休息12
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 彼は急に押し黙り視線をそらすと、眉間にしわを寄せ俯いてしまった。そんな姿を俺は訝しげに見つめる。

「佐樹さん?」

 俺はなにかおかしなことを言っただろうか。高々ロング缶のビール五本程度で酩酊しないが、久しぶりに飲んだので思ったより回っている。自分が感じているよりもひどいのか。

「……違う」

「え?」

 そうぽつりと呟いたかと思えば、突然すがりつくように抱きつかれ、驚きで身体が動かなくなった。しかし戸惑いながらもその身体を抱き締めると、ぎこちない指先が俺の背にしわを作る。

「お前はどこにも行くなよ」

 震える小さな声。なだめるように優しく彼の髪を梳くと、ますます指先に力がこもるのが切ない。

「あなたを置いてどこへ行けって言うんですか」

「わからない」

 ゆるりと振るその顔に影が落ちる。

「やっぱり、いまも忘れられない人がいるんですね」

 ため息と共に自分の口から吐き出されたその言葉は、ひどく胸に突き刺さる。この人の頭の中に、自分以外の存在があることがたまらなく嫌だと思う。子供っぽい嫉妬心だと言われても耐えがたい。

「ち、違う、誤解だ。忘れられないわけじゃない、本当は忘れてたんだ。それなのにお前が傍にいるといつの間にか思い出して」

「……え?」

 突然大きな声を出した彼をじっと見つめると、身体が跳ね上がり視線も揺らめく。

「悪い」

 そう言って俯いたまま、さらに頭を下げた彼の肩が小さく震えた。

「謝らないでください。なんだか別れ話をされてるみたいで嫌です」

「そ、そんなつもりはない」

「俺はその人に似てますか?」

「……えっ」

 彼は顔を上げて戸惑ったように瞳を揺らめかせた。我ながらひどくつまらないことを聞いたと思う。

「そんなことない、全然似てなんか」

「じゃあ、無意識?」

 似ているから、無意識に俺を選んだ?
 困惑した表情を浮かべる彼にひどく冷たい声が出た。そんな顔をさせるつもりなどなかったのに、妙に心が焦る。ちょっと雰囲気が似ていると言われたくらいなんだと、鼻で笑えるほど彼に関して自分は強気ではいられない――言葉とは裏腹に、俺は情けないくらい震えた手で彼を抱き締めた。

「明良か、お前にそんなこと言うのは」

「俺が、勝手に不安がってるだけです」

「だとしたら、藤堂を不安にさせるようなことを、僕がしたんだな」

「あなたが悪いわけじゃない」

 勝手に視線の先を想像して、自分勝手に恐れ傷ついているだけだ。確かにこの手の中に彼がいるはずなのに、どこか遠くへ消えてしまいそうで怖くなる。

「お前と彼女は、見た目も性格も全然似たところはない。それにお前が心配するようなことは起こらない。もういない、もう過ぎたことなんだ」

「もう、いない、過ぎた、こと?」

 躊躇いがちに問えば、彼は苦笑いを浮かべながら腕を伸ばし俺の首にそれを絡めた。
 すり寄る身体を抱き寄せ、彼の言葉を馬鹿みたいに復唱しながら、ああ、なんて厄介なんだろう――そんな言葉が頭に浮かんだ。先立つ者はいつだって残された者の心に長く居座り、なかなか去ろうとはしない。

「過ぎたはずなのに、もういないのに、俺といると思い出すんですか。いなくなっても忘れられないくらい、その人が好きだった?」

 自分でもわかるほど声に苛立ちが含まれる。この世にいない人間にいくら嫉妬をしたって、それ以上にもそれ以下にもなれやしないとわかっているのに、膨れ上がる想いが彼を傷つける。
 困惑したように俺を見つめる彼の瞳を、いまは見るのが辛い。

「すみません」

 このまま続けていても堂々巡りな気がして、そっと彼の腕を解いて引き離した。けれど数歩後ろへ下がれば、俺を追いかけるように彼も足を進める。

「だから、好きとか嫌いじゃなくて」

「……じゃなくて?」

 口ごもり途切れてしまった言葉に首を傾げると、ふいに彼の視線が床に落ちた。

「僕は人の気持ちを汲んだりするのは得意なほうじゃない。いままでなに気ない言葉や行動で嫌な思いさせたことも多くて、藤堂に結構おんなじことやってる時もあったから……その度に思い出して。でも、お前はなんにも言わないし」

 不安なんだよ――聞き逃してしまいそうなほど小さな声に心臓が締め付けられたように苦しくなる。

「確かにその延長で昔のこと色々と思い出したりもしたけど、本当にいまはお前だけだから」

 顔を上げて両拳を握る。まっすぐに俺を見つめる彼の目がわずかに潤んだ。こんな風に彼の真摯な態度や切なげな姿を見てしまうと、いかに自分が心が狭く醜いかを改めて思い知る。

「俺は佐樹さんといて、一度も気に障るようなことはなかったです。不安がないって言ったら嘘ですけど、楽しいですし、幸せだなって思ってました」

「お前馬鹿だ。なんでそんなに優しくするんだよ。いつも困らせてるのはこっちなのに、ほんとに馬鹿だ」

 くしゃりと泣きそうに歪んだ顔がこちらを睨む。

「酷いな。あんまり馬鹿って連呼しないでください。俺も不安にさせること多いですから、お互い様ですよね。疑ってすみません」

 小さく口を尖らせる彼に腕を伸ばし抱き寄せた。するとそれと共に彼の温かな両手が、俺の頬を包み込む。

「泣きたくなったら泣いてもいいんだぞ。嫌だったら嫌って言え」

「……そうやって、俺を甘やかさないでください。つけ上がりますから」

「甘やかしたいんだよ。藤堂はもっと素直になったほうがいい」

「俺はこの先、あなたといられるならそれだけでいいです」

 これは嘘なんかじゃない。嫉妬も不安もきっと一生尽きないが、それでも傍にいられると言うなら、そんな想いは飲み下してしまってもいい。本当にずっと傍にいられるなら、俺はそれ以上を望んだりしない。

「傍にいるだけなんて却下」

「え?」

 急に不機嫌な顔する彼に俺は思わず目を瞬かせてしまった。

「全部、藤堂の全部がないと嫌だ。本当は誰かに笑いかけるのも話しかけるのも、誰かがお前を振り返るのだって嫌なんだからな。自分でも頭悪いんじゃないかって思うくらい、こっちは欲が深いんだよ!」

 巻くし立てるように早口で話す彼にあ然としていると、頬に触れていた手が俺の背中へと回る。そして自分の発言に照れくさくなったのか、彼は俺の肩に額を押し当て急に黙り込んでしまった。

「可愛い」

「うるさい!」

「え……さ、佐樹さん?」

 俺の呟きに不機嫌そうな視線が持ち上がる。突然顔を上げた彼の頭を避けて重心が後ろへ下がるが、強引に顔を引き寄せられて、身体が前へ不自然に傾いた。
 戸惑っている俺などお構いなしに重ねられた唇の感触が、あまりにも優しくて思わず目を見開いた。

「絶対、誰にも渡す気ないからな」

 いつもはぼんやりしていてひどく危なっかしい人なのに、急にこうしてまっすぐとした強い眼差しに変わる。そんな彼には一生適わない気がした。

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