邂逅07
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 彼とはほんの少し話をしただけ。だからそんな風に思うには違和感がある。けれど彼のことを思うと、なぜか懐かしい気持ちになる。

「なんで、だ?」

 不可解な感情に振り回されるような感覚。ここしばらく感情に大きな波がなかったので、余計にもどかしい。そして――ふいに思い出す。彼女と一緒にいることがとても楽だったこと、彼女は僕の足りない部分を補い、いつだって先回りして考えてくれていた。

「でも……そう思うのは、ものすごい引きずってるみたいで情けないな」

 随分と時間が経って、気持ちの整理はついたつもりでいたのに、ほんの少し端っこを引っ張っただけで、記憶が芋づる式もいいところだ。

「しかも彼とみのりは似てないのに、なんでここで記憶がごっちゃになってるんだ」

 また会えばわかるだろうか。いや、考えるのはよそう。いまはきっと人恋しいだけで、寒さが和らげばこんな記憶もいつか消えて行く。

「おい、佐ー樹! なにブツブツ言ってんだよ。そんなに具合わりぃの? ほれ、いま鳴ったろ。熱、何度」

「明良?」

 ぼんやり眺めていた天井がふいに遮られ、目を瞬かせると、目の前の顔が呆れ返ったように歪んだ。

「疑問系で呼ぶな、まったく。何日寝込んでんだよ。だからお前は一人暮らし向かないって言ってんだろ」

 戸惑っている僕をよそに、明良は手慣れた様子で首元へ腕を差し入れて、温くなっていたものを冷たい氷枕と交換する。

「いつ来たんだ」

「さっき、声かけただろ。覚えてねぇの?」

 眉をひそめた僕の額の汗を拭いて冷却剤を貼れば、明良は差し出した体温計を摘み上げて大きなため息を吐いた。

「……七度九分ね。まだ熱ちょっとあんな」

「結構下がったぞ」

 あの日、熱を測ったら八度を超え、いまにも九度を過ぎようかというほどだった。

「偉そうに言うな」

 しかし明良には思いきり顔をしかめられ、無理やり布団を顎まで引き上げられた。

「お前、仕事は?」

「抜けてきた。時子ちゃんが佐樹と連絡がつかないから、なにかあったんじゃないかってさ、電話をもらったんだよ」

「母さん? わざわざ明良に電話したのかあの人」

 明良の声にぼんやり耳を傾けながら、ふと母親である時子の誕生日に連絡し損ねたことを思い出す。寝込んで恐らく今日で三日目。今朝の職場連絡以外、ひたすら寝ていたので携帯電話も家の電話も、鳴っていたのに気づかなかった。

「鍵、合い鍵を使った?」

「ああ、緊急事態かもしれないからそれ使って入ってくれって。実家のほうはいま雪ですげぇらしいぜ。出んの大変だよな、あそこ田舎だしよ」

「そうなのか」

 あそこは本当に雪が積もると身動きが取れなくなる。慌てふためいて皆で雪掻きしている姿が目に浮かぶ。

「休んでるあいだになんか食った? いまキッチンを借りてるから、それ食って薬飲めよ」

「ああ、悪いな。明良も忙しいだろう」

「心配すんな、俺の代わりはあそこには腐るほどいる」

 そう言って僕の額を軽く何度か手のひらで叩き、明良は部屋を出て行く。その後ろ姿を見送り、なに気なく顔を上げて時計を確認すると、十五時過ぎだった。茹だる頭で数えている日にちが間違いでなければ、今日は月曜日のはずだ。

「休み関係なく忙しい癖に」

 普段から適当且つ大雑把な明良だが、あれでも職場では統括の主任で、下に部下がいる立場だ。元々器用で立ち回りが上手い彼だから特別それに驚きはしないが、役どころに相応しく忙しい身の上なのも知っている。
 母にあとで釘をさしておかなければ。

「明良といい渉さんといい、甘やかされてるな自分」

「渉がなんだって?」

「え、いや」

 片手にお盆を持った明良が眉をひそめて戻って来た。身体を起こし首を振れば、訝しげに目を細められる。あの日会ったことは明良には内緒だった。

「あいつとなんかあった? いっつもだけど、ここ二、三日くらい佐樹、佐樹ってうるせぇの。やたら連絡を取りたがってんだよな」

 大きなため息を吐きながら、明良はベッド脇のテーブルを寄せ、手にしたお盆を乗せた。けれどこちらを窺う視線をじっと見つめ返せば、不思議そうに彼は首を傾げる。

「なんだよ」

「別になにもないけど。連絡が来てたなら教えろよ。って言うより、渉さんに連絡先を教えてくれればいいのに」

 あの晩、僕が風邪を引いたことにすぐ気がついた渉さんは、わざわざタクシーで家まで送ってくれた。けれど家に上がることは明良に禁止されていたらしく、玄関先で何度も謝られた記憶が――微かにある。
 あの時はだいぶ意識が朦朧としていたので、彼には随分と迷惑をかけてしまったはずだ。

