次候*桃始笑(ももはじめてさく)
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 この家の玄関入ってすぐの部屋は仏間になっている。納屋の荷物を言われるまま運び入れると、朱嶺は仏間の真ん中に立って辺りを見回した。

 暁治は昔からなんとなく、この部屋が苦手だった。奥に仏壇が置いてあって、しんと静まり返っているせいなのもあるのだが、壁の高い位置に飾られた、額縁の中のモノクロ写真に見下ろされるのは、あまり気持ちのいいものではない。
 つい先日新しくひとつ、加わったこともあるし。

 祖母に並んで穏やかな笑みを浮かべている祖父の遺影を見上げる。まだちょっと心の準備ができていないようだ。しんみりしていた暁治は、隣で朱嶺の視線も同じ方向を向いていたのに気づいて、なんとなく目をそらした。

 例えるなら盗み見でもしているような、バツが悪い気分なのは、彼の視線があまりにも優しげで、なんとなく切なげにも見えたからだろうか。
 見てはいけないものを見た気分にさせられるのは。

「で、どうするんだ、これ?」

「ん? あぁ、そうだねぇ」

 沈黙に耐えかねて、ことさらぶっきらぼうに言い放つと、朱嶺はようやくこちらに気づいたらしく、小さく首を傾けた。

「まずは台を組み立てようか」

 台ってなんだろうと思っている彼の横で、朱嶺は手際良く板を組み始めた。言われるままに手を貸すと、最後に赤い敷布をかける。

「これって」

 階段状の台座が七段、上に赤い布。そして今は三月と言えば。

「たぶん正解」

 座り込んで小箱を開けていた朱嶺が掲げたのは、座った女性のお人形。お雛さまだ。
 続いて取り出されたのは男雛。ぼんぼりに三人官女。次々と取り出される華やかなひな飾り。

「三日はもう過ぎたけど」

「新暦のはね。この辺りのひな祭りは、旧暦でやるんだ」

 旧暦と言えば四月三日。
 行事ごとについぞ興味がないせいだろうか、暁治にとって初耳だった。
 春休みにもこの家にお邪魔したことがあったようなと首をひねるが、元々仏間が苦手なこともあり、あっても気づかなかっただけかもしれない。
 そういえば、形見分けの目録に書いてあった気がする。祖父は準備がよかったのか、誰になにを譲るか、あらかじめリストを作っていたらしい。

 なぜ祖父は親戚の女の子ではなく、男の暁治に譲ろうと思ったのだろう。
 孫の性別を間違えていたとは思えないが、もしかしたら妹と間違えたのかもしれない。

 妹はすでに三段のケース入りのひな壇を持っているし、都会に七段飾りのひな人形は手狭だ。とりあえず受け取って、欲しがっている親類がいたら改めて譲ればいいかとそのままにして忘れていたようだ。

 お雛さまは飾ってこそ。男ばかりで申し訳ないけれど、朱嶺にならって、見よう見まねで飾りつけていく。
 うろ覚えであっちだこっちだと、声をかけあって並べるのはなかなか大変だ。

 途中、男雛と女雛は左右どっちに置くかという論争に発展しかかったのだけれど、朱嶺の「毎年左側に女雛があったよ」という主張が通り、左に女雛が置かれることとなった。
 毎年飾っていたとはいえ、ひな人形なんてそんなじっくり見たことなどない。飾るのを手伝っていたと主張する朱嶺相手では、勝負にもならない。

「結構重労働だよねぇ」

 こんなに身体を動かしたのはいつぶりだろう。朱嶺がはしゃいで急かすせいもあり、向こう一週間分ぐらいの体力を消費した気がする。

「じいちゃんもしかして、毎年出してたのか」

「うん、毎年」

 年寄りにはきつかったんじゃないかと、思わず言葉をこぼすと、笑顔が返ってきて少々面食らう。朱嶺はいつも笑っているのだけど、なんとなく今までの笑顔と違う気がして。

「そ、か」

「うん」

 またしばらく沈黙がおりた。
 黙々と作業する間も、ちらちらと朱嶺の方を見てしまう。

「どうかした?」

「なんでも」

 ない。つとめて目をそらして桃の花を飾りつけると、ひな壇の完成だ。

「綺麗だねぇ」

 ぼんぼりはライトがつくようになっていた。お雛さま自体は古いものなのに、ぼんぼりだけプラスチックだ。「つけるよ」と、朱嶺が言うと、窓がなく陽の差さない薄暗い部屋に明かりが灯った。

「あっかりをつけましょ、ふんふんふ~ん」

 こういう賑やかしって、どこでもいるよな。暁治の父親がこういうタイプだ。調子よく手を叩いて歌い出す朱嶺を見ていると、ほらほらと拍手をリクエストされる。
 なんで俺がと思ったものの、手を叩く力が弱いのってもしかして年のせい? とか煽られて、思わず必死に手を叩いてしまった。

 見事乗せられたと後で思い出して悔しかったが、見物人がいなかったのがせめてもの救いだ。思えば初日から、こんな調子のような気がする。

「よし、ひな祭りだし、おとそを呑まなきゃね?」

 任務完了とばかり、ひらひら踊りながら居間の方へ向かう朱嶺の、肩をわしっとつかむ。

「未成年は飲酒禁止だ」

「え~、僕未成年じゃ――」

「こないだ、同じ学校だと言ってただろ」

 正規でないとはいえ、一応先生と呼ばれる身になるのだ。そして朱嶺は生徒。大人の一人として、しっかり指導しなければと思う。

「あぁ、神さまっ! 朱嶺ったら悲しいっ」

 朱嶺はしおしおと泣き崩れる真似をした。真似だと思うのは、台詞がまったくの棒読みだからである。だいたい仏間でなにが神さまだ。

「うぅぅ、ちょびっと。こんくらいは? ダメ? じゃ、こんくらいならいい?」

 人差し指と親指で、こんくらいこんくら~いと言いつつ幅を作って暁治に見せてくるのだけど、彼は頑として首を縦に振らない。

「うわぁ、はるの鬼ぃ」

「鬼が来るのは先月だろ」

 旧暦に直しても豆まきの日はとっくに終わってる。

 くすくす。

 笑い声がした。

 高く澄んだ、鈴の音のような声。

「あ、いたいた。はる、ここだよ」

 朱嶺の手招きで、ひな壇のそばに寄る。
 赤い毛氈が敷かれたひな壇の陰に、小さな女の子がいる。

「この子は……」

「ぼっこちゃんだよ」

 小学校に上がるくらいだろうか。おかっぱ頭に漆黒の大きな瞳と対照的な白い着物。ぼっこちゃんと呼ばれた少女は、桃色の唇の端を小さく上げて笑った。

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