そこそこ長い人生、生きてきてあんなに驚いたことはなかったのではと、ロディアスは振り返るたび思う。
始まりはいつもと変わらない時間を過ごしていた日の午後。
執務の合間にティータイムを過ごしていた時だった。
ロディアスが治めるハンスレット大公領には大きな港があり、毎日様々な者たちが出入りしている。
街に人が多ければ栄えるが、問題ごともそれなりに多い。
多方から上がってくる要望や陳述書に目を通し、大公領直属の海軍統括まで行う。
さすがに雑務に至るすべてではないものの、ロディアスがこなす仕事は多岐にわたった。
それゆえほんのひとときの休息は、ロディアスにとって誰にも邪魔をされたくない時間。
しかし家令であるシュバルゴの淹れた、果実入りのお茶を飲み、ふぅと息をついたのと同時だ。
少々せわしなく執務室の扉がノックされ、ロディアスはシュバルゴと顔を見合わせた。
やって来たのは屋敷のフットマンで、普段は冷静で落ち着きのある青年なのだが、珍しく慌てた様子を見せた。
多少のことでは動じない彼の顔を見るだけで、めったにないなにかが起こったのは明白だ。
「シュバルゴ? 来客か?」
応対しているシュバルゴの白い眉もひそめられ、ロディアスは思わず声をかける。
わずか前、彼が窓の外を気にしていたのは知っていた。
けれどこの屋敷に執事は三人ほどいる。
家令であるシュバルゴがいちいち階下へ降りていく必要はない。彼はロディアスの侍従も兼ねているため、基本主が優先なのだ。
「王都からの使者です」
「タウンハウスでなにかあったか?」
「申し訳ございません。私としたことが、言葉が足りませんでした。王宮より使者が来ているようです」
「……王宮、か。それなら俺が対応しなくてはいけないな」
シュバルゴの返事を聞き、ロディアスの眉間にしわが寄る。
王宮――その響きだけで嫌な感情が胸の奥からせり上がってきた。思えば忌避して、二十年ほど王都へ赴いていない。
もちろん理由がある。
だがいまは、建前でも王宮から来たという使者を待たせるわけにはいかないだろう。
無意識に出たため息を飲み込むことはせず、ロディアスはしぶしぶと立ち上がる。
そして捲り上げていた袖を直し、シュバルゴが手にしたジャケットへ腕を通した。
主人の乱れた赤髪をシュバルゴが整えているあいだに、ロディアスは自身で窮屈なタイを結ぶ。
「国王から直々の書状? ますますいい気分がしないな」
使者がいるという玄関ホールへ向かう道すがら、軽く話を聞いて、ロディアスは肩をすくめた。
ハンスレット大公領があるのはレイオンテール王国。
内外に海があり、水の王国と呼ばれている、それなりに歴史の深い国だ。
この世界には人族、獣人族、精霊族、神族が存在する。
中でも精霊族と神族は崇拝されるほど大きな力を持っており、ほかの種族よりも一目置かれる存在だった。
レイオンテールの始祖は人族で、精霊族を伴侶としたと伝承されているため、王家は自らを精霊の系譜だと言い張っている。
ロディアスから見れば、水の魔法を平民より多少操れるくらいでなにを、と言える程度だが。
なぜならロディアスは精霊族を間近で見たことがあるゆえ、彼らがいかに自分たちと違う存在なのか知っている。
くだらない話だと思いつつ、ふとロディアスは片手で右目を覆った。
(人族より格の高い精霊族は、あんなに俗物じゃない)
毒づきながら細められた、ロディアスの瞳は鮮やかな海色。
しかし右目は濁った青灰色だった。元は左目と同じ色だったのだが、戦で負傷し、色と光を失った。
王家の存在を思い出すと、古傷が痛み、ロディアスは憂鬱になる。
「また戦でも起こすつもりだろうか」
「昨今、そういった話は聞こえてきておりませんが」
「そうだな。いっとき暴政だと騒がれたが、いまは大人しくしているようだし」
一歩後ろに控えるシュバルゴの言葉に、ロディアスは素直に頷いた。とはいえ戦以外でハンスレットに声がかかるなど、ロディアスはとんと覚えがない。
