これからすべきことは

 村を出たあとは茶を淹れてくれたゼノアと、白い大鳥が先導し、村と外の境界部分まで案内をしてくれた。

 どうやらデイルを迎えに来たのも彼なのだとか。二十代半ばほどの若々しい青年、といった見た目だけれど――〝数百年生きている〟長老のひ孫らしい。
 あの村の時の流れは本当に驚くばかりだ。

 すっかり元気になった馬を駆り、パトルの村まで戻れば、ユーリたちが出発してから十八日ほど経っていると聞いた。

 行きが三日、帰りはユーリの体調を考慮して、四日。となれば、半日で十一日も過ぎた計算になる。

「そういえば三日ほど前に、お二人宛に手紙を預かりましたよ」

 宿へ行き、ユーリたちが宿泊の手続きをしていると、鍵付きの引き出しから取り出した一通の手紙を渡された。無地の封筒に無印の封蝋。

 けれど部屋で腰を落ち着けてから、手紙に魔力を流せば、ライのサインと家門の紋章が浮かび上がった。

「デイル、ライはなんと?」

 手足を濡らした布で拭いながら、ユーリは手紙を読み終わったらしいデイルに声をかけた。

「どうやら小さな土地の浄化に成功したようです」

「それは、すごいな。だとしてもまだ、穢れの地になった場所を浄化するには至らない、か」

「魔法陣を描くのにかなりの魔力を必要とするでしょう」

「うん。また父上に力を借りる必要がありそうだ」

 研究は責任者のローディオ主体で、このまま進めていけばいいだろうけれど、次は魔力豊富な宮廷魔法使いを大量に派遣してもらわなくてはならない。

「ユーリさま、陛下とお話をなさるなら少し汚れを落としてからにいたしましょう」

「――そうだな。少なくとも三日はまともに体を拭ってない」

 野宿中はいつなにがあるかわからないため、のんびり沐浴とはいかなかったのだ。
 これまではライやフィンもいた。三人、交代で見張りをしてくれたゆえに、体を清めるのは難しくなかった。

 デイルと二人きりではそうもいかない。馬の見張りもしなくてはならなかったので、致し方ない話だ。

「デイル、あとでゆっくりと二人で話をしないか?」

「はい。わかりました」

 一瞬だけ戸惑った表情をしたものの、さすがにここまで来てはぐらかしきれないと思ったに違いない。デイルはユーリの視線に応えるよう、胸に手を当て深く礼を執った。

 いましてほしい仕草ではなかったが、頷き返してユーリは浴室へ向かう。

「本当はいつものように髪も洗ってもらいたかったが、汚れが酷い自分にあまり触れてほしくないからな」

 衣服を脱いで備え付けの籠に入れる。
 以前よりも上位の部屋らしく、温かな色合いをしたランプが灯る浴室には、大きめの浴槽があった。洗い流し用のたらいにも浴槽にも、たっぷりのお湯が張られていた。

 せっせと体の汚れを落としてから、香油を垂らした浴槽に浸かれば、ユーリの口から長いため息が吐き出される。

「気持ちいい」

 宮殿では毎日のように湯に浸かれた。何ヶ月ぶりだろうかと思う。

「臭くはなかっただろうか」

 熱を出したときは、着替える際に軽く体を拭いた。しかし四日かけて戻ってきたことを考えれば、髪などもニオイそうに感じる。
 ユーリは思わず髪を鼻先に近づけ、匂いを嗅いでしまった。

「しっかり洗ったほうがいいだろうか。デイルはいつも、どのくらい石鹸を使っているんだろう? あまり石鹸で洗いすぎると軋むらしいしな。とりあえず――っ」

 体が温まったので浴槽から出ようとしたユーリは、いきなり立ち上がったせいかめまいを起こした。そのままつるっと浴槽の底で足を滑らせる。

 バシャンという水音と、重心が傾き、浴槽の足がガタンと大きな音を立てる。

「ユーリさま! どうされたんですか?」

「うわっ、デイル! な、なんでもないっ」

 物音に驚いたのだろうデイルが飛び込んできて、ユーリは慌てて立ち上がろうとする。
 だがいま自身がなにも身につけていないのを思い出し、慌てて浴槽に体を沈めた。

「浴槽で、足を滑らせただけだ」

「どこかぶつけていませんか?」

「……わからない」

 あまりにも一瞬の出来事で、痛みもわからなければぶつけたかどうかもわからない。
 そもそも状況は、それどころではないのだ。

「傍へ行ってもよろしいですか?」

「えっ? あ、駄目では、ないが」

(心配をしてくれているのだよな。ここで拒否をしてあとから傷ができていてもデイルに申し訳ない。覚悟を決めるしかないか)

