第十二節気 大暑

初候*桐始結花(たかすなわちわざをなす)

 七月の半ばを過ぎて夏休みが目前となった。体育館に整列する生徒たちの気持ちが、そわそわと浮き立っているのがわかる。
 かくいう暁治も長い休みを楽しみにしていた。休みの大半を部活動に費やすとしても、常に学校にいなくてはならない教師とは違い時間に余裕がある。

 副担任になったクラスの管理は任されていたが、休みのあいだは電話連絡で済むことが多い。そうなると元の担任である近藤の出番だ。

「であるからにして、明日からの夏休みは十分に」

 少しエアコンの効きが悪い蒸し暑い体育館で、長話を聞きながら暁治は込み上がるあくびを噛みしめた。校長はおっとりした優しい人ではあるのだが、話が長いのが玉に瑕だ。しかしその場面を二つ隣にいる品川に目撃されて、途端にばつが悪い表情に変わる。

「いい感じに力が抜けてきましたね」

「……先ほどはすみません。つい」

 終業式が終わるとぽんぽんと、優しく背中を叩かれて暁治は思わず飛び上がった。とっさに頭を下げれば、いい調子ですよと笑われる。
 四月から始まった学校生活も三ヶ月を過ぎた。人間が油断し始めるのも三ヶ月を過ぎた頃だと、誰かが言っていたような言わないような。しかし生徒の後ろで並んで歩く品川は、いつものように穏やかな顔で笑っている。

「毎日が賑やかだと楽しいですけど、なにかと気疲れもしますよね」

「え?」

「最近はあの家が、辻森先生がいらした頃のようだと、皆さん口々に言っています。訪ねてくる方が多いのではありませんか?」

「あ、あー、ええ、まあ。毎日入れ替わり立ち替わり」

 引っ越してすぐ朱嶺が現れてからずっと、賑やかではあったが、これまでに増して宮古家は人の出入りが増えた。みんな口を揃えて近所だ近所だと言うけれど、どの辺りに住むご近所だろうかと不思議に思う。

「今夜も賑やかかもしれませんね」

「え?」

「待ち人がいらっしゃいますよ」

 ふふっと楽しげに笑みをこぼした品川の視線が、窓の向こうを見た。なにげない気持ちで振り返ると、校門の傍に大きな影が見える。だが目をこらすけれど、そこになにがいるのかよくわからない。
 人らしき影はゆらゆら陽炎のように揺れて見えた。

「なんだかぼやけて見えるな。かすみ目か? それとも」

 人と人ではないものの狭間がそこにあるのだろうか。彼らは誰の目にも等しく映っているように思えるが、時として人の目に映らないこともあるという。
 恥ずかしがり屋が多いからね――昔、祖父が笑って語ってくれた話を思い出す。人の目に触れたくない時は、見えないように姿をくらますのだと。

「……そんな恥ずかしがり屋、いたかな?」

 これまでの面々を振り返った暁治の頭に疑問符が浮かんだ。恥ずかしがり屋どころか、自己主張が激しい者たちばかりだ。しかしふいに教室から呼び声が響いて、現実に向き直る。
 まずは目の前にあるものと対峙するのが先決だ。いまの暁治に課せられた使命は、無事に終業式の日を終わらせることだ。

「夏休みが明けちゃったら、宮古先生が担任じゃなくなるの?」

「厳つい近藤先生より、宮古先生は和み系で良かったのに」

「イケメンが見られなくなるのざんねーん」

「こら、お喋りばかりしてないで話を聞きなさい。ええっと、次、佐藤」

 騒がしいホームルームもようやくこれでおしまい、と考えているのは暁治だけだったようだ。通信簿を取りにやってくるたびに話しかけられて、なかなか最後までたどり着かない。
 全員に配り終わり、締めの挨拶をする頃にはほかのクラスの生徒は下校し始めていた。それでもなかなか帰ろうとしないクラスの生徒たちに、家でも学校でも変わらないな、という気持ちにさせられた。

「……もう午後じゃないか」

 最後の生徒を見送り職員室に戻った頃には、もうすでにほとんどの先生が揃っていた。生徒たちに懐かれているのを羨ましがる先生もいれば、ご苦労様とねぎらってくれる先生もいる。
 今日は部活がないのでこのまま慰労会、という話の流れになったが、ふと校門の待ち人を思い出した。待っている人がいると言えば、ああと納得する人と不思議そうな顔をする人がいる。
 彼らの存在に気づく人と気づかない人がいるのだ。