「あいつはロクな用じゃないからいいんだよ。それより食え」

「またお前は、すぐそうやって渉さんを粗野に扱う。なんでそんなに扱いひどいんだよ」

 ムッとした僕に肩をすくめ手近な椅子に腰かけると、明良はテーブルに置いていた椀を僕に差し出した。湯気立つ玉子粥からは、鰹節と梅干しのいい香りがした。

「いいんだって、あいつは下心ありありなんだから」

「なんだよ、その下心って」

「んなことより、早く食え」

 のらりくらりとかわされ、明良はいつも渉さんのことに関して口を開かない。彼を自分と引き合わせたのは明良なのに、最初はこんなに邪険にしていなかったはずなのに。いつの間にかあまり僕と渉さんを引き合わせないようになった。まったく意味がわからない。

「なんでそんなに仲が悪いんだよ」

「俺らは最初から相性よくねぇの。それに俺を嫌ってんのは向こうだし」

「最初にお前がなにかしたんじゃないのか? 確かに渉さん好き嫌いはっきりしてるけど、あんまり根に持つタイプじゃないと思うけど」

 嫌いというより、普段の渉さんは明良を極力避けている風にも感じられる。じとりと睨めばふいと顔をそらして明良は口をつぐんだ。

「……今度、渉さんから連絡が来たら繋げよ」

「わかったよ、あいつのことはもういいだろ。それよりとっとと風邪を治せよ」

「わかってる」

 顔をしかめた明良の言葉に口を尖らせるが、額を何度も叩かれ口ごもるしか出来ない。

「面倒かけて悪いな」

「まったくだぜ。お陰でうちのからメールがひっきりなしだ」

「あ、あー、そっか。それはますます悪い」

 苦笑いを浮かべて明良が開いた携帯電話を見れば、ずらりと同じ相手からのメールが並んでいた。長続きしない明良がいまの相手と付き合って半年ほどになるが、相変わらず僕は彼に目の敵にされている。それだけ明良が好きなのだろうけど、自分と明良の距離感は昔からこんな感じだ。
 それにいままでの子たちはいくら僕と明良が親しくても、友人と恋人の定義を割り切っていた。なので最初はその反応に大いに戸惑ったものだ。

「まあ、これはこれで可愛いから気にすんな」

「ふぅん、そうか」

 本当に明良は付き合い始めると人が変わる。遊ぶ相手にはすごくいい加減なのに、相手が恋人となれば途端に性格が円くなる。と言うか――とにかく甘い。
 でもなぜかいつも長続きしないのだ。なので今回の彼は、随分と長いほう。

「……なぁ、やっぱり男同士って難しいか?」

「なんだよ急に」

 携帯電話をいじっていた明良がふいに顔を上げて首を傾げた。

「いや、なんとなく……気になって」

 訝しげな顔をする明良に思わず苦笑いを浮かべてしまった。自分でもそんなことを聞いてどうするのかと思う。

「どうだろうなぁ、あんま男と女と変わんねぇと思うけど」

「そうか」

 相手が異性か同性かの違いだけで、好きの気持ちは一緒なわけだから当たり前か。

「いままで同性以外好きになったことあった?」

「……俺はないけど、そういうどっちもって奴もいる」

「へぇ、じゃあその人たちは、性別の隔たりなく、相手を好きだって思えるんだ」

 だとしたら、いままで異性しか好きになったことがない人間でも、同性を好きになるなんてことはあるのだろうか。

「佐樹……お前、熱にやられた? 変なのに引っかかってないよな?」

 急に怪訝な表情を浮かべ、人の顔を覗き込む明良に身体が仰け反る。

「変なのってなんだよ」

「佐樹は意外とほだされ易いからなぁ。新しく恋すんのはいいことだけど、優しくされてもすぐ信じんなよ。お前は自分で気づいてないけど、甘やかされんのに弱いから」

「……」

 しみじみと語る明良に言葉が出ない。いままさに、心辺りがあり過ぎて動揺してしまった。

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