 そわそわと視線をさ迷わせてから、ユーリはデイルの顔を見てこくんと頷いた。
 彼は袖や裾を捲ると、大きな布を手に取り、足早に傍へやって来る。

「失礼します。足を滑らせたのなら、背中からでしょうか?」

「たぶん?」

 後ろに立ったデイルはそっとユーリの体に布を被せてくれる。
 胸元へ布を寄せて、ユーリは背中だけをデイルに晒した。

「所々、赤くなっていますね。この程度ならば私でも癒やせます。少し触れます」

 むき出しの背中に温かな手が触れた。無意識にピクンと肩が跳ねてしまったけれど、ユーリは黙ってデイルの回復魔法を受け入れる。
 じわじわと染み渡る優しい魔力だ。

「んっ……」

「も、申し訳ありません」

 ユーリの肌を確かめようとしたのか、デイルの手のひらが背中を滑り、思わずユーリは上擦った声を漏らしてしまった。
 やけに甘い声が出て、恥ずかしさのあまり体が熱くなる。

「いや、僕のほうこそすまない」

「打撲はこれで大丈夫でしょう。痛みが出るようなら教えてください」

「うん。……デイル?」

 治療は終わったと言ったのに、離れていかない手。
 ユーリは平静を装いながらも胸をドキドキとさせている。きっと触れている手のひらから、胸の音が伝わっているのではと思えた。

 どういった状況かわからず、ユーリは息をひそめてじっとしていた、が――ふいになにかが背中に触れた。
 いや頭ではわかっている。なにかではない。

「デ、デイル? なにをして――ぁっ」

 触れた唇にきつく吸い付かれた。一点がちくんとしたあと、食むように唇で撫でられ、ユーリは全身を灼熱の火で炙られているかの如く、熱くさせる。

 慌てて前のほうへ体が逃げてしまい、バシャンと湯が跳ねた。そこでデイルも我に返ったのだろう。息を飲む声がした。

「……あっ、も、申し訳ありません。痕を消し――」

「消さなくて、いい。このままでいい」

 ちらりと振り返るとほのかな明かりの中で、顔を真っ青にしているデイルが、口元を覆い目を見開いている。

「なにをおっしゃって、いるんですか?」

「デイルは変わらず僕を愛してくれているのだろう? だからいい。先のことはまだ、できないのが残念だけど」

「ユーリさま! そのように軽率な発言は」

「デイルは、もう僕を愛していないのか?」

「――っ、失礼します! 髪をよく乾かしてから出てきてください!」

 デイルの頬や顔が、赤くなる勢いがすごかった。茹で上がったみたいに、全身を紅潮させたデイルは、わずかに足をもつれさせつつも逃げて行ってしまった。

「逃げた。けど、可愛いな」

 バタンと閉まった扉の音とともに、ユーリはくすくすと笑う。
 ぬるくなりかけたお湯を再び温めるため、魔道具に魔力を注いでから、ユーリは浴槽にゆっくりと体を沈めた。

「あの反応ってことは、僕に気持ちが残ってる。未練があるって意味だよな?」

 良かった――とユーリは心の中で呟く。
 目覚めてから出会ったデイルは、ユーリに対して見えない一線を引いて、深入りをしようとしていなかった。

 牽制するように誰とも添い遂げないだとか、ユーリにこれから出会う人のほうが大事だとか。
 しかし旅に出て、一緒に過ごす時間が長くなったおかげで、デイルの気持ちに揺らぎが出始めている。

「僕との未来に一欠片の未練もないと心底言われたら、諦めるしかないけれど。いまはまだ諦めなくていい。シノスの望む正しい未来を取り戻せば」

 正しいとはなにを持って正しいのか、という大きな疑問があった。
 だが村へ行ってフェンロットに話を聞き、ユーリは真意がなんとなく見えてきた気がする。

 まずユーリが皇帝になったのが最大の間違いだ。
 おそらく結晶石に遺されたディアランの意志が、ユーリアの魂を持つユーリを選んだ。

 これは致し方ないものの、ユーリは魔力過多症の治療を受けていないだけでなく、過分に魔力を引き継いでしまっている。

 ディアランの魔力にはドラゴンだけでなく、ユーリアの魔力も含まれていたはずだ。
 あのままでは魔力過多症が悪化し、衰弱していくばかりで、そのうち命も危うくなった。

 なので当初の予定どおり、シリウスを皇帝の椅子に座らせなくてはいけない。
 そして間接的か確信的かまだわからないけれど、ミハエルの行動を止めなくてはならない。

 病の流行を防ぎ、根源を絶つ。

 とはいえミハエルの目的がよくわからないため、どうするべきなのか、いい対処法が浮かばない。ユーリアの眠る地に出入りをして、彼はなにがしたかったのか。

 未来もいまも、ユーリアの見た目を好んでいた。未来ではエリーサに横恋慕していた。
 いまはおそらくユーリに目をつけている。

 帝位がほしい。それと同時にユーリアに似たエリーサ――いまはユーリがほしい。
 という考えからの行動なのか。

「叔父上はなにを考えているか読めないから、本当に怖いんだよな。隙のない人だし、もし隙ができるとしたら……ユーリアに関して。だけど僕が囮になんてなったら、デイルが黙っていないだろうし」

 非常事態にしか使えない手と思っておくべきだろう。

 デイルにこれ以上、悲しい思いはさせたくない。失うかもしれないという状況で恐れているユーリより、手を尽くす間もないまま、二度も最愛を亡くしてしまったデイル。
 どれほど胸が引き裂かれる思いだったか。

 最善策を考えようと、ユーリは浴槽から立ち上がった。