優しさは恋の味
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 いままでの光喜はその日と言えばもらうことしかしてこなかった。誰かに贈るだなんて考えもしていない。だからショーケースの前で真剣に悩む日が来るなんて想像もしたことがなかった。
 けれどかれこれ売り場を歩いて三十分。ウロウロと行っては戻りを繰り返し、いきなり方向転換して隣を歩く姉にブーイングされる。しかし真剣な目をしてチョコレートを選んでいるいまはそれさえも気にならない。

「なにをそんなに悩んでるの? 値段? 数? 店を選んでるわけじゃないわね」

「バラエティに富んだのが欲しい」

「あー、見た目ね」

「だって食べる楽しみって必要でしょ」

「悩むのは結構だけど、早くしないといいものからなくなるわよ」

 バレンタインデー当日、売り場は滑り込みの客で溢れている。女性がこんなにこの日を重要視しているのも驚きの一つだ。お菓子業界の戦略なんて言われているが、このイベントの浸透力はすごい。
 本命チョコに友チョコに義理チョコ。いまは女性から男性へと言うのがお決まりではないようだ。男性同士となればどちらが渡すかなんて決まり事もない。なので待つよりも渡したい、その想いで光喜は姉を巻き込んで買い物へやって来たのだ。

「それに待ち合わせしてるんでしょ? 時間は大丈夫?」

「……あっ! あんまり時間ないっ、どうしよう」

 腕時計に視線を落とせば十六時を過ぎていた。恋人との待ち合わせは十七時で、待ち合わせ場所はここから四十分はかかる。しかし遅刻なんて絶対にしたくないと思いながらもまだ足が行っては戻りをする。

「ああ、もう! まどろっこしい! これとこれとこれ、ここから選びなさいよ。さっきからウロウロしてるのそこじゃない」

 パンフレットを開いた姉は苛ついた様子でそれを指さす。それに怪訝な顔をする光喜だが、小さく唸ってから黙ってパンフレットを見つめる。そして一呼吸置くことで冷静さが取り戻されたのか今度は迷いなく歩き出した。
 目指すは一番見た目が華やかで美味しそうだったショコラだ。

「やっばいっ、ほんとに遅れ、そ……っ」

「あっ、すみません」

 ギリギリで選んだチョコレートを手に駅の構内を足早に歩いていると、目の前を横切った人に思いきりぶつかる。あまりの勢いにひっくり返りそうになるけれど、顔を持ち上げたら見慣れた人がいた。

「小津さんっ」

「光喜くん! ……ごめん、あの、これ、中身は大丈夫?」

「あ、あーっ! ひしゃげてる!」

「だ、大事なものだった?」

「せっかく、小津さんに買ったのに」

「もしかして、バレンタイン?」

 しょんぼりとした光喜が小さく頷くと、小津は嬉しそうに形の崩れた小さな袋を胸元に引き寄せた。

 散々悩みに悩み抜いて買ったチョコレートはぶつかった拍子にぺしゃんこになった。けれどそれに落ち込む光喜に小津はまったく問題ないと笑う。
 確かに箱は角が潰れて見た目が悪くなっていたが、中身は散らばってはいない。それでもプレゼントの悲愴な姿に気分は落ち込んでしまう。せっかくおいしいイタリアンに連れてきてもらったのに、気持ちが盛り上がらない。

「光喜くん、なに飲む?」

「ああ、うん。ワインを頼もうかな」

 しかし下がったテンションはすぐには持ち上がらないが、忙しい中での久しぶりのデート。いつまでもくさくさとしてはいられないとも思う。優しい笑みを浮かべてくれる恋人をじっと見つめれば、励ますみたいにあれこれと料理を勧めてくれる。
 身体の大きさはまるで思いやりに比例しているようだ。熊のように大柄だけれどその分だけ優しさが詰まっているに違いない。そんなことを思ったらふっと笑みがこぼれる。そしてそんな光喜の表情に首を傾げる彼がひどく愛おしくなった。

「ご飯どれもおいしいね。かなり食べた気がする」

「お腹いっぱい? デザートも頼んでるんだけど」

「そうなの? 食べる食べる」

 普段からよく食べる光喜はいつも小津にその身体のどこに入るのかと笑われるほどだ。けれど実際は成人男性の人並みより背丈もあり体格もいい。だから彼の目から見たらほとんどの人が小柄に見えるだろうと笑い返すのが常だ。
 一通り食事が終わり食器が片付けられるとしばらくしてウェイターがデザートを運んでくる。恭しく運ばれてきたそれに期待で胸が弾むが、テーブルに置かれたそれを見て光喜は喜びの前に驚きが飛び出した。

「えっ? 小津さん、これ」

「うん、今日はバレンタインだから、僕も用意してた。こんなのいままでしたことなくって、ドキドキしてたんだけど」

「う、嬉しいに決まってるでしょ!」

 窺うような視線に対し光喜の顔はぱあっと光を灯したみたいに明るくなる。ハート型の、綺麗にデコレーションされたチョコレートケーキ。シャイな小津からしたらこれがどれほど勇気のいる注文だったか、考えなくともよくわかる。

「写真撮っていい?」

「うん」

「やった、これ待ち受けにしよう」

「え?」

「記念だもん! わぁ、食べるのもったいない、けど、食べるよ! 半分こしようね。ハート割れちゃうけどいいよね?」

 綺麗なハートにさっくりとナイフが通る。けれど飾りのハートをそれぞれに振り分けて、光喜はにんまりとご機嫌な笑みを浮かべた。
 ハッピーバレンタイン――そう言ってケーキを載せたフォークを差し向ければ、小津は首まで真っ赤に染めて目を丸くする。愛を伝える日、なんて素敵な日だろうと光喜は照れた笑顔も写真に収めた。

優しさは恋の味/end

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