末候*玄鳥去(つばめさる)

 春にピィピィと、家の軒下で鳴いていたつばめの声が聞こえなくなって、どれくらい経つだろう。
 そのうち親と同じ姿になった子供たちを見かけるようになり、今日久しぶりに箒を片手に玄関に出た暁治は、彼らがいなくなっているのを知った。

 玄関の掃除は朱嶺の仕事と、決めたわけではないのだが、毎朝一番に箒を握っていたのは彼だった。ここ数日、家に帰って来ていないため、暁治がその役目を果たしている。今朝のご飯当番代打はキイチだ。暁治があっと驚く目玉焼きを作ると張り切っていた。

 朱嶺は、たまにふらりといなくなる。いなくなる前には「ちょっと出てくるね。ご飯は気にしないで」と、一言告げてくれるので、食事の心配はしなくてもいいのだが、今までで短くて半日、長くて一週間、音沙汰がなくなってしまう。

 帰ってきて「まったく、やんなる」とか、「おうちのご飯が一番だね!」とか、愚痴をこぼすので、本人も不本意な家庭の事情なのだろう。いや、おうちのご飯ってなんだよ、とか。朱嶺が帰ってきてとか考えてしまう自分にも突っ込んでしまう暁治である。

 かくいう彼の不在はいつものことだったのだが、今回は暁治に万葉集とやらを告げた次の日だったため、なんとなくもやもやした気分を抱えてしまっていた。
 別にいなくてもいいのだが。ずっといなくてもいいのだが。そんなことを思いつつ、手にした箒で掃き始める。元々一人暮らしのはずだったし。

 だが、一度あるものだと認識してしまったせいだろうか。普段飛び切り騒がしいからだろうか。ひどく寂しく感じるのは。
 しばらく手を動かしていた暁治は、ふと頭の上の巣を見上げた。家主のいない空っぽの巣が、ぽつんと頭上にある。

「そいや、つばめが来たのっていつだっけ」

 確か石蕗と出会ったころだから、春なのは間違いない。軒下に巣を作られて、縁側まで鳴き声が聞こえてきていた。
 彼らも居候といえないこともない。それも家主に無断でだ。勝手にやって来て、勝手に居座って、勝手にいなくなる。まったく勝手なやつらだ。そう思って思い浮かんだ別の顔を睨みつける。
 
