新しい馬車に乗り換え、王宮近くにある離宮へ。
ここは一般に貸し出されている離宮とは違い、王家が主催する舞踏会でのみ使用される。
薄く開いたカーテンの隙間から、続々と馬車が離宮の門へ吸い込まれていくのが見えた。
ほとんどが家門をつけていない馬車だ。
お忍びで遊びに来る貴族が多い。中には爵位持ちではない富裕層の平民もいるだろう。
仮面舞踏会は催されるあまたの舞踏会の中では特殊。
一度会場へ入ったら、相手に素性を訊ねるなど無粋であり、マナー違反。
日常を忘れ、別人になったつもりで楽しむ夜会だ。
とはいえそれも表向きで、色々な階層の人物が集まるゆえに、ひっそりとした逢い引きや密談に使われたりもする。
ロディアスやリュミザだけではなく、すれ違う者も姿を変えている可能性すらある場所。
煌びやかな世界には光と闇があるのだ。
「盛況だな。いつもこれくらいなのか?」
会場に足を踏み入れれば、音楽とともに人のざわめきが拡がる。
さほど遅い時間でもないのに、十分すぎるほど賑わっていた。
「そうですね。でもいつもより他国の人間が多いかも」
「言葉か?」
「ええ、共通語ではない人も多いです」
扇で口元を隠しながら、リュミザがロディアスに囁く。
令嬢の扇は、口を開けている姿を見られないようにするのが大きな目的だが、リュミザの場合は他人に唇を読まれないためだろう。
どうやらこうして女装をして紛れ込むのも一度や二度ではないとか。
元々リュミザの体型は中性的で、男性の格好をしているより目立たない。
しかし女装での潜入も今日までだろうとぼやいていた。
いよいよ体格が男性寄りになってきたのだという。いつもよりコルセットが苦しいと聞いて、人の器をしていてもやはり精霊族に近いのだなとロディアスは感心した。
「ロディー、なるべくグラスの飲み物には気をつけて」
「飲まないようにしたほうがいいのか?」
「勧められたら飲む振りでいいです」
「――なるほど。気をつけよう。今日の主な目的は?」
「そうですね。ロディー、ダンスは得意ですか?」
歩きながら話すよりも、ダンスの輪に入ったほうが密着しやすい。暗に言いたいことを察し、ロディアスはリュミザに向き直り、彼の手の甲へ唇を落とした。
「レディー、ダンスにお誘いしてよろしいですか?」
「喜んで」
にっこりと微笑んだリュミザは大輪の花のように艶やかだ。
わずかに周囲の気配が揺らいだのに気づき、ロディアスは無意識に牽制してしまった。
驚いたリュミザに笑われ、魔力が漏れていたと知る。
「ロディーのその牽制は、どういう意味があるんでしょうね」
「庇護欲だ」
「ふぅん、そういうことにしておきましょうか」
面白くなさそうに唇を尖らせたリュミザだが、すぐに切り替え、先ほどの話を再開してくれる。
「今回は紹介状探しです」
「紹介状? またどこかへ?」
「ロディー、最近は新聞を読んでいますか?」
「ああ」
大衆向けに発行されている新聞は様々な情報で溢れている。
貴族はさほど目を通さないけれど、商売に関わる者の大半は新聞を購入しているだろう。
リュミザの問いに答えるため、ロディアスはここ最近の情報を頭で整理する。
(些細かつ、気になる内容としては)
「失踪か」
「私のロディーはとても優秀ですね」
ぽつんとこぼした言葉を聞き、リュミザは体を寄せて抱きついてきた。一瞬驚いて身を引きそうになったロディアスだが、曲が変わっていたのに気づいて体勢を変える。
「駆け落ちも珍しくはないですけど、詳しく調べてみると珍しい〝属性〟の令嬢が多いのです」
「優秀なほど大きな魔力持ちではないが、珍しい。招待状はかなり厄介な代物ではないか?」
ロディアスの頭に浮かんだ言葉は――〝人身売買〟だ。
いまでは廃れた風習だが、珍しい見た目、属性、敗戦者は奴隷として買われていた時代がある。
「少し前は珍しい宝石が盗まれたり、宝飾品を紛失したり、その程度だったんです」
「憶測が本当なら、売買される品目が目に余るな」
