初候*蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)
五月も後半にさしかかると、五月病だとか休みぼけだとか、言っていられなくなる。生徒たちは中間テストが間近だし、四月から始まった暁治の教師生活はまだ始まって日が浅い。覚えることも多く、手が空けばほかの先生たちに声をかけられた。
常勤の教師ではないから、自分の仕事以外をしなくてもいいはずなのだが、仕事した分だけ給与に載せてくれると言うので、ついつい任されるままに手伝ってしまうのだ。細々とした絵の収入も入ってくるけれど、やはりそれだけだと生活費は潤沢とは言えない。
「ここで暮らすならやっぱり車が欲しいよな」
「先生って車、ないの?」
「えっ?」
いま心の中で思っていたことに、ふいに言葉が返ってきて暁治は肩を跳ね上げる。ふっと視線をそちらへ動かせば、生徒の視線が一つ、二つ、三つ。見慣れた顔ぶれは石蕗と美術部員の女子二人だ。ここは放課後の美術室。
居残り組が集中しているのを邪魔をしないようにと、部屋の隅で暁治は小さなキャンパスに向かっていた。そしてぼんやり今日の晩飯は、これからの生活は、生活費はと考え、先ほどの独り言に至る。
「車でしたら、必要な時にうちのものをお貸ししますよ」
「ああ、そうだなぁ。……んー、そのうち」
黙っていると石蕗が指先で鍵を回すような仕草を見せた。確かに車があれば隣町まで行くのに便利だと思った。けれど買い物は便利になるだろうが、あの男が喜ぶだけではないだろうか――なんて考えが浮かぶ。
「カラオケと、ボーリングって言ってたしなぁ」
「はぁるぅ~!」
「え?」
噂をすればなんとやら、ぽつりと呟いた途端に教室の戸がガラガラと、勢いよく開け放たれた。なんと言う絶妙な間合いだろうかと、呆れもするが驚きのほうが勝る。
「あれ? まだ終わってないの?」
「見計らってきたのかよ! 帰ったんじゃなかったのか。……って! 私服で学校に来るんじゃない!」
室内を覗いてきょとんとする朱嶺の姿にため息が出たが、ぴょこぴょこと軽い足取りで傍までやって来た姿に、暁治は指を差し向けてしまった。
藍色の羽織に着物――いつも見ている格好だけれど、ここは学校だ。
「学校の制服って窮屈なんだもん。着物のほうがリラックスできるんだよね」
「校則違反だ」
「誰も気にしてなかったよ」
「そういう問題じゃないだろう」
「相変わらず頭が固いね」
すぐ傍でくるりと両手を広げてひるがえった様子に、重たいため息が出る。けれどこういうのをなんと言うか知っている。暖簾に腕押しというやつだ。
「朱嶺くんっていつも着物なの? このあいだ見かけたけど。その時も着物だったね」
「普段着が着物っておしゃれだねぇ」
「おばあちゃんが随分といい紬の着物を着てるって褒めてた」
朱嶺がやって来た途端に空気がそわそわとしたものに変わる。美形はもう一人いるが、こちらは相手にされることがないのは把握済みのようだ。それにこの男は黙って立っていれば顔立ちも整っていて、目を惹く。
思春期の少女たちの注目を集めるのも仕方ない。別に、羨ましくなどない――恋や愛なんて、そんなことを思いながら、暁治は傍にある横顔を見つめた。
「紬ってそんなにいい着物なの?」
「紬って絹なんだって」
「いま朱嶺くんが着てるのも?」
「うん、そうだよ。これは大島紬」
興味深そうにする二人に朱嶺が頷くと、首を傾げていたほうの子がまじまじと着物を凝視する。そしてなんとも表現しがたい難しい表情を浮かべた。その顔に思わずその場にいる全員が首を傾げる。
「絹って言うとさ、あの、蚕? あれを思い出しちゃって」
「ああ、虫だしね。苦手な人は苦手だよね」
「いや、って言うかぁ。小学校の頃に課外授業で、蚕を育てて絹を取りましょうって言うのがあってさ。丁度、いまくらいの時期かな。みんなで幼虫を育てたんだよね」
「……ああ」
