邂逅14
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 藤堂に触れると無条件に安心してしまう。そのたび、本当に自分は彼でなければ駄目なのだと思い知る。こうして藤堂と一緒にいるようになるまで、出会いがなかったわけじゃない。
 でも藤堂に初めて会った時のような、一緒にいたいという気持ちにはならなかった。

「佐樹さん、もう少しだけ我慢して」

 道の真ん中で抱きついてしまった僕に、藤堂は困惑した笑みを浮かべながらやんわりと腕を解いた。そしてそのまま再び僕の手を取ると、それ以上はなにも言わずまたこちらに背を向けて歩き出す。

「藤堂?」

 足早なその歩調にいささか戸惑いつつ、僕は藤堂の背中を見つめあとに続いた。しかし無言のまま歩く藤堂に不安を覚え、繋がれた手を握りしめてしまった。

「なあ、怒ってないか?」

「怒ってませんよ」

 落ち着きのない僕に藤堂は振り向きはしないものの、その手を強く握り返してくれる。

「……そうだよな、悪い」

 決して怒っていないことも、機嫌を損ねていないことも、彼の背中を見ていればわかる。けれどなにか言わないと、さらに不安が募ってしまう。

「勝手なこと言って」

「佐樹さん」

「なに?」

 しかしなおも言い募ろうとした僕を見かねたのか、急に振り返った藤堂に勢いよく腕を引かれ、道路脇にある建物の隙間に身体を押し込まれた。二人そこに立つのがやっとなその隙間で、向かい合ったまま藤堂を見上げると、ぶれることなく視線が合い一気に頬が熱くなる。

「な、なんだ?」

 なにも言わずにじっと目を見られ、思わず動揺で声が上擦る。

「なにか、言えよ。不安になるだろ」

 うろたえ、目がさ迷うのを誤魔化すように制服の裾を掴むが、自分の手が小さく震えているのに気づき慌ててそれを離した。

「俺は、怖くなって……逃げたんです。あなたから」

「え?」

 急にぽつりと小さな声で呟いた藤堂に、思わず首を傾げてしまった。しかしふいに泣き出しそうな表情を浮かべた彼を見て、僕はとっさに両腕を伸ばしていた。

「またそうやって、すぐ自分の中に全部飲み込もうとする」

 彼がこの表情を浮かべている時は、決まってなにかを言い澱んでいるか、謝ろうとしているかのどちらかだ。
 そっと両頬を手のひらで包めば、藤堂はその上に自分の手を重ねて目を閉じた。

「普通に結婚していて、父親にもなろうとしていた……そんな人を、俺なんかが本当に繋ぎ留めていいのか、急に不安になったんです」

「……覚えてたのか」

 あの雨の記憶がふいに脳裏を過ぎった。藤堂は全部覚えている――全部知っているんだ。

「一度も、忘れたことはないですよ」

「そうか」

「でも、本当はあんなことを言うつもりも、するつもりもなかった。ほんとに言い逃げもいいとこですよね」

「……」

 ゆっくりと瞼を持ち上げた藤堂の瞳に、薄らと自分の姿が映った。肩をすくめ小さく笑いながらも、いまだ寂しそうな目をする彼に、心臓の辺りが針で刺されたみたいにチクリと痛む。

「……馬鹿、笑うなよ。お前のほうがよっぽど泣きそうだ」

 初めて出会ったあの日から、もう五年近くになる。あれからずっと忘れずにいてくれたのだと思うと、嬉しさが胸にこみ上げた。でもそれと同時に、ずっと一人で想いを抱えていた藤堂のことを思えば寂しさで胸が苦しくなる。

「俺はあなたをずっと見てきたから、それだけでも幸せだった。佐樹さんは一人でも寂しくなかった? 平気だった?」

 重ねられた藤堂の手が微かに震えている。どうして彼は自分のことじゃなくて、人のことを先に考えてしまうのだろう。

「寂しかったよ。お前にもう会えないかと思った」

 消え入りそうなほど小さな笑みを浮かべた藤堂の頬をさすり、僕はそこに口づけた。

「すみませんでした。俺、会うのが怖かったんです。佐樹さんに避けられたら、嫌われたらどうしようって思ったら、会いに行けなかった」

「そんなこと謝らなくていい」

 彼は甘え方を知らない。
 きっといままで人に弱みを見せたり、甘えたりしてきたことがないからだ。だからこそ自分を支えられなくなりそうな土壇場で、自分を守ろうと無意識に身を引く。

「でも自分で逃げ出したのに、まったく忘れられませんでしたけどね。佐樹さんと初めて会って、別れてから、忘れようって何度も思いました。でも佐樹さん以外の人を心から好きにはなれなかった。色々試してみたけど、無理でした」

