穏やかな時間
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 その日はいつもより、すっきりと目が覚めた。少しばかり気持ちが先走るような、そんな感覚があったけれど、気分はよかった。
 寝起きで動きの鈍いまぶたを瞬かせて、目の前を見れば白いうなじが見える。

 いつもなら赤い跡が散っているが、いまは真っ白なままだ。誘われるように唇を寄せて、付け根の辺りにきつく吸い付く。
 本当なら首筋に噛みつきたい気分なのだが、いまはそれを諦めた。

 今日はモーニングコートを仕立て直すために、採寸をしてもらう。うっかりその時に噛み痕が見えたら大変だ。
 そんな人並みの心配を、俺がしているなんて知ったら、フランツにそんなこともできたんですね、って薄笑いされる気がする。

 いつもする時につける俺の噛み痕を見て、DVを疑いましたと、真面目な顔をして言われたことがあった。

 最初の頃は宏武も、噛み痕を気にして隠していたけれど、慣れてくるとそれが面倒になったのか、平気で襟首の空いた服を着るようになった。
 そしてそれを、フランツに見られることになったわけだ。

 端から見ると、あまりにもはっきりとした噛み痕は痛々しく映るようで、ほどほどにしてくださいとフランツに怒られた。
 まあ、俺でさえ時々宏武に申し訳なくなるくらいだから、それも当然か。

 とはいえ宏武の白い肌は、ひどくそそるものがあった。正直言うと見ているだけでも、ゾクゾクとして興奮を覚えてしまう。
 だからいつも着替えをしている時や、風呂に入る時など、その様子をまじまじと見つめる癖がついた。

 そのたびに湧き上がる、噛みつきたい衝動を抑える。それが本当に大変なんだ。

「リュウ、くすぐったい」

 噛みつく代わりに、うなじや背中に何度もキスをしていたら、その感触で目を覚ましたのか、宏武が身じろぐ。
 腕の中から逃れようとする身体を抱き込めば、小さく肩を震わせながら顔を振り向かせる。

 ゆっくりとこちらを向いた黒い瞳は、目を覚ましたばかりでいつもより潤んで見えた。その綺麗な瞳に誘われて、やんわりと目尻に口づける。
 さらに滑らせて頬に、顎を引き寄せて唇に口づけた。

 まだぼんやりとした様子を見せる宏武は少し色っぽくて、ひどく悪戯心をくすぐられる。

 けれど寝間着の代わりに着ていた、バスローブの合わせ目に手を入れたら、目を目開いて俺の顔を見た。
 まさぐるように手を動かして、胸の尖りをかすめればビクリと身体が跳ねる。

「ちょ、ちょっとリュウ! 朝からなにしてるんだ」

「宏武が色っぽい顔をするのが悪い」

「してない! こら、離せ」

「たまんない、ねぇ、ちょっとだけ」

 抱き込んでいた身体を組み敷いて、俺を突き放そうとする手を掴んでまとめ上げる。無防備になった身体は、思わず唇を舐めてしまうほどおいしそうに見えた。

 無理矢理に足を割って開かせると、そのあいだに身体を滑り込ませる。そしてバスローブの隙間から見える、胸元に唇を寄せ、乱れた裾から伸びた太ももを撫で上げた。

 舌を這わせて、白い肌を撫でれば身体は小さく震え、胸の尖りを撫で転がせば上擦った声が漏れる。それがたまらなくて、吸い付くようにしゃぶりついた。

「んっ、リュウ、やめろ」

「ここは全然嫌そうじゃないよ」

 さらに羞恥で赤らんだ顔が見たくて、バスローブの紐を解いて素肌をあらわにさせる。下着を身に着けていない身体に、思わずうっとりと目を細めてしまった。
 だがそこに唇を寄せる前に、部屋の中にブザー音が鳴り響く。

 その音に宏武の身体は、反射的に大きく跳ね上がる。俺はと言えば、せっかくの楽しみを取り上げられた気分になった。

「フランツ!」

 いつまで経っても、のし掛かったまま動かない俺に、宏武が焦れたように大声を上げる。その声は響いて、部屋の前に立っている人物にも届いたのだろう。
 合い鍵を使って部屋の中に侵入してきた。

 ゆっくりとした足取りで近づいてきたその人は、俺の後ろで立ち止まると大きなため息をつく。

「朝からレイプまがいなことはやめてください」

 呆れたようにグリーンアイを細めたフランツは、俺を咎めるように見つめる。彼の言葉に納得のいかない俺は、ムッとして口を曲げた。

「失礼なことを言うな。恋人同士の営みだ」

「どう見てもレイプ未遂にしか見えませんけどね。桂木氏を離して差し上げなさい」

 肩をすくめるフランツに、渋々宏武から手を離して身体を起こす。すると宏武は慌てたように、バスローブの合わせ目を掴んで引き寄せた。
 ちょっと乱れた感じがますますそそるが、後ろからきつい視線を向けられているので、その感情は飲み込んだ。

「リュウ、約束の時間は九時ですよ。昨日どうしてもと言うから予定を立てて差し上げたのに、遅刻のあげくに恋人をレイプとか余裕ですね」

「さっきからレイプレイプってうるさいな! ちょっと遅れたくらいで怒らないでよ。まだ九時五分じゃないか」

「私が来なければ、なにをし始めるつもりでいたんですか? 五分どころではなかったと思いますが」

「ううっ、わかったよ。すぐ準備するから下で待ってて!」

 これ以上ここにいられたら、グチグチと文句を言われる。もうしつこいくらいネチネチ言われるんだ。
 そんなのはたまらないと、俺はベッドから飛び降りて、指先を部屋の扉に向けた。じっと見つめ返す俺の顔を見て、フランツは大げさなため息をつく。