カルドラ公爵とて、すべての悪事に手を入れることはしていないだろう。世の中の循環として見過ごされる場合がある。それが現実だ。
だが国の民に手をかけられたとあっては、むざむざと手をこまねく真似はできない。
「リュミィ」
「なんですか?」
「あんたは囮なんてするなよ」
「え?」
「あんたが一番に動かされそうだ。……どうした?」
驚きの声を上げたあと、返事がないので俯くリュミザを見れば、耳が赤くなっている。なぜ、と疑問に思ったロディアスだが、すぐにリュミザが答えてくれた。
「心臓に矢が刺さった気分です」
「それは危険な状況じゃないか?」
「違いますよ。ロディーは野暮な人ですね。ときめいたんです。あなたがあまりに格好よくて」
「褒めてもなにも出ないぞ」
リュミザが「ふふっ」と表情をほころばせて笑うものだから、つい流された。
これは返事をはぐらかされたのだろう。
(カルドラ公爵とは師弟のような関係。命じられればいままでもリュミザは動いてきたに違いない。一度、カルドラ公爵とは話してみないと駄目だな)
「ロディーはダンス、久しぶりですよね? 元々お上手なんですね」
「練習なんて随分前の話だがな。あんたのリードが上手いから、俺が踊れるように見えているだろう」
「モテる男の台詞ですね。――もう少しロディーと、このまま時間を過ごしていたかったのですが、仕事をしなくてはいけないようです」
ため息交じりに目を伏せた、リュミザが視線を向けたほうへ目を向ければ、夜の正装をかっちり着こなした紳士が立っていた。
頬骨までかかる仮面で、人相はまったくわからない。
それでも立ち振る舞いが美しく、貴族ではと誰しも思うだろう。
ほんのわずか視線が合ったように感じたのは、彼の口元が「初めまして」と動いたからだ。
「リュミィ、俺にできることは?」
「私の帰りを待っていてください。浮気しないで」
「…………」
音楽が一瞬途切れ、するりとリュミザの手が離れていく。
独りになった彼のあとを、甘い蜜に群がる虫の如く、男たちが集まった。その後ろ姿が、ロディアスは面白くないと素直に感じる。
(俺にはなにもできることがないって意味じゃないか)
これまでも単独で動いてきたのだろうリュミザにとって、ロディアスはお荷物なのだ。
諜報の真似事はロディアスには向かない。だから余計、役立つためにはリュミザの傍を離れるのが得策。
華やかな女性たちが近づいてきても、先ほどまでこの世で一番好みの顔を見ていたところなので、浮かれる気分にもならない。
ダンスの輪を離れて、ロディアスは仮面の紳士の元へ向かう。
「ミスター、彼女をお借りしてしまい申し訳ない」
「……俺はあの子の番犬ではないからな」
傍まで行くと、グラスを差し出された。
酒精の入っていない炭酸の果実水だろう。しかしロディアスは渇いた喉を潤すことなく、グラスの中で揺れる赤い果実を眺めた。
「お嫌いでしたか?」
「いや、飲み物には気をつけろと言われたからな」
「ははっ、律儀な方ですね。大丈夫ですよ」
柔らかな低音の声。どこか、人を安心させる響きがある。
リュミザが艶やかな見た目で獲物を引き寄せ、仕留めるのであれば、こちらは懐――巣穴に引き込み、狩りをするに違いない。
顔立ちは見て取れない。肩先までのシルバーパープルの髪は艶やかだ。手袋をしているため、しわは確認できない。
けれど声のトーンや立ち振る舞いを見ていると、近しい年代だろうとロディアスは推測する。
「オオカミのように賢く鋭い瞳ですね。自己紹介が遅れました。私のことはライックとお呼びください」
「ふぅん。あんたがこれまでのパートナーか」
「ふふっ、嫉妬ですか?」
「――嫉妬だな」
冗談めかしたライックの言葉に、ロディアスが至極真面目な声音で返すと、彼は驚きで赤色の瞳を丸くした。
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