 つばめは翌年も同じ場所に巣を構えるという。なら、また会えるはずだ。来年の春にと考え、自分はまたここで春を迎えるのだろうか、と思う。

 来年の春に答えを出すと宣言はしたけれど、どうにもそのときが想像できない。この日常が当たり前過ぎて。

「あぁ、そうだ」

 ふと、気づいてしまった。いや、わかっていたのだけれど。
 来年、自分が答えを出すとき、当然のように彼らがそこにいると考えていた。

 ――傲慢なやつだよな、俺って。

 もしかしたら、彼らも別の道を考えていたのかもしれないのに。進むべき道があるのは、暁治だけではない。彼らだって、選ぶ権利はあるのだ。

「隙あり! こしょこしょこしょっ!」

「うっひゃぁぁぁ!!?」

 突然脇の辺りに触れられたかと思うと、思う存分くすぐられ、暁治は箒を放り出して叫んだ。

「おやおや、おきゃくっさん、この辺が凝ってるアルね」

「やっ、やめっ! そこ脇だか――」

 凝っていると言いつつ、触ってくるのは脇と首筋、お腹部分。どう見ても凝る部分ではない。暁治は拳を握ると、肘を奥に突き出した。

「ぐへぇ!」

 カエルが潰れたような声を上げて、よろめいた相手を、気持ち強めに蹴り飛ばす。

「痛いっ! はるひどいいぃ!!」

「ひどいじゃない! いきなりなにするんだお前はっ!!」

 振り向くと朱嶺が地面に懐いていた。へにゃりと。

「ちょっとした、ただいまのご挨拶なのにぃ」

「ちょっとじゃないだろ、この馬鹿っ!!」

 しくしくと、泣き真似をする自称妖を、草履の裏で踏みつける。先ほどまでのしんみりした物思いは、家の背後にある山の向こうまで吹っ飛んでしまった。

「え~ん、はるがいじめるぅ」

「うるさい、ほんとにお前ってやつはもぅ……」

 丸まった朱嶺が、口元に手を当てているのが見えた。くすくすと笑う姿に、こちらもなんとなく、笑み崩れる。

「あはは。はるってば、すごいくすぐったがり。めちゃ反応いい」

「お前なぁ」

「えへ、ただいま。お腹すいた」

「お帰り。キイチが飯を作ってるから、もう一人分追加してもらおう」

「え~、駄猫のご飯とか、やばくない?」

「昨日も食べたけど、なんともなかったぞ」

 本人ならぬ、本猫がいないから、言いたい放題だ。

「今回も結構長かったな」

「え? あ、うん。ほら、そろそろ十月だからさ」

 尋ねると、朱嶺は面食らったように、目を瞬かせた。質問されると思っていなかったらしい。我ながら、もう少し周りに目を向けないとなと思う。

「十月になにかあるのか?」

「ほら、十月って神無月っていうでしょ。神さまたちが出雲の国で会合開くから、僕ら下っ端連中は準備に駆り出されるんだ」

「妖事情ってやつか」

「そうそう。妖の付き合いもなかなか大変よ。ところではる、なにを見てたの?」

 朱嶺からの質問に、軒下の巣に向け顎をしゃくってみせる。彼は知っていたのか、あぁと頷いた。

「つばめちゃんたち、いなくなっちゃったね」

「あぁ、また来年だな」

「うん」

 こっそりと、朱嶺の顔を伺う。『来年の春』というキーワードに、なにを思うのか、その表情からは読み取れない。

「ねぇ、はる」

「なっ、なんだ!?」

「もう、いきなり大声。なんか中華料理でつばめの巣のスープとかいうのがあったよね。これで作れたりするのかなぁ?」

「さぁ、高級料理らしいし、つばめの巣なんてよくあるものだから、もしかして作るの大変なのかもな」

 巣を指差して、キラキラ目を輝かせる朱嶺を見て、暁治も至極真面目に答える。どうやら出がけの万葉集の件は、すっかり頭から抜けているらしい。どうしようと思い悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。

「ふむふむ。そんじゃ、ちょっと試してみようか」

「おい止めろ」

 台を持ってこなくちゃと、うきうき玄関へと向かう朱嶺の服の裾をつかむ。
 そもそも巣である。つばめさんたちが生活を営んできた場だ。それを食べようなんて、人間の食欲には恐れ入るが、ごく一般的な小市民な暁治には無理だ。この場合、人ではなく妖ではあるが。

 このままでは来年帰ってくる予定の、つばめたちの家がなくなってしまう。一人の食欲魔人の手によって。いや、食欲魔妖だろうか。

「えぇ、なんで? はるはつばめの巣のスープ、飲んでみたくない? 高級料理だよ。高級料理」

 『高級』の部分に、やけに力を入れてくる。幻想世界の住人にあるまじき、俗物的意見である。そして暁治は、俗物的意見に弱い小市民だった。

「きっ、興味がないこともないけど……」

「だよね!?」

「いやいや、待て待て!」

 再び玄関に向かいかける腕をつかむ。つばめのお家の運命は、彼にかかっている。

「ほらっ、なにか特別な材料が必要かもしれないしっ、今獲る必要はないだろ」

「でもさぁ、鉄は熱いうちにっていうじゃない。腐るものでもないだろし、料理人朱嶺くんの腕が鳴るよ!」

 なにせ春からずっとここにあったのだ。いい具合に熟成されているのでは、とは朱嶺の弁。
 熟成ってなんだよ!? 暁治は心の中で突っ込んだ。腐らないと言いつつ、熟成について語る料理人ってどうなのだろう。

「持ち主のいない今がチャンスでしょ」

「なにがチャンスだ、おいこら止めろ」

「ちょ、はる、あんまり引っ張らない――うわぁ!?」

 やがてガラリと、玄関の扉が開く音がした。

「朝っぱらからうるさいにゃ! ――って、駄烏!?」

 ひょっこり玄関から顔を出したのは、ご飯作りは俺の使命と台所にこもっていたキイチだ。彼は扉を開いたまましばらく固まった後、手にしていた菜箸をこちらへと突きつけてきた。

「愛する暁治のために、頑張ってご飯作ってたのにこの駄烏! 朝からイチャイチャとは万死に値するにゃ!!」

「もぅ、はるったら朝からダ・イ・タ・ン」

「え、いやこれは違うというか」

 倒れ込んだ朱嶺の上に乗り上げた形になった暁治は、必死になって言い繕った。後から考えてみれば、そんなことをする必要など、これっぽっちもなかったのだが。さしずめ本妻に浮気がバレて、言い訳する旦那のようだ。情けないことこの上もない。

 ちなみに後からググったところ、つばめの巣はそもそも巣の材料から違っていた。つばめさんたちのお家を潰さずにすんで、ほっと胸を撫で下ろす暁治のそばで、

「まったく、……」

 朱嶺は彼に聞こえないほど小さな声で呟くと、そっと目をそらした。