次候*土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)
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 梅雨が明けると夏到来。土が潤うと言えば聞こえがいいが、連日暑い日が続いて蒸し暑さにバテてしまいそうになる。そんな中、暁治は朝から縁側でせっせと梅を網カゴに並べていた。
 晴れの日があと一週間は続くとあって、ひと月ほど漬けた梅を干そうというところだ。初めての梅干し作りなので、わからないところは崎山の婆さんに聞いてメモを取った。

 三日三晩、外に干しておくのかと思ったが、一日は日中天日で干して、一度容器に戻しからあと二日ほど外に干して置くのがいいと聞いた。この地域の天気では、三日も外で干すとカラカラになってしまうそうだ。

 梅雨明け時期に干すことを土用干しというらしく、梅干し作りと言えばこの頃らしい。確かにここ数日、近所の庭でも梅干しを干しているのを見かけた。この辺りでは梅干しは買うものではなく作るのが主流なのだとか。
 店で出回っているのも手作り梅干しがほとんどだ。

「ジュース用に一キロ、梅酒用に一キロ、梅干しに三キロは多いかと思ったけど。梅干しは三年くらい漬けてもいいって言う話だし。毎年たくさん漬けるのがいいかもしれないな」

 納屋から取り出して綺麗にした大きな網カゴにはびっしり梅、梅、梅。並べても並べてもなかなか終わらない。しかし梅酢のいい香りが漂って、それだけで食欲を刺激される。

「お昼頃に一度ひっくり返せばいいんだよな」

「暁治、今度はマタタビ酒も作って欲しいにゃ」

「マタタビかぁ。それもいいな」

 暁治の向かいで手伝いをするキイチは、ひょいひょいと手慣れた様子で梅を並べていく。祖母が梅干し作りをしていたのをよく見ていたそうだ。暁治の並べる数の倍くらいが列になっている。

「来年、……来年の夏も俺はここにいるのかな」

 のんびり梅を並べながらぼんやりと青い空を見上げて、ふと暁治は来年のことを考えた。
 思い立ってなんの計画もなくやって来たこの町に、随分と馴染み始めた。気づけばもう半年が過ぎている。この町での生活にも慣れて、学校にも慣れて、この町の人とも親しくなれた。

 ここで年を重ねていくのだろうか。そんなことを考えて暁治は不思議な気持ちになる。慌ただしい都会の水は性に合わなかったが、ここまで田舎の暮らしに馴染むとも思っていなかった。
 しかし一人で暮らしていたら、ここまでこの町に溶け込むことはなかっただろう。いまこうして人の輪の中にいられるのは、暁治の手を引いてくれた者たちがいるからだ。

「あきはるぅ、街に帰っちゃうのか? おれたちとずっと暮らすんじゃにゃいのか? じいちゃんの跡を継ぐんだって思ってたのに」

 手を止めていたら、向かいにいたキイチがいつの間にか横に座っていた。カリカリと長い爪で腕を引っかかれて我に返る。振り向くとしょぼんと眉尻を下げた顔があった。

「え? じいちゃんの跡を継ぐって、この家?」

「それもあるけど、管理人の管理人にゃ!」

「管理人……鷹野も言ってたけど、それってなんだ?」

「んー、簡単に言うと、人間とあやかしの橋渡しをする係にゃ。あやかしが人間の中でちゃんと暮らしているか、それを管理する役にゃ。おれや朱嶺や優真がそれにゃ」

「石蕗も? 妖怪だけがその役に就くわけじゃないんだな」

「優真は稲荷神社の跡取りで、人間の中でも霊力はピカイチにゃ! ほかの妖怪に引けを取らないのにゃ。管理人は世代交代をするのにゃけど、いまの俺たちは新しい管理人にゃ」

 ちょいちょいと梅干しを並べながら、キイチは梅干しピラミッドを作っていく。天辺にいるのは土地神様で、その下に天狗や妖狐、ほかの妖怪が続いていくそうだ。
 人の好さそうな河太郎は河童の神様で、意外と地位が高いところにいる。いつも気安く付き合っているが、もっと敬わなくてはいけないなと考えさせられた。

「いいのにゃ、ここに来るほとんどの妖怪は人間が好きにゃ。友人だと思って付き合うと喜ぶのにゃ」

「そういうのはどこで学ぶんだ? 鷹野みたいにお師匠さんから?」

「そうにゃ! キイチのお師さんはぽんぽこ師匠にゃ。人に化けるのが得意なのにゃ」

「ぽん、ぽこ? えっと、んー、あっ、狸か。なるほど変化の術もそこから来てるのか」

 狸が化けるのは昔語りの世界だけではないのかとしみじみとする。祖父に寝物語を聞かされていた頃は、そんな世界があったら楽しそうだと思っていたが、大人になるにつれ作り話と思い込んでいた。

