68.引き止める方法は
こんな風に小津から抱きしめられたのは初めてだ。そういう意味があっての状況ではないことはわかっていても、高鳴った胸が落ち着かない。どんどんと早くなっていく鼓動は耳元で鳴ってるみたいな錯覚をする。
それに気づかれたらと思うと恥ずかしくなって、光喜は身を引こうと身体に力を込めた。けれど小津は俯いた顔をのぞき込んでくる。
「光喜くん、大丈夫?」
「……う、ん」
「階段上れる?」
「も、もう平気。ごめん、小津さんまで車から降ろしちゃって」
「いいよ。部屋まで送るよ」
自分から離れようと思ったのに、相手から離れて行かれると寂しさを覚える。その複雑な感情に戸惑いながら、促されて光喜は階段を上った。時折つまずきそうになると手が伸びてきて片手を握ってくれる。それだけのことで気持ちがふわふわとした。
けれど扉の前に立ってからふと考える。このままでは部屋に入ったと同時に小津は帰ってしまうだろう。それは嫌だ、まだもう少し傍にいたい。なんとか引き止める術はないか。
「どうしたの?」
「な、なんでもない」
鍵を取り出したまま固まったように動かなくなった光喜に心配そうな顔が向けられる。その表情にとっさに笑みを返すけれど、ひどくぎこちない。ようやく鍵を差し込んで回すと光喜は重たいため息を吐き出した。
「光喜くん、平気?」
「んー、まあ」
扉を開くと光喜は乱雑に靴を脱いでよたよたと廊下を歩く。その背中をはらはらと見ている視線は感じるが、壁伝いにたどり着いた扉を開いた。そしてそこに入るとシャツを脱いで、Tシャツも脱ごうと身を屈める。しかし頭を下げたことでめまいがして、背後にある洗濯機にぶつかった。
ガタンと音が響き、しゃがみ込んでいるとしばらくして慌ただしい足音が近づいてくる。気配を感じて顔を持ち上げると、慌てた様子の小津と目が合った。
「光喜くん! そんなに酔ってるのに、お風呂は駄目だよ」
「えー、だって今日はかなり汗掻いたし、シャワーくらいはいいでしょ」
「いまみたいに倒れたらどうするの?」
「……じゃあ、ここで小津さんが見張ってて」
「え?」
のろのろと立ち上がった光喜は腕に絡まったTシャツを放りデニムを脱いだ。すらりと長い脚がさらされて、そこに視線が注がれるのを感じる。けれどすぐに我に返ったのか、小津は光喜に背を向けた。
その背中をじっと見つめたが、振り返りそうもないので諦めて光喜は下着を脱ぎ風呂場の戸を開く。そして浴室に明かりを灯してガチャンと音を立てて戸を閉めた。ゆるりとレバーに手を伸ばすと静かな空間に水音が響き始める。
頭から湯を被りながら光喜はずっと戸の向こうに意識を集中させていた。ザーザーと水が跳ねる音で気配など感じられるはずはないのに、小津の背中がまだそこにあるかどうかばかり気にする。
いまはなんとか足止めをすることができた。けれどどうやったらこの先、ここに繋ぎ止められるかを考えてしまう。
思いがけず小津の本音が聞けた。それは頑張ればまだ振り向いてもらえる可能性があると言うことだ。曖昧な態度で不安が募ったけれど、あの言葉を聞いたらもう怯えている場合じゃない。これは二度目のチャンス。逃すわけにはいかない。
「よし、男だろ、気張れ」
冷静になってくると酔いも少しずつ抜けていく。普段通りであればどんなに飲んでも光喜は潰れることがない。おそらく酒に負けたと言うよりも緊張し過ぎてすり減った神経にやられた、と言うところだろう。
自分の失態は痛いところだが、それが功を奏していまがある。深呼吸をすると光喜は両手で頬を叩いて気合いを入れ直した。
「小津さん?」
すっきりとした頭で光喜が風呂から上がると相変わらずそこはしんとしている。床に放ってあるデニムのポケットで光が点灯しているのに気づき、それに手を伸ばした。時刻を見ると思ったよりも時間が過ぎている。
メッセージは勝利からで、無事に帰り着いたかという内容だ。それに大丈夫、とスタンプで返して携帯電話を棚に置いた。バスタオルで水気を拭いてそれを腰に巻くとそろりと廊下を覗く。けれどそこに視線が留まるものはなにもない。
しかしふいに足元に気配を感じて目線を落とすと、胡座をかいて俯いている小津の姿があった。思いがけない近距離で光喜の肩が跳ね上がる。けれどそんな反応にその人は気づく様子はなかった。