「せっかくの休みをゆっくり過ごしたければ、急いでください。予定は昨日話した通りです。ラウンジで待っています」

「わかったよ!」

 追い出すように手を振れば、またゆっくりとした足取りでフランツは出て行った。その姿が見えなくなると、俺は脱力したようにその場にしゃがみ込んだ。
 フランツの説教はいつも長いんだ。しかし今日は少し気を使ってくれたのかもしれない。小言も少なめだった。

「宏武ごめん。着替えていく準備をしよう」

「ああ」

 後ろを振り向くと、ベッドの上の宏武が俺の様子に目を瞬かせている。そういえばあまり、フランツとのやり取りを見られることはなかったかもしれない。
 言い負かされる格好悪いところを見られたが、そのうちまた何度でも見られることになるだろう。

「今日はテーラーの工房に行って、宏武のモーニングを用意してもらうよ。時間がないから一から仕立ててもらえないけど、既成のものを調整してもらうことになってる。それからランチを食べて、夕方までデートをしよう」

「うん」

「ようやく宏武とゆっくり過ごせるね」

「そうだな」

 やんわりと綻んだ表情を浮かべた宏武に、こちらも自然と笑みが浮かぶ。このところ眉間にしわを寄せた横顔しか見ていなかったから、その顔が可愛くてたまらない。
 一気に気分がよくなった俺は、クローゼットの服をあれこれ引っ張り出して、宏武を着せ替えた。

 フランツの待つラウンジに着いたのは、それから二十分くらい過ぎてから。ちらりと横目で見られて背筋が伸びたが、お小言は言われず、そのまま車へと向かうことになった。
 テーラーの工房は、市街地から少し外れた場所にあるようだ。

 恋人のためにならぜひにと、グレーテが腕のいい職人を紹介してくれたらしい。工房はいくつもあるが、彼女が勧めるところならば文句の付け所はないだろう。
 トータルコーディネートもしてくれるようなので、そこ一つでことは足りそうだ。

「お披露目が今回のような小さなお茶会でよかったですね」

「あんまり大きな場所に宏武は連れて行かないよ。宏武は絶対に目を惹くもの」

「確かにそうですね。格好のネタになります」

「リュウ、自分なんかを公にして本当にいいのか?」

「宏武、なんかとか言わない。宏武は最高のパートナーだよ」

 隣で心配げな顔をしている宏武の手を掴むと、それを勢いよく引き寄せる。さらに両腕で身体を強く抱きしめた。
 頬をすり寄せるようにすれば、照れたように目を伏せたのがわかる。なに気ない仕草だけれど、それが初々しくて可愛い。

「パートナーが同性なのも、別に珍しいことじゃないし、そこまで気にしなくて平気だよ」

「うん」

「宏武は堂々としていて大丈夫」

 誰が見たって宏武は凜としていて美しい。自分ではまったく意識がないみたいなのだが。これだけ雰囲気があるのに、どうして自分にこんなに無頓着なのだろう。
 表舞台に立っていたなら、多かれ少なかれ賛辞は受けていたはずだ。

 宏武の現役時代は、どんな感じだったのかな。賞は獲っていないと言っていたけれど、コンクールに出ていたなら、昔の映像とか残っていないのだろうか。
 もし残っていたら見てみたいな。日本に戻ったらフランツに探してもらおう。

「リュウ、なに笑ってるんだ?」

「ううん、なんでもないよ」

 俺の知らない宏武は、どんな音を奏でていたのかな。昔の宏武にも会いたい。昔もいまもこれから先も宏武の全部が欲しい。
 そんなことを言ったら驚くかな。嫌がられそうだな。それでも空いた隙間はすべて、埋めてしまいたいと思う。

「リュウ、宏武、もう少しですよ」

 ホテルを出て一時間半ほどだろうか。窓の外には夏草の揺れる広い草原と、羊の群れが広がる。毛刈りを終えた羊はほっそりとしていて、のんびりと草を食んでいる姿になんとなく気も抜ける。

 フランツが運転をする車は、細長い小道を走り、石造りの真っ白な家の前で停車した。こんな田舎の町なのに、家の前には車が三台も停まっている。
 一台は自家用車とおぼしきものだが、残り二台は街からやって来た車だろう。

「ああ! 身体ガチガチ」

 車から降りると、ずっと座りっぱなしで硬くなった身体を大いに伸ばして、深呼吸をした。
 ゆったりとした空気が漂う、のどかな景色に肩の力も抜けていく。反対側のドアから出てきた宏武も思いきりよく伸びた。

「お疲れ様です。リュウのおかげで少し時間が遅くなりましたので、早くご挨拶しに行きますよ」

「うわぁ、嫌味っぽい」

「最近のリュウは時間にルーズでいけませんね」

 運転席から下りたフランツは、満面の笑みを浮かべながらチクチク針を刺してくる。あっさりしていそうな顔なのに、かなり根に持つから後々までうるさいのだ。
 顔をしかめて舌を出したら、ため息と共に肩をすくめられた。

「宏武、行こう!」

 俺たちのやり取りを見ながら、笑っている宏武の手を取ると、足早に歩き始めたフランツの背中を追いかけた。

リアクション各5回・メッセージ:Clap