邂逅12
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 けれどまた、不思議な巡り合わせで彼と出会った。彼を想うとそれと共に彼女の記憶が甦って来た。似たところなどない二人だったが、あの日の出来事と彼が密接な関係だったからだ。そしてあの日のことを思い出してしまえば、雪の降った夜に僕が追いかけたのは、約束を交わした彼だったのだとすぐに気づく。

 少し以前よりも大人びて、雰囲気や声質も変わっていたけれど、恐らく間違いない。でも、どうしたらまた彼に会えるのだろうか――そう思う心と、もう会わないままのほうがいいと、そう思う心が相反する。

 彼がもう覚えていない可能性は大いにある。もし本当にそうだとしたら、やはり僕は彼に近づかないほうがいい。いや覚えていたとしても、知らない振りをしたままでいるほうが、彼にとって都合がいいかも知れない。
 彼の幸せを壊すような真似だけは、絶対にしたくない。

「先生、西岡先生!」

「……っ」

 ふいに肩を叩かれ身体が軽く飛び上がる。そんな自分の反応で我に返れば、いつの間にか紙を数えていた手が止まっていることに気づく。

「大丈夫ですか」

 急にびくりと肩を跳ね上げた僕に驚いたのだろう。間宮が目を丸くしてこちらを見つめていた。

「ああ、間宮先生か。大丈夫、ちょっとボーっとしてた」

 心配そうな顔で人の顔を覗き込む間宮に、僕は誤魔化すように笑って、手元の紙を数え直した。

「体調は大丈夫ですか? 倒れて病院に運ばれたって聞いたんですけど」

「ん、平気……風邪、こじらせただけ」

 噴出した記憶と感情の断片にやられて、入院してましたとはさすがに言えない。しかしそのせいで今日も正直言えば危うかった。無理を言って昨日退院してきたのだが、まったく準備という準備に僕は携わっていない。

「……そうですか。あ、もう試験場のほうには生徒さんたち集まってるみたいですよ」

「そうか、もうそんな時間か」

「今年は大丈夫でしたけど、いつだったか雪が降って、電車が止まったりなんてニュース見た覚えがあります」

「あったなぁ、そんなこと」

 そっと戸の隙間から廊下を覗けば、試験場の外にある廊下でひどく難しい顔をしている子たちがいた。頑張っている子たちすべてが合格すればいいのにと、毎年そう思わずにはいられない光景だ。

「余計なこと、考えてる場合じゃないよな」

 ぼんやりとした頭のままでいると、上手く行くものも行かなくなる。それでは頑張っているあの子たちに申し訳ない。

「少し外に出てくる。十五分前には戻る」

「大丈夫です。ちゃんと見ておきますから」

 風邪と入院ですっかり不在になってしまった僕の補佐に任命された間宮だったが、相手が僕とわかっていたせいか、渋ることもなく快諾したらしい。その話を聞いた時はわかりやす過ぎるとつい笑ってしまったが、おかげでこちらは気持ちが軽くて助かる。

「ああ、いい天気だ」

 外に出て空を見上げると、雲を押し退けたような青空で太陽がキラキラと輝いている。夏のそれとは違うどこか柔らかい陽射しは、たまらなく気持ちがいい。僕は腕を上げて思いきり伸び上がった。

「ん?」

 ぼんやりとしばらく空を眺めていたら、ふと視線の端に人影が横切る。それに気づきその先を見つめると、見知らぬ制服を着た男子生徒が目の前にある一際大きな木を見上げていた。まだ芽吹く前のその桜の木の下で、彼はただ静かに佇んでいる。

「……」

 きっと彼は受験生だろう。試験前にひと気のないところで気を落ち着かせる生徒もよくいる。
 下手に声をかけて、気を散らすような真似をしては余計なお世話だと、僕はそのまま後ろ姿を横目に通り過ぎようとした。けれど僕はそれが出来ずに思わず立ち止まってしまった。

「え?」

 彼の視線の先でふわりふわりと風に舞うそれに、僕は目を疑った。白い小さなそれは間違いなく受験票だ。しかし彼はさして慌てる様子もなくそれを見つめていた。優しく吹かれていた紙が、急に強くなった風に煽られる。

「……あっ」

 思わず漏れた声。その声に気づいたのか。それとも風に吹かれたそれがひらりひらりとこちらへ向かって来た――ただそれを目で追っていただけなのか。
 彼はゆっくりと振り返った。

「ユ、ウ?」

 僕の口元から呼び慣れない名前が紡がれ、舞い降りてきた白い紙が僕の手に落ちてきた。一瞬目を疑った――まさかそんなことがあるのかと、思わず自分の目を擦ってしまった。

「受験生、だよな? これもしかして君の?」

 じっとこちらを見る彼は、やはりあの日会ったユウと呼ばれていた青年によく似ている。でも、制服姿のせいかどことなく違うような気もする。立ち尽くしたまま動かない彼に受験票を差し出せば、腕がゆるりと持ち上げられ指先がそれを掴んだ。
 そして僕は、気づけばその指先をじっと見つめていた。長くて綺麗な指。彼の手はやはり少し見覚えがある、男らしい大きな手だ。