ハンスレット大公領は外側の大海に面しており、国を守護する立場にある。
戦だと言われれば、一番に軍を動かさなければいけない。
元を辿れば大公家と王家は交わる血筋だが、起源からあまり仲がよくないと聞く。
かねてより前線に大公領を置き、壁とするくらいだ。そしていまも然りなので、宿命の悪縁なのかもしれない。
「申し訳ない。待たせた」
玄関ホールに続く階段を下りて、ロディアスが使者の一行へ声をかければ、わずかにピリッとした緊張感が漂う。
いまは現役を退いたが、以前は一線で軍を率いていたロディアスには貫禄がある。
右目に走る古傷が余計に厳めしく見えるのだろうか。
玄関ホールにいる十数人の使者。その先頭に立っていた一人は、視線が合うとぴしりと背筋を伸ばした。
「ロディアス・ハンスレット大公閣下へ、国王陛下より書状を預かりました。勅命ゆえ、書面の内容を断ることは許されぬ、と言い付かっております」
「…………」
わざわざ前置きをしてくるあたり、ロディアスが嫌がる内容なのだろう。
現在の国王・ルディルとは非常に相性が悪い。
ロディアスが王都へ赴かなくなった発端が彼にある。
今年、三十八歳になったロディアスとルディルは同い年だ。
王家と大公家――近しい者同士ゆえか、勝手に敵愾心を持たれて、軍役の頃は非常に面倒であった。
思い起こすのも億劫なほどだ。
ロディアスが仕方なしに、緊張した面持ちの使者に頷き返せば、彼は背後から渡された巻物を解いて、しかと内容を読み上げた。
『来る春。マフィニー王子殿下の生誕を祝う宴を催す。ハンスレッド大公本人が祝い場へ訪れるよう――二十年ぶりの再会を待ちわびる』
(どの面下げて待ちわびる、だよ。春までひと月ほどしかないだろうが。ここをどこだと思っているんだ)
王都から遠く離れた大公領。
明日からでも準備をしなければ間に合わないだろう。
(……マフィニーってことは、第二王子か。あまり噂を聞かないな。なぜわざわざ俺が、誕生祝いなんぞに顔を出さなくちゃいけないんだ)
心の中で悪態をつきながらも、ロディアスは鷹揚に頷き、快く勅命を受けたふりをする。
シュバルゴから手渡された書状には確かに、いま読み上げた内容と国印が記されていた。
「ところで今回は随分と大仰な様子。これ以上になにか特別な用があるのだろうか」
確認した書状を丸め、ぽんぽんとそれで手を打つロディアスは、紙一枚、運ぶだけの使者にしては大規模な団体に視線を向けた。
本来なら応接の間へ通すだろう使者が、玄関ホールにいると聞いた時からおかしいと思っていたのだ。
ロディアスの視線が使者団を見回すと、彼らのあいだに動揺の空気が拡がる。
「こっ、此度の一団には、実は……」
「実は?」
先ほどまでぴんと背筋が伸びていた使者の、しどろもどろな様子に、ロディアスは訝しげに目を細めた。
書状のほかに、なにか厄介ごとを持ち込んだのでは、と口を開きかけた瞬間――
団体の中から一人、背の高い人物が一歩前へ足を踏み出した。
反射的に身構えるロディアスと、その場にいたハンスレット家の面々だが、彼が突如発した言葉で気を削がれる。
「父上!」
「は?」
弾んだような、浮かれたような声は若い青年のものだ。
深くローブを被っていた人物が、足早に自身へ近づいてくるのがわかり、呆気にとられていたロディアスは再び警戒をした。
しかしはらりとフードが後ろへ落ち、姿があらわになると身動きができなくなる。
美しい金糸の髪。宝石の如く輝く緑色の瞳。
それは王家直系の者に表れる容姿の特徴だ。
けれどそれ以上にロディアスの目を奪ったのは、青年のまばゆいばかりの容貌だった。
「アウローラ?」
ぽつんとロディアスの口からこぼれた名は、かつての恋人の名前。
そしてレイオンテール国・現王妃の名前でもあった。
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