54.引き裂かれるような胸の痛み
視線が合ったまま沈黙が続いた。それはひどく長く感じたけれど、おそらく数分も経っていない。そらすように光喜が目線を落とすと、小津の隣に立った和美が寄り添うように彼の腕に触れる。そして光喜と小津を見比べてもの言いたげな目をした。
向けられる視線にはいますぐにここから立ち去れと、あからさまな意志が込められている。その目に光喜は胸が軋む思いがした。けれどここで声を上げることはできなくて、黙ってまた胸にある想いに蓋をする。そしてそれと共に笑みを貼り付けた。
「小津さん、俺、帰るね」
「えっ?」
「なんか込み入った話っぽいじゃん。あ、パスケースはあれでいいから、よろしくね! それじゃあ、ご飯ごちそうさまでした」
「光喜くん!」
自分でも驚くほどの早さで光喜は身をひるがえした。呼び止めるような声は聞こえたけれど振り返れるはずがない。飛び出すように玄関を出て、逃げるように走り出す。追いかけてくることはないとはわかっていても、立ち止まることができなくて、息が切れて苦しくなるまで走った。
呼吸がうまくできなくなると、外灯の明かりだけが頼りの道で崩れ落ちるように膝をつく。じっと地面を見つめる瞳からは涙が溢れ出し、ボロボロと落ちた。背中を丸めてうずくまった光喜は顔を両手で覆う。
けれど込み上がってくる感情は抑えきれなくて、嗚咽を漏らしてしゃくり上げるように泣いた。
「俺、馬鹿だ。……全部、後回しにしたから、全部、自分で蒔いた種じゃん」
初めて向き合いたいと思った時、あの笑顔に胸が高鳴った時、離れるのが寂しくて胸が苦しくなった時、そして初めて二人きりになったあの時。
好きだと想いを告げる場面は何度もあったのに、言い訳をして先延ばしにしてきた。これはすべて光喜の迷いが生んだ結果だ。
――繋がれるはずだった縁が消えることもある。いまになってその言葉がやけに突き刺さった。
思い出を捨てられない小津が、かつて愛した人を無下に扱えるとは思えない。簡単に頷いてしまうとは思わないけれど、それでも二つを天秤にかけた時、果たしてそれはどちらが重いのだろう。
いくら考えても光喜の中で答えは見つからない。あの眼差しの向こうにある想い、それをまだ確かめていないから。
静かな空間に光喜のすすり泣きが響く。けれど空から落ちてきた水滴がポツポツと地面を濡らし始めて、次第にその声は雨音にかき消される。大粒の雨が降り注いでも、光喜はしばらくそこから動けなかった。
だから自分が顔を持ち上げた時、見慣れたマンションの前に立っていることに驚いた。
あの場所からどうやってここにたどり着いたのかさえもわからず、降りしきる雨の中ぼんやりと顔を上げたまま立ち尽くした。あれからどれくらい時間が過ぎたのかもわからない。ポケットの中で携帯電話が震えているのには気づいたが、それを手に取ることもできないくらいに身体が重かった。
火照るような熱さがあるのに、震えてしまいそうな寒さも感じる。動こうとすると油の切れたブリキ人形のようなぎこちない動きしかできない。それでも光喜は身体を引きずるように階段を上った。
普段の倍以上の時間をかけて三階にまでたどり着くと、数メートル先の扉の前に行くのも一苦労で、何度も立ち止まってしゃがみ込みたい衝動を抑える。のろのろと取り出した鍵もなかなか鍵穴に収まらず、やっと回したあとは玄関に足を踏み入れてそのまま光喜は廊下に倒れ込んだ。
雨で濡れた衣服が重く、まとわりつく感触がやけに冷たくて、凍えるような寒さを感じる。身体も心も寒くて、凍え死んでしまいそうだと薄れていく意識の中で考えた。このままここにいることは良くないとわかっていても、もう光喜は指先一つ動かすのも辛かった。