末候*梅子黄(うめのみきばむ)
居間と台所の間にある柱には、小さな傷がある。たくさん、というわけではないが、暁治の腰くらいの高さから、肩の辺りまでさまざまだ。
その犯人の一人である暁治は、刻まれた傷のひとつをするりとなでた。
柱の傷がどうのと言ったのは、端午の節句の歌だろうか。小さいころの父親がつけた背丈の傷を見て、張り合うように友達と一緒に印をつけたのは、もう十年以上前のこと。家の柱に傷をつけてと、当時は祖母にこっぴどく怒られたものだ。父親が一緒に並ばされたのは、自業自得なのだが。
そういや、あの子は元気なのかな。
昔遊びに来るたび、一緒に遊んだ友人を思い出す。暁治よりいくつか年嵩の彼は、いつもなにか楽しいことを見つけては、周りを愉快にさせる天才だった。
「はるっ、はる、なにしてるの?」
柱の前でぼぉっとしていたらしい。いつの間にやって来たのか、朱嶺がこちらの顔を覗き込んでいた。
「ちょっとな、昔を思い出して」
「あ、この傷? はるがまぁちゃんより背が高くなったからって、印つけろってごねたやつだよね。父親の背丈追い越した記念だって。あのときは僕まで巻き添えくらって怒られたんだよ。正治さんは知らんぷりしてるし。でもこっちの深いやつは、正治さんがつけたんだからね。あ、もちろん子供のころだけど」
ぷんぷんと、頬をふくらませる赤朽葉色の髪の少年を、暁治はじぃっと見た。
「なに?」
「いや」
確かあの子も赤い髪だったな、と思い出す。
暁治は超常現象めいたものを信じるたちではない。祖父の寝物語の夜来るものの怪奇話も、物語のひとつとして認識しているくらいだ。
リアリストと言ってしまえばそうなのかもしれないが、逆に目の前に提示されたものを受け入れるのも、実のところやぶさかではない。
どんな突拍子もないことでも、だ。
もっとも、なんでもかんでも受け入れる、というものではないのだが。
しかしながら、これはどうなのだろう。暁治は思案する。
実のところさっきまですっかり忘れていたのだが、先日、自分は実は三百歳だとカミングアウトした少年は、暁治が抱えていたザルに目を止めた。
「梅の実?」
「ん? あぁ、庭の梅の実が大きくなったから、梅干しでも作ってみようかと思ってな」
「氷砂糖と日本酒もあるみたいだけど」
「そっちは梅酒用だ」
水洗いして水分を拭った梅の実の入ったザルを、机の上に置く。座っていた桃が、手にしていた竹串を一本、朱嶺に手渡した。
「ヘタ取りかぁ」
「さっき量ったら五キロあったから、好きなだけ食え」
「え~、まだ青いじゃん」
「梅酒は青い方がいいんだぞ」
「知ってる! サトちゃんも昨日漬けてたし」
サトちゃんこと崎山里美さんは、家の近所にある崎山商店のご隠居だ。
「駄菓子ばぁちゃん特製、夏のかき氷用のと、白玉梅シロップの梅を漬けるんだって。めちゃウマだよ」
自家製梅シロップのスイーツとか、想像しただけで喉が鳴りそうだ。うっとりと頬に手を当てる朱嶺の横で、暁治も同じ表情を浮かべる。
「いいな、うちも漬けるか」
彼がそう言うと、桃が嬉しそうに手を叩いた。笑顔で頷くお姫さまのリクエストには、ぜひとも応えねばならないだろう。幸い梅はたくさんある。
「炭酸水も買おうよ。梅ソーダ飲んでみたい。とびきり甘いシロップで」
梅シロップの作り方は簡単だ。梅と氷砂糖を瓶の中に交互に入れて、溶けるまで数日置きに瓶を揺らせばいい。早く溶かすには少しアルコールを加えればいいのだが、少々時間はかかるがなくても問題はない。
梅酒の氷砂糖は控えめにするから、余ったのをシロップに回すか。
