邂逅08
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 いや、しかし――もしそうだとしても、まだ彼がどういう人間かもわからないのに、それはいささか早計だ。
 今回の件に関しては多分、ほだされるとは少し違うような気がする。

「懐かしい、って思うんだ」

「気になる相手が懐かしいって感じんの?」

 ポツリと呟いた僕の言葉に、明良は不思議そうな顔をして首を傾げる。

「ああ、なんとなく」

 声や眼差し、手や仕草――なぜか彼のすべてが懐かしいと感じる。そして日を追うごとにその感情は強くなる。

「その人とは、最近知り合ったのか?」

「ん、雪の降り始めた晩に一回会って、少し話をしただけ」

 ほんの五分か十分か、そのくらいの話だ。

「なあ、以前にも会ってるってことはないか?」

「え?」

 一人考え込んでいる様子だった明良が、ふいに顔を上げて僕を見る。そしてそんな彼の言葉に僕は目を丸くし、それを瞬かせた。その発想はなかった。
 けれど――。

「それなら向こうだって、気づきそうなもんだろ。全然そんな素振りなかった」

 それどころか、時折困ったような表情を浮かべたりはしていたが、基本的に彼はあまり感情の起伏がないのか、触れられた手、こちらを見ていた視線、口づけられた頬。どれも表情からその意図も意味も読めなかった。
 しかも彼はうろたえる僕を見て少し笑っていた。からかわれていたとしか思えない。

「忘れてるか、佐樹が気づかないからなにも言わなかった。ってのもあるんじゃねぇ?」

「それはもう会ってる前提?」

 彼のことを思い返し、少し複雑な気持ちになった。思わずムッとしながら言い返すと、明良は苦笑いを浮かべながらも肩をすくめた。

「お前は人の顔も名前も覚えるの苦手だろ。それなのに既視感あるなら、そう考えるのが妥当だ」

 納得がいかず顔をしかめた僕に対し、椅子に身体を反らして座る明良。僕のことなのに、まるで彼のほうがそれに自信があるみたいだ。

「まあ、それがいつなのかを考えるのは、風邪を治してからでも遅くないけどな」

 いまの調子じゃ会いに行けないからなと、苦笑いを浮かべる明良に、僕は無意識に眉をひそめてしまった。

「……考えても、もう会えないだろうから」

「諦めんの早いな」

 肩をすくめた明良に空になった椀を押し付けて、僕は身体を横たえると、おもむろに布団を被り潜り込んだ。

「まあ、マジでお前はほだされ易いから心配だけどな。別にほかに好きな人が出来てもいいと思うぜ。お前がちゃんと幸せになれんなら、俺は協力するし」

「そんなんじゃない」

 確かに彼のことは気になるけれど、そういうのとは違う気がする。それに会ったところでどうしたいわけでもない。彼には恋人がいるようだったし、興味本位で近づいても、明良の恋人のように余計な不安を与えるだけだ。

「……もういい」

「そうか。風邪薬、持ってくるな。ちょっと待ってろ」

 小さなため息と共に、布団の端から出た頭を撫でられる。遠ざかる気配に僕は息をついた。

「前って、いつだろう」

 もういいと明良に言っておきながら、口からこぼれ出た言葉に自分自身で呆れる。そしてその理由がわからないことが、たまらなく不安でもどかしい。

「僕のこと、本当に知っていたならそう言ってくれればよかったのに」

 そうしたらこんなに悩むことなかった。でも――もしかしたら彼のことを思い出せないのは、記憶にないからではなく、僕が思い出せずにいる記憶の中にいるからなのかもしれない。

「もしかしてあの日? そんなに前なのか?」

 僕の中にある降りしきる雨の記憶は、忘れたいのに忘れられない。どんなに時間が流れても、どんなにほかの記憶が薄れていっても、それだけはいつまでも後悔と共に胸に刻まれている。けれど所々記憶が歯抜けになっているのも確かだった。なぜか記憶と感情が少し、思い出せない部分があるのだ。
 でもそれを思い出すのが、正直言えば怖い。けれど気づかぬフリをしたままでいるが、本当にこのままでいいのだろうかと思う時もある。自分は大事なものを忘れているんじゃないか――時折、ふとそう思う。

