記憶の破片
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 テーラーの工房は、自宅も兼ねているらしく、田舎町に少し不釣り合いなこじゃれた印象があった。家族は全員職人のようで、ここに来たら、天辺からつま先まで一式が揃うとのことだ。
 その腕はもちろん一流で、遠くから人が集まってくるのも頷ける。

 フランツと俺は、待合室でもある客室に通され、宏武は隣のフィッティングルームに通された。しばらくすると工房の夫人で、仕立て職人でもあるドーラがやって来て、宏武の採寸を始める。

 一から仕立てるわけではないが、ぴったりと身体に沿うようモーニングコートを仕立て直す。
 その作業に妥協は感じられず、背筋が綺麗、スタイルが抜群ね、そんな声が聞こえてきて、四十分ほどかけて作業が行われた。

 その後、入れ替わりに夫のクーノと娘のミランダがやって来る。靴を合わせるために、今度はクーノが足の採寸を始めた。
 合間にミランダは宏武に合わせた、タイやカフスなどを選んでいく。その様子をこっそりのぞき見れば、視線に気づいた宏武が目を細めて笑う。

 宏武は手足も長いし、少し日本人離れした体型をしているので、大がかりな直しはしなくても大丈夫のようだ。
 思ったよりも早く終わりそうで、次の予定に気持ちが大きく傾く。

 ドイツに来たことがないと言っていたし、ベタな観光地でも回ろうか。半日しかないからそれほど遠くまで行けないが、それなりに楽しめはするだろう。

「リュウ、少し席を外します」

「あ、うん」

 ふいにフランツが鞄を手に出て行った。なにか仕事の連絡だろう。さして気にせず、自分の手の中にある携帯電話を見つめる。
 ここからさほど遠くなくて、楽しめるところはどこだろう。そんなことを考えて、俺はこれからの時間に夢中になっていた。

「なにかおいしいものも食べたいな。ねー、宏武なに食べたい?」

 まだ戻ってこない宏武に聞いてみようと、隣の部屋を覗いたらそこにクーノとミランダの姿はなく、宏武ともう一人、見覚えのある日本人がいた。
 二人は人目を避けるように、部屋の隅でなにかを話している。

 しばらくじっと宏武の隣に立つ男を見つめて、ようやくそれが昨日グレーテの邸宅で会った、上地孝彦であることを思い出す。
 日本のピアニストで、宏武と近しい歳に見えたから少し気になっていた。やはり二人は知り合いなのだろうか。

「こんなところであんたに会うなんて、最悪な気分だ」

 目を伏せる宏武に、上地はやけに刺々しい言葉を向ける。知り合いだけれど、友好的な間柄ではないのか。
 あいだに入ったほうがいいかとも思ったが、人目を忍んでいる様子を見れば、簡単に踏み入るわけにもいかない。

「隣の部屋にいたのはリュウ・マリエールだな。もしかしてまた、未来のあるピアニストを食い物にしているのか?」

「そんなことは、していない」

「昨日リュウが言っていた日本人の恋人、あんたのことだろう? 得意気に茶会に出るつもりか? あんたみたいな淫売が来ると品位が下がる。遠慮していただきたいな」

 眉をひそめた上地が吐き出した言葉に、宏武の顔が血の気が引いたように真っ青になる。
 どういう意味で品位が下がると言ったのか、それはよくわからなかったが、宏武のその顔を見たら黙って見ていられなくなった。

 部屋に足を踏み入れて、宏武から遠ざけるように上地の肩を押し離した。

「リュウ」

 突然現れた俺に宏武は目を見開く。その瞳に薄い膜が張っていて、それが潤んでいるのがわかる。
 顔は紙のように真っ白で、青白いその顔に胃の辺りが熱くなった。しかし振り上げようとした腕を後ろから宏武に押し止められる。

「駄目だ、リュウ」

 怒りをこみ上げた俺の剣幕に、上地は顔をひきつらせているが、その顔を殴り飛ばせないことがいまはひどく悔しい。
 意味が理解できなくても、あれはきっと宏武を侮辱する言葉だ。そしてそれに宏武は傷ついた。

