すれ違い04
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 いまどうしようもなく殺意を覚えた。いますぐにでもこの三階の窓から目の前の男を捨ててしまいたい――いや、捨ててしまおうか。
 人の神経を逆なでするのが得意な男だと常々思っていたが、それをこの俺にやるということは、よほどのことをなにか企んでいるのだろう。

「ちょっと待った!」

 苛つきを隠しもせずに峰岸の肩を掴んだ瞬間、追いすがるように後ろから抱きつかれた。

「……」

 その衝撃に視線を落とせば、こちらを見上げる神楽坂と視線が合った。しかしなぜか神楽坂は俺と目が合った瞬間、顔を青ざめ視線を泳がせる。

「なにか用?」

 思わず出た声は、我ながら思った以上に平坦で冷ややかなものだった。

「い、いやあ、なんかすごい黒い気配感じちゃって……とっさに」

 あはは――と引きつった笑いを浮かべながら、神楽坂は俺から離れると両手を上げて一歩一歩と後退して行く。

「気のせいじゃないか?」

「だよなぁ、気のせい、だよなぁ。まさか会長を本気で窓から放り出そうなんて、藤堂はそこまでデンジャラスな奴じゃあないよなぁ」

 神楽坂の言葉に思わず目を細める。意外と神楽坂は勘のいい男だったようだ。乾いた笑い声を上げながら、さらに彼は後退して行く。

「神楽坂はなんでそんなに峰岸に低姿勢なんだ。仮にも同い年だろう?」

 なぜか峰岸を会長と呼び、名前で呼ばない神楽坂にふと違和感を覚えた。しかし動きを止めたその姿に首を傾げると、なぜか急に彼の額に汗が滲む。

「聞いてくれるな藤堂。これには海より深いわけが」

「お兄様って呼ぶなら許してやるぞ」

 狼狽する神楽坂に追い打ちをかけるように、峰岸は喉の奥で小さく笑う。そして神楽坂を見るその視線は、都合のいいおもちゃでも与えられたような、嬉々としたものだった。

「ああ」

 神楽坂を見下ろす峰岸の言葉と視線に、俺はその意味を悟った。

「峰岸の妹に手をつけたのか」

 確か峰岸には二つ下の妹がいた。今年の春にここへ入学した気がする。これでいて意外と妹には甘いところがあるから、入学早々に彼氏ができて、しかもそれが神楽坂で、八つ当たりに近い嫌がらせだろう。もしかしたら今回、神楽坂が実行委員長になったのも嫌がらせの一つなのかもしれない。

「随分と手が早いな」

「そんな物騒なこと言うな! き、清く正しく健全な……お付き合いさせていただいてます」

 最後の方は峰岸の視線にすくみ上がり、言葉尻が小さくなっていく。次第にこの空気に耐えられなくなったのか、神楽坂は脱兎のごとく逃げ出した。

「お前がその調子だと、あの子は嫁に行くどころか、今後また彼氏を作るのも難しいな」

 神楽坂の健闘をつい祈りたくなってしまった。

「おかしな虫が寄っても困るからな」

 目の前で皮肉めいた表情を浮かべ、こちらを見ている峰岸に息をつけば、ふいに携帯電話が震えた。制服のポケットに入れていたそれを抜き、着信を確認するとメールを一通受信している。

「弥彦?」

 昼休みが終われば顔を合わせると言うのに、なんの用かとそれを開けば――。

「優哉に会いに来たみたい。いなくて寂しそうだったから捕獲した」

 一瞬その文面に首を傾げたが、スクロールする画面下に表示された写真を見て、俺は思わず目を見開く。そこには少し驚いた表情を浮かべ、箸先を口に当てながら、首を傾げてこちらを見ている彼がいた。その顔に自然と頬が緩む。

「ちゃんと食べたんだ」

 心配していた食事事情はちゃんと解決されていたようで安心した。黙っていると食べることさえ忘れる人だ。ほかならぬ弥彦に捕まってよかった。

「なんつう顔をしてんだよ」

 突然、耳元近くで聞こえたその声に顔を上げれば、峰岸が画面を覗き込んでくる。視線から外すように素早くそれを閉じると、呆れたように目を細められた。

「はあ、なるほどね。センセの写真を見るだけでもそんな情けない面になるんだな」

「鬱陶しい」

 急に肩を組むように腕を乗せられ、俺は振り払うように身体をよじる。しかしそれを阻むように肩を掴まれ、俺は思わず舌打ちをしてしまう。

「以前のお前なら、そんなに他人に入れ込んだりしなかったのに。半年で、というよりこんな短期間でそんなに変わるもんか?」

「……」

 峰岸に言われなくとも、自分がどれほどあの人に入れ込んでしまっているか、よくわかっている。いままでは見ているだけでも満足していたのが、告白をして近づいて、もっと傍にいたいと思い、さらにあの人に惹かれている自分がいる。
 いや、満足していなかったんだ。だからこそ、いまこうして少しでも近づけたことに、自分は浮かれてしまっているんだ。

「まあ、いい人なのはわかるけどなぁ。でもそこまでそそられるようなタイプじゃないし、どの辺がいいんだ?」

 耳打ちするように顔を寄せて話す峰岸の顔を押しのけ、不快な表情を浮かべると、それに反して後ろから覆い被さるように抱きつかれた。
 室内に黄色い悲鳴が響き渡る。

「遊んでないで仕事しろ」

「たまには俺と遊ぼうぜ」

 明らかに周りの反応を楽しんでいる様子の峰岸にため息が出る。自分が楽しむ為に他人を巻き込むのも峰岸の悪い癖だ。誰を巻き込もうが構わないが、こちらに火の粉がかかる真似はやめて欲しい。

「やっぱり少し性格が円くなったな。前なら今頃、俺は床に沈んでたぞ」

「そんなに沈めて欲しければ沈めてやるぞ。海にでも」

 面白くなさそうな表情を浮かべる峰岸を一瞥して、再びため息をつくと苛々していた感情が冷めていく。

「もう冷めたのか」

「お前が喜ぶことをしてやるのは馬鹿らしい」

 不服そうに呟く峰岸に肩をすくめれば、なにやら思案するように小さく唸る。

「……そうか、じゃあセンセで遊ぶとするか」

 そう言って笑うと、峰岸は俺の首に巻きつけた腕に軽く力を込めて、無遠慮に人の横顔に口づけた。

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