「待ち人、待ち人。……誰だろう」

 朱嶺やキイチは殊勝に待っているだなんてことはしない。用があれば真っ先に飛んでくる。今日は姿が見えないので、終業式が面倒でサボっているに違いない。それでも二人がいないことを訝しむ人はいなかった。
 朱嶺などは姿を隠す、ではなく存在が消える瞬間がある。それは人の理からはみ出した存在であることを顕著に感じさせる。本当ならば人として籍がない彼は、朱嶺悟としてここに存在していないのだ。それはキイチも同じこと。

 いないことが正常で、存在することが異質となる。なにかの力が働いて、異物を正しいと認識させている状況とでも言うのか。難しいことは暁治にはよくわからないが、彼らが持つなにかの力が働いているのだろうということくらいはわかる。
 ふいに現れたり姿を消したり、彼らは自然なようで不自然な存在だ。それでもそうして人の中でいままで暮らしてきた。時にご近所さん、時に訪問客として。

「管理人、ってなにか聞きそびれたな」

「はる殿」

「……っ! うわっ、びっくりした!」

 考えごとをして歩いていると、ふいに真横から声をかけられて大げさなほど肩が跳ね上がる。ふっと突然感じられた気配に、暁治の心臓がバクバクと音を立てた。
 声の先を振り返ると最近覚えた顔がある。年の頃はキイチと同じくらいか。ぼさっとした黒髪に、そこから覗く眼光鋭い瞳。先日会った時は山伏の装束を着ていたが、いまは烏羽色の着物を着ていた。

「待ち人って、……鷹野、か」

「遅いでござる。童たちはもうみんな帰っているのに」

「悪い悪い。今日はどうしたんだ? 格好もいつもと違うし。あ、仕事が決まったのか?」

「……まだ、でござる。いまは仮の雇われの身。これを届けに参った」

「え、これ? ……これって、これ?」

 むむっと難しい顔をしたかと思えば、朱嶺の弟弟子こと鷹野は、背後にあるものを指さした。こんなところまでなにを、と思って目を向ければ荷車の上に大きなおひつが三つ。

「向山の勝兵衛殿にこれを処分して欲しいと頼まれたのでござる。したが、こんなに立派なひつはいまでは手に入りませぬ。ならば毎日米が米がと騒いでいるはる殿にぴったりではと」

「いや、まあ、それはお前たちが」

 臨時収入で買った一升炊きの炊飯器は大活躍だ。来客が多くてフル活躍だ。しかし荷車のおひつも相当大きい。一つが一升入る大きさのように思える。それが、三つも。

「桐でできたひつは高級品。調湿性も保湿性も抜群ですぞ。美味い飯が美味いまま」

「んー、まあ、この際いいか。それは、俺が運ぶの?」

「拙僧の仕事はこのひつの行き先を定めることでござる」

「……良かった。じゃ、じゃあ、帰るか」

 しかし――ガラガラと大きな荷車を引く姿は人の目を引く。荷車自体も時代劇に出てきそうな木製の車だ。
 これではバスにも乗れないなと思っていたら、そんな足では日が暮れると呆れられた。それは誰のせいだと言いかけたけれど、鷹野はいつぞや見た提灯と似たものを取り出した。

 それに明かりを灯して、荷車に引っかける。そしてガラガラとまた音を立てて進めば、空気の流れが変わった。

「こうも不思議なことが現実と隣り合わせだと、少し麻痺するな」

 やけに静かな道を二人並んで歩く。
 いつもはそんな非現実的な――と暁治は軽く受け流してしまうのだが、頷かずにはいられない現実もある。それを助長するように、祖父がいた頃のようだとみんなが懐かしげに目を細めた。

 その向こうにある世界は、どれほどまばゆい世界だったのか。いまでもこれほどに明るい世界なのに。

「桐が、花を結んでおりますな」

「花を結ぶ?」

 ぽつりと呟かれた声に、暁治はぼんやりしていた思考のまま顔を持ち上げる。するとふっと空の色が眩しくなり、吹き抜ける風の温度と耳をかすめる荷車の音が感じられた。
 日の光に目をすがめて、見上げた先には背の高い木。その天辺では来年花を広げる蕾が膨らんでいた。