「佐樹、薬早いとこ飲んじまえよ」

「……っ」

 ふいに肩の辺りを揺さぶられ反射的に身体が跳ねた。それでも黙ったまま布団の中でうずくまっていると、その手はあやすように布団を何度も叩く。

「お前ちょっと今日は不安定になってんな。とりあえずもう薬飲んで寝ろよ。それまではいてやるから」

「僕はいつも、人に甘えてばかりだ」

「ん?」

 いまこうして明良にも迷惑をかけている。母にだって余計な心配をかけた。いつでも僕は色んなことをちゃんと考えずに、言い訳ばかりをして逃げて来たんじゃないだろうか。

「なんでちゃんと出来ないんだろう」

「お前なぁ、具合悪い時に余計なこと気にすんなよ」

「あの時だって」

 僕は彼女に甘えてしまっていた。だから彼女のことを、ちゃんと理解しようとしなかった。いや勝手に理解している――つもりでいたんだ。

「してもらうことが当たり前になり過ぎて、僕はちゃんと彼女の気持ちを考えたことがなかった。伝えようとしなかったし、知ろうとしなかった」

「……んなことねぇよ。佐樹は佐樹なりに考えて応えてたし、あの頃はみのりも情緒不安定だったんだ。佐樹だけが悪いわけじゃない」

「でも! 僕があの日ちゃんと話を聞いていたら、あんなことには、みのりが事故に遭うことはなかった」

 背を撫でていた明良の手を払い、僕は飛び起きるようにして布団を跳ね退けた。

「なんで、どうしてっていまも後悔する。今更考えたってどうにもならないのはわかってる、けど」

「どうした、急に。……まあ、調子悪い時ほど人間は余計なこと考えて不安になるか」

 どこか困惑した雰囲気をまといながら、明良は俯いていた僕を抱き寄せてなだめるように背を叩く。その優しさに泣きそうなくらい胸が痛くなるのに、ちっとも涙は出て来ない。
 あの日から――どんなに悲しくても、苦しくても、泣きたくても、涙が出て来ない。多分欠けた記憶の中に、僕はそれを置き忘れてきた。

「……いまお前は、わかんねぇことが不安なんだな。昔のことはともかく、会えるよきっと、お前はまたその人に会う。でなきゃそんな偶然、起きねぇよ」

「会えない」

「バーカ、会えないって思ったら会えなくなんの。会いたいんだろ、お前は。いいじゃん会いたいって思ってろよ。佐樹には幸せになる権利あんだから」

「ないよ」

 彼女の手を離して、死なせてしまったのは僕だ。ちゃんとしっかり掴まえて、ちゃんと伝えていたら、あんなことにはならなかった。僕に誰かを想う資格はない。
 でも、そう思うのに――明良の言葉が嬉しかった。本当は彼に、会いたいんだ。彼女がいなくなったあの頃に、多分出会っているだろう彼にもう一度、会って確かめたい。なぜこんなにも会いたいと思うのか。

「好きとかそんなことじゃないと思うんだ。でも、会いたいって、そんな風に思うのはおかしいか」

 彼に対して愛おしいとか、そういう気持ちがあるわけじゃない。ただ会いたい、会いたくて仕方がない、本当にそれだけだ。

「いいや、別におかしかねぇよ。人の感情なんて言葉で推し量れるもんじゃない。頭で考え過ぎんな、佐樹の悪い癖だ」

 震える僕の身体を落ち着かせようと、明良は小さく笑い強く抱きしめてくれた。そして背中をさする彼のそんな手の温もりに、ほんのわずか、なにかが脳裏を掠めていった。

 ――あなたがすべてを捨てたとしても、誰も救われない。

 ふいに頭の奥で聞こえた声と共に、突然さまざまな光景がフラッシュバックし始めた。

「佐樹? どうした」

「……頭が、痛い」

 頭を鈍器で殴られたような痛みと、血の気が下がって冷えていく身体に冷や汗が吹き出した。ぐるぐると回り出した視界に吐き気がする。一気に頭の中で映像が早送りのようなスピードで動き出して、言葉にならないほどの重苦しい感情が溢れ出す。
 そして彼女の声が頭の中で木霊するように何度も響き渡った。

 ――もう一緒にいるのが不安なの。

「ごめん」

 ――私、あなたのことが見えない時がある。

「僕が、悪かったんだ」

 ――どうしてちゃんと考えてくれないの。

「ごめん、そんなつもりじゃなかった」

 彼女の声と言葉に僕は耳を塞ぎうずくまっていた。あの時の後悔と空虚な感覚が蘇ってくるような気がした。

「おい佐樹、佐樹っ」

 ぐにゃりと歪んだ視界と遠くで聞こえる明良の声。真っ赤に染まり始めた目の前が、現実と過去をごちゃ混ぜにする。

 ――私、どうしてあなたを好きになっちゃったんだろう。

 薄い膜で覆い隠されていた記憶と感情が、剥き出しにされていく気がした。

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