肩をすくめた彼女に皆、微妙な重たい相づちを返した。情操教育の一環で、そう言ったことをする学校は少なからずある。蚕の末路は繭ごと生きたまま茹で上げだ。決まって中には愛着が湧きすぎて、ショックを受ける子が出てくる。
この子はそれとは違ったようだが、少なからずなにかが心に残ったのだろう。
「あれ以来、絹って思うとそれを思い出しちゃって、なんか残酷だなって」
「それは仕方ないよ。蚕は自分だけでは生きていけないんだ。自分の身を守れないし、ご飯を探しにも行けない。成虫になっても空を飛ぶのだって難しい。そういう風に人間がしてしまったんだけど。力がないものが生きていくのって大変なんだよ」
「朱嶺?」
ふいにどこか重たげな声がしんとした空間に響く。苦笑いを浮かべて顔を見合わせるほかの生徒たちとは異なり、やけに真剣味を帯びた顔をする彼は視線を落とした。それとともに沈黙が広がる。
「そうそう、彼は拾われっ子なので、世知辛さが身に染みてるんですよね」
「……えっ? それ、あっけらかんと言うような冗談じゃないぞ、石蕗」
「冗談? 冗談ではありませんけど」
「ああ、うん。そう、僕は橋の下の子だって親父さまが言ってた!」
「それって、親がよく言う悪い冗談じゃないのか?」
ぱっと顔を上げた朱嶺は先ほどまでの表情を払拭すると、笑顔を浮かべて石蕗の言葉にぱんと両手を打つ。その顔は冗談を言っているようには見えないけれど、怒る時などに、あんたは橋の下の子だから――なんて言う親がいると聞く。
嘘でもたちが悪いと暁治は思うのだが、彼の親がそういうタイプだったのかと思うと、いささか複雑だ。しかし電話口で話したきりだけれど、そこまで人の悪いような印象はなかった。
「いまこうしてなに不自由なく温かい寝床で眠れて、毎日美味しいものが食べられるのは、縁があってこそだよね」
そして本人はいたく、その親に感謝をしているようだ。合わせた両手を頬に寄せてにっこりと笑みを浮かべている。
突拍子もないし、人を振り回すし、我が道を行くタイプではあるが、すれたところがなくまっすぐなのは、親の教育の賜物なのだろうか。そう思うと、あれが本当の話ならば、朱嶺はいまの場所にいられて幸せなのかもしれない。
「米粒一つも農家さんに感謝しなさい、って言うでしょ。蚕もそれと一緒だよ。命は巡るものだから、それを知っているだけでマシさ。命をありがとうって思えばいいんだ」
「お前もたまにはまともなこと」
「ってわけでぇ。はるぅ、僕をお腹が空いちゃったんだよねぇ。より一層、感謝を奉るから、帰りにご飯食べて帰ろっ」
「……お前は、やっぱり飯をたかりに来たのか! 大体、感謝を奉るなんて日本語は聞いたことないぞ。奉るのは毎日飯を食わせてる俺だろう。いや、食べ物に感謝するのはいいこと、だけど」
「ほら、喫茶店リョンリョンに行こう。僕、チャーハン定食が食べたい」
「あそこはリヨン・リヨンだ! 妙に軽快な名前にするな!」
学校から五分ちょっとのところにある昔ながらの喫茶店は、学生のたまり場だ。メニューがやたらと豊富で、和洋中が混在しているのが特徴だった。最近の朱嶺のお気に入りでもある。
「それと、晩飯はもう決まってるからまっすぐ帰る」
「えー!」
しんみりしたかと思えばいつもの空気。この男にシリアスはやはり似合わない。けれどリスみたいに頬を膨らましているご近所さんの、いままで知らなかった面が少しずつ見えてくる、それに暁治は不思議な気持ちになった。
「なんか、宮古先生と朱嶺くんって……夫婦漫才みたいだよね」
「言えてる」
「いま、なにか言ったか?」
「なにも言ってませーん!」
「わたしたちそろそろお邪魔なので帰りまーす」
突然の生温かい眼差しに暁治が首をひねると、彼女たちはそそくさと帰り支度をして、さっさと教室を出て行く。呆気に取られていれば、私も邪魔ですね――などと言って、石蕗までニヤニヤ笑いながら帰ってしまった。
残されたのは飯をくれとぴーぴー鳴く、姦しい鳥の雛が一羽だ。