「そ、そろそろ始まるから、会場に行ったほうがいいぞ」

 受験票を受け取りゆっくり離れていく手の動きに、僕は慌てて視線をそらすと、ひどくぎこちない動きで受付口のほうを指さした。

「……」

 そのあいだも彼はじっと僕を見つめたまま、視線を動かさない。

「え、ちょ」

 見られている意図がさっぱり理解出来ず首を傾げると、急に彼の指先が頬に触れた。そして驚き戸惑っている僕の目の前に彼が歩み寄る。そこにはもうほとんど距離がない。

「このあいだ、風邪は引かなかった?」

「風邪?」

 ぽつりと呟くような声に僕は首を捻った。

「ああ、あのあとは少し長引いたけど、平、気って、え、なんで」

「ん?」

「ちょっと待った、嘘だろ? やっぱりそうなのか?」

 なに気なく答えかけてその矛盾に気づいた僕は、思わず目を見開いた。けれど彼はそんな僕に訝しげな顔で小さく首を傾げるだけだった。

「いや、待て……おかしい」

 不思議そうに瞬いた彼の表情が、思いのほか少年らしくて可愛いと思っても、それにどんなに見惚れそうになろうとも、僕の頭の中ではあの場所とこの場所のギャップで大いに混乱していた。

「いま、中学生……だよな」

 ここに受験しに来ているのであれば当たり前過ぎるほど、当たり前な質問だ。例えば驚くほど彼が浪人していれば別な話だが、正直言えばうちは偏差値は低くないけれど、そこまでして入学するような進学校ではない。
 そしてそんな僕の心情を察したのか、彼は少しわずらわしそうに眉をひそめた。

「先生、だったんだな」

「悪いか」

「別に、そんなつもりで言ったんじゃない」

 ため息交じりで肩をすくめられ、ムッと顔をしかめてしまった僕に、彼は微かに苦笑いを浮かべる。

「……少し変わった」

 こちらをじっと見つめるその視線に、思わずため息が出る。しかし僕の小さな呟きは彼に届かなかったのか、先ほどと変わらぬ表情で彼は僕を見ていた。
 やはり以前よりも口数が減って、表情が乏しくなったように感じるのは気のせいじゃない。家の事情もあの日、聞きはしたがあれから彼はどうしていたのだろう。

「先生」

「え?」

 急に声をかけられて、あからさまに身体が跳ね上がった。

「名前は?」

「あ、ああ、名前? 西岡、西岡佐樹。ここに入れば、そのうちまた聞くだろ」

「……そうか」

 突然名前を聞かれ戸惑っていると、彼はふっと頬を緩めて笑った。
 その表情に、大袈裟だが思わず時が止まった気がした。ふいに見せたあの頃とまったく変わらないその笑み、それにひどく胸が痛くなった。

「……」

「どうかした?」

 やはり、彼はもう覚えてはいないのだろうか。あれから随分と経った。そしてあの晩も彼はなにも言わなかった。きっとそうなのだろうと、思うだけで泣きそうになる。

「まだ調子が悪い?」

 そう言って頬を両手で挟み込み、僕を見下ろす彼の視線にさらに胸が痛くなる。
 言葉にしてしまいたくなった。あの日のことを思い出して欲しくて、思わず彼の腕を掴んでしまう。

「相変わらず、可愛いね」

「……かわ、いい?」

 ふいに眉をひそめた僕を見て彼は至極優しく笑い、またあの時と同じ場所に、僕の頬に口づけた。

「待って、待った、ストップ」

 そしてあの時と同じように僕の心臓が大きく跳ねた。けれど彼は一向に手を離してくれる様子はなく、耳元で鳴るその心音にひどく焦る。

「西岡先生」

「え?」

 突然呼ばれ、僕は間の抜けた返事をした。

「……好きだよ」

 そして彼の言葉に瞬きをしたほんの少しの隙をつかれ、唇に触れたぬくもりに僕は固まった。目の前に見える伏せられた瞳と長い睫毛――優しく重ねられた唇。

「風邪、また引かないように」

「……」

 優しくて柔らかな声が耳元を掠め、両手の代わりにふわりと彼の香りをまとったぬくもりが頬に触れた。けれどその正体に気がつく前に、彼の背中は僕から遠ざかっていった。

「ん、え……これ!」

 我に返り、首元に巻かれたマフラーに気づいた時には、もうそこに彼はいなかった。

「ちょっと待て、いまのは?」

 いまのは、覚えていた? そういうことなのか?
 あ然として立ち尽くす僕の手の中で、風に吹かれたマフラーがふわりと揺れる。

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