「本当に男をたらし込むのが得意なんだな」

 虚勢を張った上地が、あざ笑うように宏武を見る。できるなら見下した態度を崩さないこの男の顔を、二度と口を開けなくなるくらい殴り潰してやりたい。
 それなのに宏武が必死で俺を止めるから、無理矢理に腕を上げることができない。

Sortez d’ici(ソフティディシィ)! ……出て行け、いますぐここから」

「リュウ! 落ち着け!」

 荒らげた声が部屋に響く。握りしめた手が震えて、興奮して息が荒くなる。だが俺の身体にしがみつく宏武の気配を感じると、怒りの矛先を見失う。
 目の前の上地はひどく驚いているが、俺の舌打ちに我に返ったように目を瞬かせた。

「孝彦、いまは出て行ってくれ。頼む」

「まあ、いいさ。どうなるかなんて僕の知ったところではない。だけど、期待された人間を二度も殺すことにならないよう、気をつけるんだな」

 宏武の声に、上地は呆れたように肩をすくめる。そして睨み付ける俺に視線をちらりと寄こしてから、そのまま背を向けて部屋を出て行った。

 その姿が見えなくなると、苛立ち紛れに俺は傍にあった小さな椅子を蹴り飛ばす。
 部屋の壁にぶち当たったそれは、大きな音を立てて転がった。

「リュウ、ごめん」

「……宏武が、宏武が謝ることじゃない。これはあの男が悪い。宏武を侮辱した」

「なんて言ったか、わかってたのか?」

「ううん、難しくてよくわからなかったけど、宏武は傷ついた顔、してた」

「そう、か」

 俺を抱きしめる宏武の身体が小さく震えた。微かに嗚咽が聞こえて、背中に額を預けて泣いているのがわかる。
 それでもいまは振り向かずにいるほうがいいのだろう。言葉を拒むように、きつく抱きしめられる。

 なにもできない自分がひどく歯痒かった。それでもいまはただ、震えている宏武の両手を握りしめた。

 しばらくしてフランツが戻ってきて、様子のおかしい俺と、泣き濡れる宏武を見てなにかを悟ったのか、予定を切り上げてホテルに戻ることになった。
 車の中で宏武は、ぽつりぽつりと昔の話をしてくれた。

「孝彦と知り合ったのは、十九になった頃だったかな。彼はまだ十六だった。向こうはもちろん、自分のことなんか知らなかったけど。こっちは随分昔から知っていたんだ。子供の頃から色んなところにピアノを聴きに行ってたから。当時の孝彦は神童なんて言われてて、かなり有名だったんだよ」

「シンドウ?」

「うん、神さまの子供。優れた才能を持つ子供って意味だよ」

「ふぅん、だけど。宏武のほうがよっぽど上手いよ」

 昨日少しだけあの男のピアノを聴いた。音色が悪いとは言わないけれど、型通りでつまらないピアノだった。
 宏武が弾くピアノみたいに音に輝きがなくて、名前を知らないのも当然だと思ったくらいだ。それでも宏武は、あいつが憧れだったと言う。

「彼は自分なんかより前から、あの人に指導を仰いでいた。周りもそれを望む声が多かった。それなのにあの人が選んだのは、素人同然の自分で、あの頃からひどく恨まれていたな」

「宏武を選んだのなら、その人はきちんと聴く耳を持っていたんだ」

「どうなんだろう。あの頃はそんなことよりも、ただ毎日が楽しくて、幸せで、それだけだった」

 懐かしそうに目を細める宏武に、胸の辺りがざわついて、ひどく苦しくなった。
 その心の中にある思い出、それがどれほど眩しくて愛おしかったのか、優しい目を見れば嫌でもわかってしまう。

 しかし宏武の言葉を押し止めることはできなくて、俯いて握りしめた自分の両手を見下ろした。

「ピアノを弾くのも楽しかった。あの人が隣で笑っているのが嬉しかった。だけどそんなものは簡単に、壊れてしまうんだって知った。自分のせいで、あの人からピアノを弾くための手を奪ってしまったんだ。あの人にはそれがすべてだったのに」

