待ちに待った朝

 次の日は遠出を楽しみにする子供のように、ユーリは早く目が覚めた。とはいえ、早起きなデイルは軽い運動を済ませて、身支度済みだ。
 一体、何時間睡眠なのか、ユーリの中に心配と興味が同時に湧いてくる。

「どうかしましたか?」

「デイルはいつ寝ているんだ? 僕が眠る前に寝たことも、僕より眠っていたこともない。睡眠は足りているか?」

「問題ありません。私は短時間睡眠のほうがすっきりする性質なのです」

「職業病じゃないのか」

 目覚めたユーリの身繕いをするデイルに、胡乱げな眼差しを向けたら、笑みを返された。

「あれ、いつもと髪型が違うな」

「今日は編み込んでみましたが、いかがですか?」

 デイルは普段、ユーリの三つ編みを胸元に垂らしていたが、今日は横髪が綺麗に編み込まれ、後ろに髪がまとめられていた。
 鏡を覗いたユーリはさっぱりとした自身の装いを見て満足げに頷く。

「髪が邪魔にならなくてすごくいい。けど、なんでわざわざこんな手間を」

「今日は二人きりで出かける特別な日ですし」

「そ、そんな逢い引きしに行くみたいなっ」

 急にデイルが妙なことを言い始めて、ユーリは思わず口にした自身の言葉で、顔を真っ赤に染めた。ドラゴンの祭りを見に行くのであって、逢い引きではない。
 そう心の中で言い訳するけれど――

 昨夜、フィンに勘違いされたばかり。動揺はなかなか収まらなかった。だというのにデイルは平然とした顔で笑っているだけだ。

「そういう、ことを、軽々しく言うものじゃない。もっと特別な」

「心配されなくとも大丈夫です。私は誰とも添い遂げるつもりはありません」

「……え?」

「さあ、参りましょう」

 なにげない調子で発された一言に、ユーリが驚き戸惑っている合間、デイルは手早くブーツの紐を編み上げていた。

(誰とも――自分が元平民だから、と言っていたらしいが。そこまではっきり言うほど特別を作る気がないのか。まだ若いのだから、どんな出会いがあるかわからないのに)

 二十五歳、元のユーリと同じ年齢だ。
 結婚をするのに遅すぎる年齢でもない。爵位を継がない長男以下であれば、婿入りするか自分で爵位を得るか。

 皇帝候補を辞退したとはいえ、デイルほどの人物であれば騎士爵を持っているはず。

「ユーリさま?」

「すまない。ぼんやりとしていた」

「最近は物思いに耽ることが増えましたね。なにか悩みや不安がありますか?」

 考え込んでいたユーリは、足元で跪いたままのデイルに見つめられ、慌てて立ち上がる。
 すぐさま手を差し出してくれたデイルは、とっさの動作でふらついたユーリを優しく支えてくれた。

「悩みがないわけでは、ない。僕は思ったよりもデイルを知らないなと」

「私ですか?」

「誰よりも近くにいるのに、不思議だな」

 いまのユーリが彼を知らない。だけではなく、これまでのユーリも、さほどデイルについて知っているようではなかった。

 彼はユーリに聞かれても一切、私的な話をしていないらしく記憶にない。
 確かに主人と従者。日常生活の話題を語り合う関係ではないけれど、直属の相手について、ここまで知らないのは逆に不自然だ。

 とはいえ生い立ちが複雑そうではある。踏み込めなかったという理由も考えられた。

「私などよりも、知るべき人がこれからきっと増えます」

「そう、なのだろうが……僕は」

(一番にデイルを知りたいと思うのはおかしいのだろうか)

 体が丈夫になり、ユーリはこれから色々な経験をしていく。それとともに人との交流が増え、いずれは〝また〟伴侶を得る日が来るはずだ。

「僕は誰かと将来を誓うなど――したくない」

 政略婚をするのは、ユーリとしてはもうごめんだった。味気ない日々を再び過ごすのかと思えば、神への信仰心が薄くとも、聖職について世間から離れたい。
 などと考えてしまうくらいだ。

 全員が全員、ガブリエラのような女性ではない。しかしわかっていても心が拒否をする。

(僕はたぶん、結婚などしたくなかったんだ。近くにいる、あの人のことが)

「では、今日だけは私を見ていてください」

「……デイルは、そんなキザな真似、どこで覚えてくるんだ」

「近くに女性慣れした男がいますからね」

 視線が落ち、俯きがちになったユーリの右手を持ち上げ、口元まで引き寄せる――デイルの仕草に、ユーリはドキッとする。
 指先に唇が触れぬまま離れていったのが、ひどく残念に思えた。

(僕のわからないこの気持ちは、親愛の情なのか。それともフィンの言うように。だとしたらおぼろげな彼の存在は?)

