本のピアニストよ」

「彼も参加するんですか?」

「いいえ、まさか! あなたがいるのに、ほかのピアニストは呼べないわ。彼は清太の甥で、今回は演奏会を聴きに来たの。いまは少し時間があったから、弾いてもらっただけよ。彼はあなたに会いたくてきたみたい」

 少し慌てたように言葉を連ねるグレーテに、首を傾げそうになったが、他のピアニストを呼んで、俺が機嫌を損ねないようにと気を使ったのか。

 そのくらいで機嫌を損ねるような、心が狭い男ではないつもりだけれど、まあそれだけで機嫌を損ねる演奏家も少なくない。
 基本的にみんなプライドが高いのだ。

「初めまして」

 興味を惹かれた俺は、まっすぐに上地の元へ足を向けた。そして英語が飛び交っていた中で、あえて日本語で話しかける。
 少し驚いたように目を丸くしたが、上地は椅子から立ち上がり手を差し伸ばしてきた。

「初めまして、リュウ・マリエール。あなたの演奏はよく聴かせていただいています」

 硬質で少し淡々とした声音。目を細めて笑みを浮かべるけれど、その瞳の奥は笑っていない。
 これは友好的な意味で会いたかった、というわけではなく、実際どんなものか見てやろう、と言うような考えだ。

 とはいえそこでムキになるほど、俺は短気ではない。出来うる限りの満面の笑みを返した。

「先ほどあなたのピアノが聞こえていました。素敵な音色ですね」

「いえ、まだまだです。ですがあなたほどのピアニストに褒められると、悪い気はしません」

「そういえば、リュウは最近、日本びいきなのよね」

「ええ、すごくいいところですよ」

 じっと視線を合わす俺たちを見かねたのか、グレーテがあいだに入って雰囲気を和ます。
 ふいに振られた話題に、笑みを浮かべて返せば、彼女はころころと笑い声を上げた。

「恋人を追いかけて移住してしまうなんて、情熱的よね」

「ああ、それはそんなに噂になっていますか?」

「それはもう話題は持ちきりよ。でも素敵な話だわ。今回はパートナーを置いてきてしまったの?」

「いえ、連れては来たのですが、急な仕事が入ってしまって。いまはホテルにこもっています」

 楽しげに目を輝かせるグレーテに、ほんの少し押し負かされそうになる。だが興味津々な様子を隠さないところは、少女のようで可愛らしいなと思う。
 そういう素直な人は嫌いではない。それに恋人をパートナーと称したところは、好感が持てる。

「あら? じゃあ、お茶会ではお目にかかれないのかしら?」

「紹介はしたいですが、未定です」

「そう、会えることを期待しているわ」

 それからしばらくその場にいる全員で談笑をして、その後はのんびり優雅に食事を楽しんだ。
 普段あまり他人と交流を持つ機会が少ないので、この時間は有意義だったと思う。

 けれどなぜ急に、こんな場を選んだのだろうと少し疑問に思ったので、帰りの車でフランツになに気なく聞いてみた。

「ああ、それはあなたがいままで、周りに関心がなかったからですよ」

「え?」

「いままでのあなたは、アキを中心に世界が回っていましたからね。他人に関心なんてなかったでしょう。日本へ移ってから一般社会にも交じって、いい傾向ですね」

 前を向いたまま口の端を上げた、フランツの横顔を見つめ、いままでの自分を振り返ってしまった。
 宏武も最初の頃の俺は、少し浮き世離れしていたと言っていた気がする。おそらく慣れない世界に、馴染みきれずに浮いていたのだろう。

 自分のこともまともにできないし、生活能力もなかったし、他人と話をするなんて家族か、使用人くらいだった俺は、一般的な当たり前からは外れていた。
 それでも宏武と暮らし始めて、色々なことを覚える機会に恵まれた。

 宏武の傍にいると人間らしく生きられる。新しいものは胸をドキドキとさせてくれるし、様々な景色には色や音が溢れて心を奪われる。他人と同じ目の高さで生活するなんていままであまりなかったから、それだけで楽しいと思えた。

「フランツ、早くホテルに帰って宏武に会いたい」

「もう少し我慢していてください」

「会いたい、声が聞きたい、抱きしめたい」

「はいはい、あと十五分ほどです」

 呆れたようなフランツの声にも、俺は馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返した。いますぐ会って抱きしめて、キスをして、愛してるって伝えたい。
 宏武に出会ってからの俺は、重たい感情に振り回されもするが、人をまっすぐに愛せている。

