32.いままでとは違う恋心
座席は七割ほどが埋まっていた。空いた席を探しながら歩いているとふと小津が振り返る。足を止めた彼に光喜が小さく首を傾げれば、指先が横へ向けられた。つられるままに視線を向けた先にあったのはワゴンのショップ。そこではフードやドリンクを販売している。
「少し時間があるしなにか飲む?」
「うん、そうだね」
メニュー表を眺めて光喜がホットカフェオレを頼むと、小津はアイスコーヒーを頼み財布を開く。ここへ入る際のチケットを買う時にも財布を出した光喜に大丈夫だよと笑った。初めに会った時に飲み代をたかるような真似をしたからだろうか。そんなことを思ったが、こういう場合は素直に受け入れるほうがいいのだろうと光喜は黙って横顔を見つめる。
そしてカウンターに置かれたドリンクを受け取ると再び席を求めて二人は移動した。水槽に近い場所は水を被るので前列は避けたい。けれど正面に近い席は前列しか残っておらず、結局は右手側の後ろのほうで腰を落ち着けた。
時間が近づくと会場内にアナウンスが流れる。この時間は普段とは違うナイトショーらしく、照明が暗くなるようだ。それを聞いて光喜は少しだけほっとする。
水槽の中で泳ぐイルカをぼんやりと見ながらも隣にいる小津にそわそわとした。その顔を盗み見たいと思ってもいまはまだ場内は明るく、きっとすぐに気づかれてしまう。
いつもとは違う自分にもそわそわとした。触れたいのに触れられない。それは初めての経験だった。好きだと言えたら多分きっと楽になる。けれど自分からその言葉はどうしても告げられないと光喜は思っていた。
もしその想いが届かなかったら、もし拒絶されたら、立ち直れない気がした。
そんなことを悶々と考えているうちに照明が暗くなりショーが始まる。イルカたちが水槽の中でジャンプをするとライトはレインボーに変わった。音楽が流れキラキラとした光の中で水しぶきが上がる。現実を忘れさせてくれるその光景に気持ちが少し浮き上がった。
気を紛らわすように光喜は構えた携帯電話で動画を撮る。そうしているといつしか目の前のものに夢中になっていた。
「楽しかった?」
ショーは十五分程度だったが思った以上に満足感があった。場内が明るくなり、撮り終わった動画を保存していると顔をのぞき込まれる。それに光喜が慌てて視線を持ち上げればやんわりと微笑まれた。
「……う、うん。楽しかった。こう言うのってわくわくするよね」
思わずじっと目の前の表情を見つめてしまい、小さく首を傾げられて我に返る。少しばかりぎこちない笑みを返してしまったが、小津はただ優しく光喜を見つめていた。
初めて会った時からまっすぐに向けてくれるその眼差しが好きだな、と思うのと同じくらいに、それが光喜はどこか怖くもあった。上辺ばかり繕った大して中身もない自分。それを覗き見られそうで嫌だなと感じる。
「あっ、そろそろ行こっか。まだ見てないところもあるし」
「そうだね。じゃあ行こう」
落ち着きなく立ち上がった光喜を気にする様子もなく小津も立ち上がった。そしてふいに手を差し伸ばしてくる。突然目の前に向けられたその手の意味がわからなくて目を瞬かせると、左手を指さされた。
「それ、まだ中身入ってる?」
「あ、ああ、ううん。空だよ。ありがと」
問いかけられた言葉でようやく気づき、飲み干したカフェオレのカップを小津に手渡す。そして少し先を歩き始めた背中を見つめて光喜は思わず首をひねってしまう。いつもとどこか違う印象。それがなにかを考えてじっと彼の一挙一動を追いかける。そしてこれまで見てきた小津の態度と照らし合わせた。
「光喜くん、どうしたの?」
「な、なんでもない!」
足を止めてしまった光喜を振り返って再び首を傾げる小津は、いつもより落ち着いていた。二人だけで顔を合わせていると顔を真っ赤にしたり、あたふたとしたりすることが多かったのに。ここに着いてからずっとそんな素振りはまったくなかった。
立ち振る舞いはギクシャクするところもなくスマートで、まっすぐに光喜を見ている顔は恥ずかしがるようなこともない。それどころか、挙動不審なのは自分のほうだと気づいてしまう。改めて気づかされたその状況に光喜は頬を熱くした。