 けれど油断して尻尾や耳が出てくるキイチを傍で見ていると、夢や幻の世界ではないのだなと思わされる。暁治は非現実なことは受け入れないタイプではあるが、目の前にあるものを否定するほど意固地ではない。
 人とあやかし――いつでも隣り合わせにある存在なのだと、彼らに教えられる。

「あ、桃、いいタイミングだな。ありがとう」

 梅干し用の物干し竿に網カゴを引っかけて、ひと息ついた頃に桃が盆にグラスを載せてやってくる。シュワシュワと音を立てるソーダに、ほぐれた梅と梅シロップ。
 かき混ぜ棒で軽く混ぜれば甘い梅ソーダのできあがりだ。朝から存分に暑いので、冷えたソーダは心地いい。ごくごくと喉を鳴らして飲むと、口の中がさっぱりとする。

「そういや最近の桃は浴衣なんだな」

 夏になって衣替えなのか。いつの間にか白い着物から夏らしい浴衣姿になっていた。日によって柄や色も違い、朝顔やひまわり、ほおずきに花火、今日は白地に手鞠模様があしらわれている。
 赤とピンクを基調とした色合いは可愛らしく、差し色にした黄色が鮮やかで目を惹く。お人形のように愛らしい桃にとてもよく似合っている。

 くるりと回るとふんわりと結ばれたへご帯が揺れてまた可愛い。桃は男ばかりの所帯に咲く一輪の花だ。今度かんざしでも買ってやろうか、なんてことまで考える。
 女の子を着飾ってやりたくなるのは男親の心理というやつかもしれない。そんなこと思い、うんうんと頷く暁治に桃は小さく首を傾げた。

「うわぁ、梅干し圧巻!」

 さて次は昼飯の支度だ、と暁治が立ち上がった頃。庭の入り口から声が聞こえた。振り向くと青藤色の涼しげな浴衣を着た朱嶺がいる。こちらも着物から衣替えだ。

「暁治、おれも浴衣が着たいにゃ」

「えっ? 浴衣? うちにあるかな?」

 この家の子供は母一人だったので、女の子の着物はあるかもしれないが、男の子の着物があるかは疑問だ。しかし考え込む暁治に、桃がちょんちょんと気を引くようにズボンの端を掴む。

「ん? もしかしてあるのか?」

 視線を落とせばこくこくと小さく頷く。手を握られてついていけば、仏間の観音開きのタンスを指さした。それを開いてみると、細かい段に分かれた引き出しがある。
 それを一段一段覗いていけば、たとう紙に包まれた着物がいくつも入っていた。桃が指を三本立てるので三段目から何枚か取り出して、畳の上で広げてみる。すると渋い鶯茶色と黒紅色の浴衣が出てきた。

「もしかしてじいちゃんの浴衣かな? でもじいちゃん背が高かったからな。キイチじゃ大きいかもしれない。え? こっち?」

 もう一枚をたぐり寄せた桃はまた小さく頷く。その中身は浅葱色の鮮やかな浴衣だった。広げてみるとほかの二枚より丈が幾分短い。

「子供の頃の浴衣かな? 保存がいいな。生地が全然傷んでない。これならキイチでも着られるか」

「着付けてあげようか?」

 わくわくと瞳を輝かせるキイチの後ろで、様子を見ていた朱嶺が覗き込んでくる。そういえば着付けたことがないと暁治が言えば、やっぱりと笑った。

「これから着る機会もあるだろうから覚えるといいよ。キイチのはちょっと長いからこう、腰でたくし上げて、こんな感じ」

 キイチの着付けをする朱嶺の手順を真似て、暁治も黒紅色の浴衣を着付ける。丈は丁度良くて、祖父とそれほど背丈が変わらなくなっていたことに気づいた。
 昔は背が高い祖父を見上げていたものだが、年を重ねたのだなと感じる。

「わぁー! 夏っぽいにゃ!」

「よぉし、夏っぽく水菓子を食べて涼もう! はるぅ、扇風機持ってきて!」

 パタパタと縁側に駆けていく二つの後ろ姿は、暁治の中で昔の思い出と重なった。幼馴染みの少年と幼かった頃の自分。色褪せていた記憶が急に色がついたような感覚になった。

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