「宏武、もしかしてまだそれを俺に重ねている? その人のように俺が不幸になると、いまもそう思っているの?」

「自分は不幸を引き寄せる人間なんじゃないかと、思う時がある」

「俺は、誰かの犠牲になることはない。もしピアノを弾けなくなっても、それを宏武のせいになんてしない」

「やめてくれ、そんな恐ろしいこと、たとえでも考えたくない」

 怯えた瞳に、浮かんだ涙が一筋こぼれ落ちる。唇を震わせてそれを噛みしめて、宏武は両手で顔を覆って俯いた。
 丸めてうずくまる身体が震えている。声を殺して泣いているのに気づいて、その身体をとっさに両腕で抱きしめた。

「ごめん、リュウ、ごめん」

「謝らないで宏武。忘れるのが容易いなら、苦しんだりしない。そのくらい俺にだってわかる」

「愛してる、いまはリュウだけだ。それ以外の気持ちはない。だけど、忘れられないんだ。あの人が目の前で首をつって、死んでしまった時のことを。忘れた頃に夢を見る」

 宏武の心の傷が、ここまで深いとは思っていなかった。十年の空白の理由がこんな残酷なことだったなんて、俺は知らなかった。
 約束をして別れた時に、フランツは俺に言った。

 きっと彼が立ち直るのには時間がかかるだろうと。初めて会った時の宏武は、昔の記憶を持っていなかった。だからおそらく彼はPTSDなのだろうとも。

 その時は理由を詳しく教えてくれなかったが、いまならそれがなぜなのかがわかる。それを知れば、俺はきっと宏武の記憶に残るその人に固執して、同じ道を辿ることになっていた。

 のめり込むように宏武に依存をして、彼のように宏武を苦しめることになっていただろう。
 いまでさえ胸がざわめいて苦しい。これ以上踏み込んだら、自分さえも見失うことになるかもしれない。

「もう大丈夫だって、思っていたはずなのに。結局自分はなにも変わっていなかった」

「違う宏武、それは違う。そんなこと簡単に忘れるほうがどうかしてる。それは正常な反応だ」

 それを忘れるために記憶をすべて押し込めてしまうのは、おかしいことではない。
 愛した人が目の前で死を選んで、それを目撃して正気でいられる人間がどこにいる。

「宏武が悪いわけじゃない。宏武はなにも悪くないよ」

「殺してしまった。あの人を」

「違う、宏武のせいじゃない!」

「リュウ、怖い。あんたを失ったら、もう……生きていけない」

 好きでいるのが怖い――そう言って震えていた宏武を思い出す。好きになるほど苦しくて辛い。それはどれほどの感情なのだろう。
 けれど俺だって、宏武を失うのは怖い。

 見えない影に嫉妬をして、心を食らい尽くしてもまだ満足できないほど、宏武が俺のすべてだ。

「宏武、俺を見て、まっすぐ俺だけを見て」

「リュウ」

 ゆっくりと持ち上げられた顔は、もうボロボロで、息をつくだけでも涙がこぼれ落ちてくる。それでもまっすぐに視線を向けてくる宏武が愛おしかった。
 その目を見つめて、震える唇に口づける。

 嗚咽を漏らす唇に噛みつくようなキスをして、その声を飲み込んだ。身体を抱き寄せれば、両腕が伸ばされて俺を引き寄せる。
 きつく抱きしめられて、いまどこにいるかも忘れて、口づけに溺れた。

 愛おしくて切なくて、胸が掻きむしられるようなむず痒さを覚える。いますぐに目の前にある身体を暴いて、腕の中に閉じ込めてしまいたい。
 すべてが俺のモノであるように印を刻んで、もう二度と俺以外を感じられないように。

「全部上書きしてあげる。宏武の全部を、俺で上書きしてあげるよ」

 もう思い出せなくなるくらい。欠片も残さず奪い去ってあげる。俺ですべてを埋め尽くしてあげる。だからその涙は俺だけのために流して欲しい。

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