44.どうしても拭えない不安
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 朝目が覚めた時、光喜はひどく後悔するような気持ちに支配された。尊いと思えるくらい優しいあの人を汚してしまったような罪悪感。それでも昨夜のことを思い出すと顔が火照る。
 心の内が複雑になるくらい申し訳なさが募るものの、あの時に感じた高揚感と疼きは思い返すだけで欲が膨らみそうになった。けれど昼下がり、大学構内でそんな恥ずかしいことになるわけにはいかない。
 努めて冷静さを繕って深呼吸を繰り返し、ストローを刺したアイスカフェオレで熱が灯りそうになる身体を落ち着けた。

「また顔合わせた時に絶対気まずい。変な反応しちゃったらどうしよう」

 大きなため息を吐き出しながら、光喜はテーブルの上に置いていた携帯電話に手を伸ばす。そして画面に映し出された顔を見つめて眉間にしわを寄せる。けれど無駄に力んだ顔はすぐに緩んでしまった。
 あの日画面ギリギリで捉えたあの人の姿は切り取って編集したので、薄ぼんやりしているもののその顔はよく見える。しかし思わずそれを引き寄せて唇を押し当てたところで光喜は我に返った。

「駄目駄目! これ以上汚しちゃ駄目!」

 唇の跡が残った画面をゴシゴシとこすって、汚れが残っていないのを確認して息をつく。そして再びじっと見つめているとふいに携帯電話が震え始める。画面に表示された名前に無視をしたい、と言う気持ちがこみ上げてくるが、おそらくこの向こうにいる人物はそれを推し量ってくれないだろう。

「……もしもし」

「みーつーきっ! 昨日はどうだった? ちゃんと気持ち良くなれた?」

「さようなら」

「おいおい、待てこら。……んふふ、でもその反応ってことは、良かったんだぁ。後ろもちゃんとできた? 指は何本入った?」

 からかいが九割くらいであろう楽しげな晴の声に光喜は押し黙る。けれどしつこいくらいにどうだった? と聞かれて通話を切ろうと耳元から携帯電話を遠ざけた。しかしその寸前に急に大きな声を出される。

「なに?」

「そうそう、クマさんはなんの仕事してるの? 会社勤め?」

「……違う。自宅で仕事してる」

「そうなんだ! ならちょうどいいや、いまどこにいるの? 迎えに行くからさぁ、クマさんに会いに行こうぜ!」

「なんで!」

 あっけらかんと言い放つ晴の言葉に光喜は突っ込まずにいられない。ちょうどいいの意味がまったくわからないと文句を呟けば、あははっと軽い笑いで流された。

「俺がどんな感じか探り入れてやるよ。そんでほんとに気がありそうならうまいこと行くようにしてやるからさ」

「や、やだよ。晴は絶対に会わせたくない!」

「えー、別にクマさんをどうこうしようって話じゃないぜ」

「いやだ、だって」

「だってなに?」

 訝しげな声に言葉が詰まる。そして胸の辺りが締めつけられるように苦しくなった。小津の部屋で見つけてしまった写真、それと晴の容姿を思い浮かべて光喜は泣きそうな気分になる。
 素で口を開くと残念さは際立つものの、普段の猫を被っている晴ははにかんだ笑みを浮かべる美青年。身長はそこそこあるが、華奢な印象を与える身体つきと相まって守ってあげたくなる雰囲気がある。

「どうしたぁ?」

「……だってあの人、晴みたいなタイプが好きだから、会わせて気持ちがそれちゃったら、絶対に立ち直れない」

 震えて涙声になった光喜に晴は珍しく口を閉ざした。ぐずぐずと鼻を啜るとしばらく間が開いてからため息が吐き出される。そして小さく唸って、やけに優しく名前を呼ばれた。

「それならなおさらちょうどいいじゃん。俺に会ったくらいで気持ちが変わる相手なら、やめといたほうがいいよ。それでもまっすぐに気持ち向けてくれるなら信じてもいいだろ」

「やだ」

「馬鹿だな、そんなことで怖がってたら一生クマさんと付き合えないぞ」

「俺、あの人の好みに全然かすりもしない」

「あのなぁ、好みなんてものは指標みたいなもんだって。いまそれっぽい好意は感じてんだろ? 好みとか抜きにして光喜がいいなぁって思ってんなら、そっちのほうがかなりいい線行ってるってことだ」

 大丈夫、大丈夫となだめすかされて、不安になりながらも本当にそうであればいいのにと思わずにはいられなかった。瞬くたびこぼれ落ちる涙を拭い、光喜は小さく返事をした。

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