末候*水始涸(みずはじめてかる)
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 休日の朝に早起きをすることが、随分と暁治の中で定着してきた。朝のラジオ体操に、一週間分の掃除、洗濯。早く起きなければ、自分の時間が取れない。もはや早く起きるのは必然と言っていい。
 今日は以前、米を分けてくれた先輩教師の田中の実家で、稲刈りだ。大きな田んぼはコンバインで一掃するが、頼まれたのは個人用とのこと。

 ひんやりとした風が吹き抜ける田園で、大きく伸びをしてから、暁治はどこか色の薄くなった青空を見上げた。それは夏の陽射しとはまるきり違う。
 秋雨という言葉もあるので、雨の多い季節でもあるが、今日は秋晴れという言葉がぴったりだ。

「はるー! 手が止まってるよ」

「大目に見ろよ。お前みたいに長生きしてないから、経験値がないんだよ」

 小さな田んぼと言っても、手刈りでの作業は骨が折れる。ずっと屈んだ体勢で、背中が折れ曲がったような気分にさせられた。
 田んぼの半分をさくさくと、手慣れた手つきで刈った稲で埋めていく、朱嶺の背中がいつの間にか遠い。振り返った顔に、暁治の顔が苦々しくなる。

「早く終わらせないと、お日様のでているうちに終わらないよ」

「え、もうだいぶ終わっただろう」

 田中の話ではこの田んぼは一ヘクタール。百メートル四方の大きさだとか。それを朱嶺が半分、暁治が残った半分のさらに三分の一。残りはあとひと息だ。けれど首を傾げた暁治に、肩をすくめた朱嶺が息をつく。

「まだこれからだよ。刈ったのをまとめて天日干ししなくちゃ」

「先は長いな」

「お礼にお米をもらえるんだから、頑張らないと」

「消費するのお前たちだろう」

 今度は暁治が息をつく。そしてエンゲル係数のトップに立っている男の背中を、のんびり追いかけた。残りの三分の二も、やってもらおうという魂胆だ。
 まだ二十代半ば、歳だとは思いたくないが、底なしの規格外たちに比べればまだまだ若い。ため息交じりに、そんなことを思いつつ、暁治はかなり馴染んできた鎌を稲の根元へ下ろす。

 それから陽射しが高くなった頃に、稲を束ねて稲架というものに干した。稲も束になるとなかなかの重さ。腰を曲げっぱなしの稲刈りから、上がり下がりの重労働。
 明日は腰痛になってもおかしくない。こうなると仕事のあとのご飯は美味いものだ。

「暁治ー! ご飯にゃ!」

「おお、そっちは終わったのか?」

「ばっちりにゃ」

 ようやく一段落したところで、大きな田んぼのほうで手伝っていた、キイチがやってくる。彼の両手には大きな風呂敷包みの重箱。今朝、暁治が起きる前から、居候二人で作っていたものだ。
 田んぼの脇、空き地にレジャーシートを敷いて、重箱を開く。中身はおむすびにサンドイッチ。唐揚げに、きんぴら、卵焼きにポテトサラダなどなど。男所帯に倣ってどれも大盛りだ。

 最近の二人は張り合っているのか、料理の腕をめきめきと上げている。元々キイチはそれなりに作れる方で、朱嶺は肉じゃがオンリーだったのに、レシピが増えた。
 朝や晩に二人で交互に作っているので、暁治はかなり楽をしている。

「暁治、からあげ」

「ん、これはキイチか?」

「そうにゃ」

 左隣に座ったキイチが、一口大ほどの唐揚げを差し出してきた。促されるままに、暁治はそれをぱくりと口に含む。すると口の中に、じゅわっと肉汁と旨味が広がった。
 もも肉はぷりぷりで柔らかく、衣もサクサクでかなり美味い。

「はる、こっちもあーん」

「ん? ああ、うん」

 今度は右隣の朱嶺にサンドイッチを差し出された。レタスとハムが挟まったそれを口にすると、マスタードがツンとする。少しばかり塗った量が多いようだ。しかし許容範囲だったので、そのまま一つ完食した。
 だがさらに右と左から、次々におかずを向けられて、自分で摘まむ暇がない。

