邂逅10
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 ポツリポツリと小さな雨粒が頬へ落ち、僕はその冷たさに目を瞬かせた。気づくと僕は、道路の真ん中で一人立ち尽くしていた。行き交う車の流れは速く、どうやってここへ来たのかさえわからない。真っ暗な空の下、煌々と灯る光の渦に飲み込まれ、身体がふわりふわり揺らめいているような気もした。
 けれどそんな僕の腕を誰かが強く掴み引き寄せた。

「いまここで死んだら、あなたは楽になるかもしれないけど、あとに遺された人はどうするの」

「え?」

 甲高いクラクションが激しく鳴り響くその中で、突然目の前に現れた彼は切迫した様子で僕を見つめ抱きしめる。急に現実に引き戻されたようなその感覚に、身体の力が抜けずるりとそれが下へ落ちて行く。

「いまの自分と同じ気持ちにさせるつもり?」

「……」

 あ然としたまま座り込んでいる僕に小さく息をつき、彼は力の抜けた僕の身体をおもむろに支え上げた。そして通り過ぎる車の間を縫い、彼と僕は歩道へと戻った。

「大丈夫?」

「……」

 僕を見下ろす、ひどく心配げな視線を感じる。しかしロクな返事も出来ぬまま、僕は彼の両腕を掴んでいた。

「こんなに震えてるのに、よくこの道に飛び出して行けたね」

「わからない。覚えてない」

 確かに彼が言うように、情けないくらい彼の袖口を掴む手はガタガタと震えていた。けれどなぜいま、自分がここにいるのかがわからない。ここはこの辺りでもかなり交通量が多い場所で、深夜でもそれは変わらない。ひと気の少なさを見れば、電車などは既に終わった時間帯なのかもしれない。

「夢遊病? もしかしてよくあるの?」

「え、あ……いや」

 怪訝な顔をして首を傾げた彼の仕草に、ふっと我に返る。多分これは今日が初めてじゃない気がする。薄暗いぼんやりとした記憶が頭の片隅に浮かんだ。

「家まで送るよ。さすがに家は覚えてるよね?」

「ああ、でも一人で帰れる」

「じゃあ、タクシーを拾ってあげるよ」

 そう言って通り過ぎようとしたタクシーに上げた彼の手を、僕はとっさに掴み引き下ろした。彼の手を握る指先がまたカタカタと震え出す。それを抑えるようにぎゅっと強く力を込めた僕を、彼はまっすぐな瞳で静かに見つめている。

「いい、タクシーは、歩いて帰るから」

「近いの?」

「……そんなに、遠くない」

 あの日からなぜかタクシーに怖くて乗れない。僕が事故に遭ったわけでもないのに、乗るとひどいめまいや吐き気に襲われて、どうしても乗れないのだ。

「じゃあ、やっぱり家まで送るよ」

「まっ、待って! 君は、誰だ」

 なんの躊躇いもなく僕の手を握り、歩き出そうとする彼を引き止めた。僕の声にゆっくりと振り向いた彼に覚えはない。
 どことなく少年っぽさを感じさせる顔立ちだが、切れ長の瞳に含まれる光は大人びていて、背の高い彼に見下ろされると思わずドキリとしてしまう。目の前にある瞳をじっと見つめる僕に、彼は少し困ったように笑った。

「ああ、知らないのは当然。俺が一方的にあなたを知ってるだけだから」

「……なんで?」

「六月十日、いまから四日前。あの日もいまみたいに死にそうな顔をしてた」

 彼の口から出た日付に、心臓の辺りがひやりとして止まりそうになった。それはあの事故があった日だ。

「一人でいつまでも待合室にいたから気になって。それとその前に色々と話を聞いてしまったから、余計かな」

 顔を強張らせた僕に気づいたのか、彼はすまなそうな顔をして僕の髪を優しく撫でる。その感触に彼女のぬくもりを思い出して、ひどく胸が苦しくなった。けれど思わず目を伏せたら、彼は繋いだ手を強く握りしめてくれた。

「ごめん、思い出したくなかったよね」

「……いや、大丈夫」

 繋がれた手を優しく握りしめられて、張り詰めていた心臓がほんの少し緩やかな音に変わる。手のひらから伝わる温かさにひどく安堵してしまった。
 彼は不可思議な雰囲気の持ち主だと思う。柔らかな笑みと彼の持つ穏やかな空気が、傍にいるだけで気持ちを落ち着かせる。

「君はそこで、なにをしていたんだ」

「……立ち聞きしたのは、怒らないの?」

 僕の問いかけに、彼は不思議そうな顔で首を傾げる。確かに人の家庭の事情に首を突っ込まれるのはいい気はしない。でもそれよりも、なぜかいまは目の前にいる彼のことが気になった。

「まあ、人の家の事情を聞いておいてこっちは言わないっていうのは、ずるいか。じゃあ、歩いて話そう。少し身体が冷えてる」

 ふいに笑った彼の表情に驚いていると、肩先が急に温かくなった。柔らかな香りが鼻先を掠め、慌てて彼を仰ぎ見ればまたふわりと微笑まれる。
 いつの間にか、彼の着ていたジャケットがしっかりと僕の肩にかけられていた。そしてそれに満足したように笑い、彼は再び僕の手を取り歩き始める。

「あの日の晩に、あそこで俺の父親って人が死んだんだ」

「え?」

 ひどく重たい出来事なはずなのに、まるで世間話のような軽さで話す彼の声に驚いた。けれど彼はそんな僕に肩をすくめて笑う。

「とは言っても、家には俺が生まれてずっと、父親をしていた人もいる」

「……それって」

「家にいるのは血の繋がらない父親で、死んだのは血の繋がりがある父親。いきなり呼び出されたあそこで、そんな人がいるってことを初めて知ったんだけどね」

「そう、だったんだ」

 ふいにどこか遠くを見つめた彼の思いが、いまどれほどのものなのか僕は知る由もない。けれど彼の揺れた瞳を見た瞬間、僕は思わず強く彼の手を握りしめていた。

「正直、そんなことはどっちでも構わないって思った。けど、俺が思う以上にそれは厄介なことみたいで」

 自嘲気味に笑う彼の表情に、先ほどまで見せていた少年らしさは欠片もなくて、胸が軋むように痛んだ。そんな笑い方、子供がするべきじゃない。それなのに彼の瞳は、人生に見切りをつけたみたいなひどく悲しい色を浮かべた。

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