08.綺麗なその心

 しばらく抱きしめたままでいると、もぞりと腕の中で身じろがれる。ゆるりと腕を解いて顔をのぞき込めば、頬を染めながら少し目を伏せた。そのいじらしい仕草に思わず近づきそうになって片手で押し止められる。

「小津さん、みんなの前だよ。……それはちょっと恥ずかしい」

「……え? ああ、そうだったね」

 小さく紡いだ彼の言葉に小津はようやく我に返る。いまいる場所は実家のリビング。すぐ傍には母がいて、健人もいて、和室ではおそらく父が耳をそばだてている。それに改めて気づくと小津も頬を赤らめた。
 照れくさそうに笑い合う二人の様子に空気が和らぎ、それを感じたのだろう庭の傍観者たちは揃って鳴き声を上げる。そしてもっと遊んで、と言わんばかりに目をキラキラとさせた。

「そろそろ散歩に行きたいのかもしれないわね。修平、光喜くんと二人で行ってらっしゃい。帰ってきたら晩ご飯にしましょう。デザートは健ちゃんが持ってきた柿よ」

「そういえば、修平くん好きだったよね」

「あ、うん。……あの健人さん」

「ん?」

「子供の戯言に、まっすぐと答えてくれてありがとう」

「ううん、こちらこそ。昔のことなのに、覚えていてくれて嬉しいよ。修平くんがたどり着いた運命の出逢い、大事にね」

 優しく笑うその顔がすごく好きだった。大人になったら結婚できる? そんなことを言って困らせたことを思い出す。それでも彼は一度も男性同士は結ばれない、とは言わなかった。その気持ちを大事にしなさい、君の運命の相手が必ず待っているからと頭を撫でてくれた。
 だからこそ小津は自分自身の心に気づいた時、迷わずに両親に打ち明けることができた。正直言えば今朝まで忘れていたことだったが、彼に感謝せずにはいられない。

「健人さんは、運命の人に出会えた?」

「うん、そうだね。出会えたよ、とっても素敵な出逢いだった」

 ふっと目を細めた彼の表情に小津は違和感を覚えたけれど、それを問い返す前に健人はまたね、と笑った。敦子と目配せをして、彼は手を振ってリビングをあとにする。カラカラと音を立てた玄関扉が閉まると、母が少し長い息をつく。それに小津が首を傾げれば、苦笑いを浮かべた。

「健ちゃん、結婚していたんだけど。去年、奥さんを亡くされて、こっちに戻ってきたの」

「えっ? そう、だったんだ」

「あ、でもあんたが気にすることじゃないわよ。ほら、光喜くんまで悲しい顔になっちゃったじゃない!」

 思いがけないことに呆然としてしまったが、敦子の言葉に弾かれるように光喜へ視線を向ける。俯きがちな顔を小津がのぞき込むと、気持ちをこらえるみたいにきゅっと唇を噛んだ。労るように両手を握りしめれば、彼はその手を強く握り返してきた。

「人の幸せを、まっすぐ祝福できる、優しい人だね。俺だったら、妬ましくなっちゃう」

「そんなの、僕だってそうだよ。あの人だって、ちょっとはそう感じているかもしれない」

「でも俺、あんな風に笑えないよ」

「いいんだよ、笑えなくたって。でも人は長い時間を歩いて行くと色んなことを覚える。僕たちよりも少し先を歩いているあの人は、まだ僕たちが見つけていないものを持っているのかもしれない。光喜くんは彼のまだ半分だよ。慌てなくったって大丈夫」

「半分かぁ、じゃあ、敵わないね」

 瞳を潤ませて笑った彼も、自分で思うよりずっと優しい人だ。頬をさするように撫でると一筋涙がこぼれ落ちる。目を瞬かせて涙をふるい落とす光喜の額に、小津はそっと唇を寄せた。

「小津さん?」

 目をまん丸くして見上げてくるその視線に笑みを返せば、頬を赤らめながら至極幸せそうに頬を緩めて笑う。またきつく身体を抱きしめると小さな笑い声を上げた。

「小津さん、恥ずかしいってば」

「うん、ごめんね。でも光喜くんが可愛くて」

「……もう、ほら、茶太も凛太郎も待ちきれないって顔してるよ」

 リビングに乗り出すようにして前足を揃える二つの瞳。その後ろでシロウが控えめにこちらを見ている。小さな末っ子は一番マイペースにあくびをして日向で手足を伸ばして寝転んだ。
 微笑ましいその光景に空気がふんわりとしたものに変わる。涙を浮かべていた顔は優しい目をして微笑んだ。その笑顔を見ると、こんなに暖かな笑みを浮かべてくれた人は初めてだと思った。
 いままでの恋人たちも穏やかに笑う人たちばかりだったけれど、見ているだけで胸に熱が灯るような笑みは光喜だけだ。自分にはもったいないくらいの人、だけれど小津はこの握った手は絶対に離せないとも思った。

「散歩、行こうか」

「うん! 行く! 散歩コースは決まってるの?」

「少し歩いた先に遊歩道があって、そのさらに先に行くと広い公園があるんだ。そこをぐるりと回って、一時間くらいかな」

 ふと部屋の時計を見ると十六時を過ぎたところで、日が暮れる前には帰ってこられそうだった。出掛けるべく立ち上がると、敦子が散歩用のバッグを持ってくる。普段は希美と二人で行くことが多いので、ショルダーバッグを二つ。
 水を入れたペットボトルを四本とエチケット袋やおやつなど、散歩には欠かせないものが一通り入っていた。庭へ回って三頭にハーネスを付けると、彼らはそわそわとし始める。

「じゃあ、行ってくるよ」

 リビングで見送る敦子に声をかければ、握ったリードにぐっと力がこもった。早く早くと言わんばかりの凛太郎と茶太は尻尾を振って見上げてくる。それとは対照的に、のんびり屋のシロウは光喜に寄り添うように歩き出した。