「待て、お前たち。ちょっとゆっくり飯を食わせろ」

 両方から箸を向けられ、さすがに暁治はそれから後ずさる。二人揃って首を傾げられるが、シートの上に置いた皿に指を向けた。

「俺はいいから、食え」

「ええー、僕の手ずから」

「駄烏より、おれのを食べるにゃ」

「二つもいっぺんに食えるか!」

 横からおむすびと卵焼きを、口元にぐいぐいと寄せられる。とっさに彼らの手を掴んだ暁治は、二人の口元にそれらを押しつけた。

「おやおや、両手に花ですな。猫屋、麦茶を忘れてるぞ」

「全然、花じゃないですよ!」

 ふいに聞こえた声に顔を上げると、にこにことした田中が、ポットを手にやってくる。傍まで来た彼は、ポットと紙コップを暁治の前へ置いた。

「噂には聞いてましたが、ほんとに三人仲良しで」

「噂ってなんですか?」

「宮古先生を巡って朱嶺と猫屋が火花を散らしてるってね」

「それって」

「学校中の噂ですな。いやはや、田舎ですから」

 はっはっは、と笑う田中と裏腹に、暁治の顔はじわじわと熱を帯びてくる。それでなくとも美術部員に、賭けの対象にされているというのに。
 それが校内で噂になっているということだ。

「微塵も事実じゃないです!」

「えー! はる酷い」

「おれの愛が伝わってないのか!」

「まだ、ってところですな。自分は朱嶺に賭けてます」

「田中先生まで!」

「はっはっは、午後は草刈りお願いしますね。夕飯はちらし寿司だと家内が言ってましたよ」

 またまた笑い声を上げた田中は、言及を避けるようにそそくさと、来た道を戻っていってしまった。ついでにまた、仕事を押しつけられた気もするけれど、それどころではない。
 両側からの視線が痛い。

 とはいえキイチはまだ幼い印象で、弟のような気がする。朱嶺は無邪気な感じがあって、子供っぽくて。少し意識はしているようだが、まだまだ恋愛に発展していない。
 けれど以前からの疑問はあった。ふとした瞬間大人びた顔をする。それが本当の素顔なのか、時とともに子供っぽくなったのか。

 初めて会った時はいまより大人の姿で、祖父に紹介された時は、さほど年の変わらない子供の姿だった。三百年も生きていたら、やはり伸び縮みするのかと、変な納得の仕方になる。
 こうして傍にいると知りたいことが増えていく。石蕗に言わせたら、意識した瞬間から恋ですよ、なんて言われそうである。

「はる? どうしたの?」

「いや、なんでもない」

「なんでもないってことはないよね」

「なんでもないって」

 くすくすと笑う朱嶺に暁治はついムキになった。けれど嫌な顔をもせず、彼はやんわりと目を細める。その見透かすようなまなざしが少し癪に障った。

「はるって子供の頃から変わってないね」

「成長がないって言いたいのか?」

「違う違う。なにか言いたいのに、言えない時の癖。変わらないなぁって」

「え?」

 訝しげに首を傾げれば、笑みを深くして朱嶺は自分の腕を指さす。それにつられて視線を向けると、暁治の指先が彼の袖を摘まんでいた。無意識のその行動に気づいて、ぱっと手を離したが、いまさら誤魔化しもできないだろう。

「はるってば、可愛い」

「う、うるさい! 俺はいつまでも子供じゃないぞ。記憶の中の俺と一緒にするな」

「大人のはるも十分素敵だよ」

「取って付けたような言い方……っ」

 文句を言おうとした口がふいに塞がれた。あっという間に近づいてきた、朱嶺を止める余裕がなかった。驚いて固まっていると、ちゅっと小さな音を立てて、唇が離れていく。
 柔らかなその感触。触れたのは初めてなはずなのに、どこか既視感がある。

「ああっ! おれの暁治になにするにゃー!」

 横からキイチに抱きつかれつつも、暁治は昔の記憶を掘り起こそうとした。しかし出来事が昔過ぎて、どうしても思い出せない。けれど触れた感触だけが、はっきりと残っている。
 自分のファーストキスが、得意そうに笑っている、この男かもしれないという事実に気が遠くなった。 

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