すべての終わり

 ユーリがデイルの治療を行っているあいだ、ミハエルはなにも仕掛けてこなかった。
 無駄な真似をしていると呆れているのか。

「お願いだ。ディー、僕を置いていかないで」

 槍はわずかにデイルの心臓をそれていた。けれどすでに脈はない。
 傷を塞いだだけでは止まった時を動かすことはできないのだ。

 自分の行動が徒労に終わり、仰向けにして寝かせたデイルの胸で、ユーリは泣き伏す。

「なぜなんだ! どうして世界は――僕に小さな幸せさえ許してくれないんだ。ディーの魂を持っていくなら、シノス! 僕の魂もともに連れて行って!」

 ユーリにとってデイルの存在しない世界に意味はない。
 たとえ家族と仲睦まじく過ごせても、その日その瞬間、笑えたとしても心は一生空虚だ。

 デイルが魂を賭けた時点で、ユーリに幸せな未来などなかったのではと思える。

「君はなぜそんなにこの男に執着するんだい? でもまあ、ドラゴンに魂を明け渡すというなら、器だけでもいいよ。ユーリル、君はとても美しいから、きっと毎日眺めても飽きない」

 場の雰囲気にそぐわないのんびりとした声音。
 常軌を逸した言葉に、さすがのユーリもミハエルを振り返り、驚きの表情を浮かべた。

 人が一人亡くなり、嘆き悲しむ者がいるのに、彼は先のことを想像し楽しんでいるように見える。

「彼と同じように心臓を貫いてあげようか? 前回と同じ死因だね」

 クスッと笑ったミハエルの仕草にユーリはあ然とした。

「叔父上には人の心がないのだな。だからそうやって他人の命を軽んじる」

「人間なんてつまらない生き物だよ。価値のないは、私の駒として動かされるのがちょうどいい。そのほうが幸せだろう?」

(無駄に才能に恵まれてしまったゆえの性格破綻。この人に常識なんてものはないんだ)

 ミハエルの指先に灯った魔力の光。
 彼はくるりと人差し指を回すと、ユーリの背後へと放つ。

 大きな爆発音が響き、ユーリがとっさに後ろを振り向けば、宮殿からの援軍が来ていた。

 だがこんな化け物じみた人を相手にして、まともな騎士や魔法使いがむざむざ命を奪われるなんて、見過ごすわけにいかない。
 ユーリは意を決して立ち上がった。

「おや、ユーリル。私とやり合うかい? 君と彼女が融合したから、いま地に宿る魔力はすべて、君の物になった。……ああ、元々君の魔力か。だけれど、どんなに強大な力も、使いこなせなければなんの意味もない」

 どんな状況になってもうろたえる真似はしない。
 ミハエルが敵わない存在など、きっとこれまでの時間、存在しなかったのだろう。

「一番簡単な方法は、ユーリルが僕のお人形になることだ」

「それは」

(一度は考えた。でもディーがもっとも悲しむ方法だ。彼がもう二度と目を開かなかったとしても、裏切る行動はしたくない)

 勝ち誇った笑みを浮かべるミハエルに、ユーリは奥歯を噛む。
 こうなれば相打ち覚悟――どうせデイルの元へ行くなら、かたきくらいは討ちたい。

 ぎゅっとユーリは両手を握り魔力を溜める。
 そんな様子に気づいたミハエルが大仰なため息をついて肩をすくめた。

「愚かだな」

『愚かなのは、お前だ』

 ミハエルの呆れた声に続き、聞こえてきた声。低く威厳のある声音にミハエルも驚いた表情を浮かべる。ユーリは声のぬしに気づいて、とっさに空を見上げた。

 デイルの開けた穴も修復され、すっかりミハエルの領域であったユーリアの墓所に影が差す。
 その存在を知らぬ者であれば、急に空が消えたと錯覚してしまいそうだ。

「シノス!」

『愚かな人間よ。緋色の魔女は我が友。お前如きが手にして良い存在ではない』

 巨躯のドラゴンが羽ばたくと一瞬でミハエルの結界が粉々になった。隔てる壁がなくなると、援軍も一気になだれ込んでくる。

 しかし彼らはすぐさま、空に浮かぶ緋色のドラゴンに目を奪われていた。

『まったく、本当にいざというとき、役に立てない男だ。捧げる予定である魂に傷を、こうも増やすなど、なんて間抜けな男か』

「シノス! 崇高な存在のあなたでも、ディーを貶める言葉は許さない!」

『こちらはこちらで、記憶がないくせに。我に文句を言うのはそなたくらいだ』

 ふぅと小さなため息をついたあと、シノスは胸を膨らませ、息を吸ったかと思えば、大きくなにかを吐き出した。

 炎か魔力の塊か。いま確かめる暇などない。

 シノスの吐き出したなにかがデイルの体を覆い尽くし、ユーリは慌てて腕でなぎ払おうとする。けれど青い光を放つなにかはデイルから離れていかなかった。

「シノス! なにをしたんだ」

『我は人の世に干渉せぬ。ツケは自分で払うものだ』

「なにを意味のわからない――」

 要領を得ない、シノスの言葉にユーリが苛立った声を上げた――その時、突然腕を掴まれた。

「ユーリさま……ご無事で、良かった」

「――っ、良くない! あなたが無事でなくてはなにも良くない!」

「申し訳、ありません。油断をしました。ですがツケは、自分で払います」

 先ほどまで完全に、心臓の音が止まっていたデイルが身を起こし、立ち上がる。
 さらに一歩踏み出し、自分を庇う頼もしいほどの背中を見て、ユーリは涙がこぼれそうになった。この状況がどういったものかはわからない。