砂糖の割合をあまり増やすのもよくないが、それくらいなら問題ないだろう。着々と頭の中で計画が進む。
「ねぇねぇ、シロップをわらび餅にかけたら美味しいかな。取り出した梅は潰してジャムにしようよ。きっと美味しいに違いないよ」
ね~? と、桃と顔を合わせて首を傾ける。
甘い梅シロップに思いを馳せているのか、ほにゃほにゃと頬を緩める少年を見て、やはり後ろ二桁外した方が正解じゃないだろうかと思う暁治だ。
「ほら、手が留守になってるぞ。全部終わらないとジャムもシロップもできないんだからな」
「は~い!」
二人して、手をあげる。仲良し兄妹である。桃はしっかりしているから、もしかしたら姉弟かもしれない。見た目はともかく。
黄色みがかっている実は梅干し用だ。暁治はヘタを取り終わった実を、二つのザルにより分けていく。青黄色、青黄色。ちょっと黄色がかってるけどこれは青。青というより緑だが、なぜ青梅なのだろう。
梅酒は作ったことがあるのだが、梅干し作りは初めてだ。祖母が漬けていたらしく、納屋に桶や壺があった。確か最初は干してと、工程作業を思い出しつつより分け作業をしていると、とりとめのないことが浮かんでくる。
彼――というか、幼馴染みと出会ったのは、妹が生まれた年だ。
難産で、産後の経過が悪かった母は、妹が生まれてからしばらく入院することになった。まだ小さかった暁治は、その間祖父母の家に預けられたのだ。
今まで住んでいた家や家族と離れて、田舎で一人。そんなときに出会ったのが、その少年だった。家にこもりきりだった彼を外に連れ出し、暁治の知らないことを色々知っていて、誰よりも頼りになる優しい少年。
――だったはず、なんだがな。
あの子がコレ。コレがあの子。いやいや、いやいやいや。
首を振りすぎて、思わず頭痛を覚える。
先ほど柱の傷について指摘され、どうやら動揺していたようだ。今もついうっかり黄色のザルにまだ青い実を落としてしまって慌てて取り出した。
そもそも怪異とは、もっとおどろおどろしかったり、怖かったりするものではないのだろうか。間違っても真っ昼間から賭け花札したり、自作の梅シロップの歌を歌いながらヘタ取りしたりなどしないはずだ。
先ほどからそばで聞こえる調子外れのメロディーを聴きながら、強くそう思う。
三百歳はこの際いいから、幼馴染みってとこだけは外してくれないだろうか。
なぜなら、曲がりなりにも幼いころにほんのり憧れていただなんて、あんまり自分で認めたくはないからだ。
「はる、どうかしたの?」
訝しげに顔を覗き込まれ、慌ててぶんぶんと首を振る。髪の色は似ているが、なにせ最後に会ったのは小学生のころだ。さすがに顔は覚えていない。覚えてはいないのだが。
「……今まで多少なりとも隠そうとしてたように思うんだが、なんで言ったんだ?」
思い返せば釣りのときの河太郎のこととか。
正直暁治は悩むのは苦手だ。悩む間に聞いた方が早い。
朱嶺はきょとんっと目を瞬かせると、やがて合点が言ったように頷いた。
「え、だって、僕が何百年生きてたって、特になにがあるわけでもないし。そう、はるが言ったんだよ? だったら別に気にしなくてもいいかなって」
確かに言った。そう言った。それは認めよう。
「あぁ、後ろ二桁多い気もするけどな」
もしかして、祖父に話を聞いて、自分をからかっているのだろうか。などと、まだそんなことを思ったりもするし、そんなに生きてるこいつの正体とか、色々思わないことはないのだけれど。
「もう、はるったらひどいっ!」
怒鳴りながら、ふにゃりと緩んだ笑顔が目に映る。
そう、色々思わないことはないのだけれど、その前にもっと大事なものがあることを、暁治は知っているから。