「あの、決して、ユーリさまを女性のように」

「わかっている。慌てなくていい」

 急にまた考え込み始めたユーリに、デイルは自分の言葉を深読みして謝ろうとしてきた。
 珍しく彼の冷静さを欠いた表情が見られて、ユーリは少しばかり嬉しく感じる。

 女性的だなんて、母のエリーサに似ていると褒めそやされている時点で、言葉にされなくとも本人はわかっていた。
 おかげでまったく気にしていなかったのだが、いまは母に似て得をした気分になった。

「そろそろ行こう。お腹が空いた」

「はい、二人もすでに食堂で待っていると思います」

 デイルはユーリの催促に笑みを浮かべ、荷物を手に先へ進もうとする。
 けれどふいに伸びたユーリの手が、デイルのマントを掴む。くんと若干後ろへ引っ張られた彼は、不思議そうに振り返った。

「どうかされましたか?」

「いや、ただ手持ち無沙汰になっただけだ」

「このようなことを、ほかの紳士にされてはいけませんよ」

「デイル以外にしない」

「そのような言葉は」

「デイルにしか言わない」

 幼子を叱るような口調だったデイルだが、繰り返されるユーリの言葉に額を抑えてため息を吐いた。
 しかしマントの端を掴んだまま、じっと見つめてくる空色の瞳に負けたのか、荷物を背負うと片手を差し出してくれる。

「まるで幼い子供の頃に戻られたようですね」

「ふふっ、童心に返りたい気分なんだ」

「……どう見ても子供ではないですけど」

 独り言じみたデイルの言葉にくすりと笑い、ユーリは大きな手をぎゅっと強く握った。
 手を繋いでやってきたユーリたちを見て、フィンとライは一瞬、驚きの表情を浮かべたけれど、やたらと生ぬるい眼差しを向けてきた。

 幼かった時は、こうしてずっと手を繋いでいたのだとか。
 しかもこれから二人で出かけることを考えれば、そうやって繋いでいるほうが虫除けにいいとまで言われる。

 ユーリとデイルが祭りに出ているあいだ、二人はここに残って休養する予定だとか。
 宮殿を出発してからすでに五日も過ぎたので、十分な休息は必要だ。

「向こうで泊まれそうなら一晩でも二晩でも、泊まってきたらどうですか?」

「そうですね。ライの言うとおりです。一日に何時間も移動するのは大変ですし」

「でも、祭りの最中なら宿はいっぱいじゃないか?」

 大きな街の祭りではないとしても、毎年行われる催しは、年に一度を楽しみに集まる人たちが多い。
 祭り自体は数日続くらしいけれど、今日は目玉の催しがあるのだとか。

「宿は着いてから当たってみましょう。早い時間に着けば、空きがあるかもしれません」

「わかった。デイルがそう言うなら」

 食事をしながら今後の予定を話し合い、ひとやすみしてユーリはデイルと一緒に宿屋を出る。
 厩に行くとデイルの馬が鞍をつけ、準備万端と言った表情で待っていた。

 ユーリの馬はのんびりと飼い葉を食んでいる。

「一緒に、か?」

「ええ、そのほうが早く着きますし」

「……確かに僕はそれほど乗馬が上手いわけではないが」

 馬を操れるようになったのもここ数ヶ月のこと。クトウに着くのに、通常より時間がかかったのはユーリに合わせたからだ。

 途中、馬車での移動も提案されたけれど、やはり馬は小回りが利き、早く移動ができる。

「馬を操るのも疲れます。お嫌でしたか?」

「嫌、ではない」

「では、参りましょうか」

 返事を訊くと早速と愛馬に荷物をくくりつけ、デイルは出発の準備を進めた。
 そんな様子を眺めつつも、ちらりとユーリは自分の馬に目を向ける。

 すると彼女は「いってらっしゃい」とばかりにゆったり尻尾を揺らした。

(彼女はのんびり屋だからな)

 走るときは走るのだが、わりと少しの散歩でも満足する。
 夜の散歩だけで最近は満足しているようなので、いまもそのつもりなのだろう。

「ユーリさま、どうぞ」

「あっ、うん」

 愛馬と視線の会話をしていたら、準備の整ったデイルが馬上から手を差し伸ばしてくれる。
 彼の手を取り、ユーリは勢いをつけて上へ移動した。

「窮屈ではありませんか?」

「ああ、問題ない。二人用の鞍を用意してくれたんだな」

「宿のほうで貸し出してくれました」

「そうか」

(体勢は問題ないけど。思ったよりもデイルが近い。……というか、想像以上に僕の体は小さいのだな)

 デイルの腕の中にすっぽり収まってしまう自身に少々ユーリは驚く。
 普段、常にデイルは傍にいる。
 だというのにこうして、背中を預ける状態になって初めて、デイルの大きさを感じた。

「出発しますよ」

「うん」

 耳元で響く柔らかな低音。息が触れそうな近さに肩が跳ね上がりかけ、とっさにユーリはぎゅっと鞍の手すりを掴んだ。
 背中から笑われたような気配をかすかに感じ、ユーリの頬は徐々に赤く染まっていった。