 いっときの灯火の命なのか。シノスの気まぐれで甦った命なのか。

「私は皇帝陛下よりもユーリさまに忠誠を誓っております。ゆえにあなたを害する存在は、決して許しはしません」

「ディー」

 ぐっと足を踏み込むと、剣を片手にデイルは一気に駆けだした。
 その様子を近くで見ていたミハエルは、周囲に響き渡るほどの笑い声を上げ、向かい来るデイルと正面から対峙する。

 魔力をまとったデイルの剣と、黒い魔力の剣がぶつかりこすれ合い、火花が激しく散った。

「なるほど、防御を解いた君の実力がこれか。素晴らしいね」

 体格、剣技、魔力、知識――二人はおそらくほぼ互角だ。

 証拠にデイルは少し前に読み解いたミハエルの魔法陣を行使している。

 そんなものを使わなくとも、ユーリは自分の魔力すべてをデイルに受け渡してもいいのだが、これは一対一の勝負なのだから手出しは無用。

 しかし未来を見る力がなくともユーリにはわかる。この勝負、どちらが勝利を得るのか。
 それは護るべき存在がある人間だ。

 ミハエルと違い、デイルは信念を持っている。
 人をつまらない生き物と称するミハエルには一生得られない力の源。

 二人の息もつかせぬ戦いに誰もが固唾を飲む。
 一生に一度見られるかわからない光景だとユーリも目を離せない。

 ぶつかり合う剣。美しいほどの魔法の軌跡。

(ディーの言葉の意味――この結末を父上になんと伝えよう)

 万能であるミハエルもさすがに長時間、大きな魔法を使い続け、限界が見えてきた。
 反してデイルはシノスに回復してもらい、なおかつ周囲の魔力を使い限界を突破している。

 終幕はもうすぐそこだった。

「君にはもっと早く会いたかったな。つまらない貧相な陰気魔法使いとしてでなく」

「これはお前が未来で選択した結果だ! 死の門をくぐり永遠の眠りにつけ!」

「それもいいね。もう生きるのにも飽きたし。なかなか楽しい、遊戯だったよ」

 ふっと笑ったミハエルに向け、デイルは剣をなぎ払うように振る。
 先の光景が想像でき、とっさに目を背けそうになったユーリは踏みとどまり、ミハエルの最期を見届けた。

 誰もが一瞬の出来事に息を止めただろう。だがユーリは――

「ディーっ!」

 状況把握する前にデイルの元へ駆け寄った。なぜならミハエルの首をはねたあと、彼は体をよろめかせたからだ。

 踏ん張る様子もなく、力なく倒れたデイル。地面に彼の愛剣が転がった。

「ディー、どうしたんだ? ディー、目を開けてくれ」

 仰向けで横たわるデイルの傍に膝をつき、ユーリは必死で触れて確かめる。
 心臓の音は弱いが感じられた。ぬくもりもある。しかしデイルが目を覚ます様子がない。

『仕方のないことだ』

「……シノス! ディーの魂を持っていったのかっ?」

 ふいに上空から聞こえた声に、ユーリは噛みつく勢いで叫んだ。
 するとシノスは呆れたため息を吐く。

『そう焦るな。そやつは我の力で無理やりに目覚めさせた。体の回復が追いつく前に全力を出して動き回ったのだ。しばし眠りにつくだけだ』

「しばしとは、いつまでだ」

『それは我にもわからぬ。その男の回復次第だ』

「そんな――やっとすべてが終わったと思ったのに」

『そうだ。すべてが終わった。元凶が絶たれたゆえに巻き戻りはもうおしまいだ』

「え?」

 意味深なシノスの言葉にユーリは眉間にしわを寄せる。

(そういえば、叔父上は最後になんと言った? この巻き戻り、初めてではないのか?)

『未来を正せた。約束どおり代償は――なかったこととしよう』

「シノス!」

『代わりにあちらの男の魂をもらい受ける。緋色の魔女よ。今度こそ幸せになれるよう祈る』

「待てシノス! あなたはいつも言葉足らずだ! 一段落したら会いに行くから待っていろ!」

 悠々と羽ばたき、シノス村の向こう――ホートラッド山へ飛び去っていくドラゴンに、ユーリは大声を上げて文句を言った。