 いままでだって家族もアキも、傍にいる人たちすべて、愛しているつもりでいた。けれどそうではなかった、ということがいまならわかる。
 俺はいままで強い執着を持っていなかった。

 流れればそれに流されるまま、他人の意志に委ねてそれを仕方ないと諦めていた。きっとそれにアキは気づいていて、だからあんな選択しかできなくなった。

 そんな俺を大きく変えたのは、宏武の中にあった深い愛情と切ない想い。まっすぐな目は、素直に愛していると伝えてくるのに、彼はそれを奥底へ隠して俺を手放そうとした。

 俺のためだと言って、歪んだ笑みを浮かべた。
 その笑みがあまりにも悲しくて、俺はその感情に縋りついて、手を伸ばしてたぐり寄せて、胸の奥にある感情をえぐり出した。

 こんなことで離れられないと思った。そんな理由は受け止められない。想いが通じ合っているのに、どうして諦めなければならないのだと、生まれて初めて必死になった。
 もう二度と同じ失敗はしたくない、そういう想いもあったんだと思う。

「リュウ、明日は」

「なにかあったら連絡する」

「わかりました。おやすみなさい」

 車がホテルの前に止まると、ろくにフランツを振り返らないまま、外へ飛び出した。急いでホテルに入って、エレベーターを待つのももどかしくなり階段を駆け上がる。
 三階にある部屋の前に着いた頃には、肩で息をしていた。

 しかし慌てた様子を見せるのは、格好がつかないので、少しだけ深呼吸をして息を整える。そして音を立てぬようそっと扉を開く。
 部屋の中は明かりが灯っているけれど、静かだ。耳を澄ませても、パソコンのキーボードを叩く音は聞こえない。

 足早に奥へ足を進めれば、ベッドの上でバスローブ姿の宏武が突っ伏していた。それに驚いて傍に寄ると、閉じていたまぶたが震えてゆっくりと黒い瞳があらわになる。

「リュウ、おかえり」

 ぼんやりしていた視線がまっすぐに合うと、やんわりと笑みが浮かんだ。小さな声とその笑顔に、覆い被さるように抱きついて、こめかみや額に何度もキスをした。
 くすぐったそうに肩をすくめた宏武は、小さく笑って俺の顔を両手で押しのけようとする。

「ただいま。宏武、仕事は?」

「さっき終わって送ったところ」

「そうなんだ、お疲れ様」

「ずっと放って置いて悪かったな」

「いいよ。無理させてごめんね」

 抱きしめた身体は、寝返りを打って俺に向かい合う。綺麗な瞳の中に映る自分を見つけると、胸が高鳴ってたまらない気持ちになる。
 そっと顔を近づけて唇を重ねれば、それに応えるように吸い付いてきた。

 小さなリップ音を立てながら口づけを交わすと、それだけでなんだかほっとしてしまう。

「そうだリュウ、放って置いたお詫びになんでも言うこと聞くよ」

「えっ! なんでも?」

「うん」

「なんでもか」

 頭には色々なことが浮かび上がる。あれもこれもして欲しいことはたくさんあった。けれど俺はそれらを全部隅に押しのけて、答えを一つ選んだ。

「じゃあ、明後日のお茶会、俺の恋人として参加して欲しい」

「え?」

「最初から連れて行くつもりではあったんだけど。宏武はシャイだし、嫌ならやめようとも思ってたんだ」

「そう、だったんだ。……うん、わかった。いいよ」

「本当に! じゃあ、明日一番にモーニングを買いに行こう。どうせならとびきりおしゃれして行こう。俺、見せびらかしたい」

 スーツを用意はしていたけれど、せっかくなら着飾らせたい。宏武は背も高いし背筋もまっすぐだし、モーニングコートはすごく似合うと思う。
 自分の容姿に無頓着なところがあるが、宏武は顔立ちも整っている。きっと目を惹くだろう。

「それじゃあ、明日の朝に起こして」

「うん、今日はゆっくり寝て明日は楽しもう。明後日の演奏会、宏武も聴いてくれるなら俺、頑張るよ」

 まぶたの重そうな宏武の髪を撫でて、額に口づける。おやすみと囁いてまぶたにもキスをすれば、すぐに小さな寝息が聞こえ始めた。

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