「……試すって」

 苦笑いを浮かべ、肩をすくめた藤堂に思わず僕は口ごもってしまった。以前の藤堂は男女問わず色々な人と一緒にいた、そう三島に聞いてはいたが――それがそういう理由だったとは思いもしなかった。

「だから、女の子とも付き合った?」

「もしかして、あずみか弥彦に聞いたんですか?」

「ん、まあ。そんなところ」

 眉をひそめた藤堂の表情に、言葉が詰まる。余計なことを言ったかもしれない。しかし気まずくなり視線をそらした僕を見た藤堂は、ふっと目を細めて笑みを浮かべた。

「誰と一緒にいても、まったく気持ちが動かないから、もしかしたらそっちもありかとか思ったんですけどね。それこそなしでした」

「馬鹿、なんでお前はそういうことするかな」

 自分のせいだとわかっていても、その事実が複雑過ぎて胸の辺りがモヤモヤしてしまう。

「すみません」

「謝られても微妙だ」

 別にその頃は付き合っていたわけでもなく、浮気されたわけでもない。

「でも、佐樹さんが俺のことを覚えてるなんて思わなかった。もっと俺に勇気があれば、佐樹さんに寂しいなんて思わせることはなかったんですよね」

「お、覚えてると言っても、半分は忘れていたみたいなものだし」

 僕の記憶は忘れては思い出し、また忘れてまた思い出すという、あまりにも断片的な記憶だ。ずっと忘れずにいてくれた藤堂と比べるのは、あまりにもおこがましい。

「でもいまもこうして佐樹さんが気づかなかったら、俺はずっと知らない振りをするつもりだった」

「……それはいいって、さっき言っただろ。昔のことは覚えてなくてもいい、いまとこの先があればいいって」

 ふいに表情を曇らせた藤堂の頬を軽く叩くと、添えた手のひらに口づけられた。

「いまとこの先は、全部佐樹さんのものだよ。前に俺、言いましたよね?」

「そ、そうだけど」

 くすぐったさと気恥ずかしさで、ほんの少し肩が跳ねる。しかし手を離そうとすればそれを察した藤堂に、指先を強く握りしめられてしまった。

「佐樹さん」

「ん? なんだ」

「好きだよ」

「……知ってる」

 まっすぐな眼差しで告げられた言葉に、情けないくらい頬が緩む。そして僕はそれを誤魔化すように、握られた手を解いて藤堂の頭を肩口へ抱き寄せた。

「やっぱり、本当に謝らなくちゃいけないのは僕のほうだな」

「どうして、佐樹さんが謝るんですか」

「二年前、逃げたのは藤堂じゃなくて僕だ。ちゃんと言えばよかった。会いたかったって、約束を覚えてるかって、僕がお前に聞けばよかったんだ」

 それなのに自分が傷つくのが怖くて、僕は逃げた。勝手な理由をつけて、これは仕方ないことなんだとすべてなかったことにした。
 そうでなければ二年前の藤堂に気づいて、いまの藤堂に気づかないはずがない。

「藤堂はなにも変わってなんかないのに、気づかないなんて最低だろ」

「……」

「まあ、ちょっと雰囲気とか見た目とか話し方とか違うけど」

 髪を梳く僕の手に戸惑った様子を見せながらも、抱き寄せられた不安定な体勢のまま、藤堂はじっと動かずにいる。そんな彼が愛おしくて仕方がない。

「ああ、ほんと情けなくて自分に呆れる」

「急にどうしたの?」

 大きなため息をついた僕に、藤堂は身じろぎして身体を起こそうとする。

「言ったこと撤回する」

「……言ったこと?」

 藤堂の優しさも、自分を見る目も、名前を呼ぶ声も、昔となんら変わりはない。

「二度と忘れないってことも、あれからずっとお前しか好きじゃないってことも本当だけど」

 整えられた彼の髪を指先で散らしてから、ゆっくりと身を離すと、僕はまっすぐな視線をわずかに遮る眼鏡を抜き取る。そこにはずっと感じていた違和感の正体があった。
 外で会う藤堂は、二年前の彼と雰囲気が似ていた。そしてそれに僕は気づいていたのに思い出さなかった。見た目が違ったらわからないのが当然だなんて、言い訳も甚だしい。どれだけ僕は自分本位なのだろう。わからなかったんじゃない。わかろうとしなかったんだ。

「どこにも行くなとか、一方的で勝手なことはもう言わない」

 僕はいつも、誰かがなにかをしてくれるのを待ってばかりで、その癖まったく堪え性がなくて、藤堂には求めてばかりいる。いなくならないでくれと縋る前に、ちゃんと彼を掴まえてあげなければならなかったのは僕のほうだった。

「でも僕はお前のことが好きだし、もうほかの誰にもよそ見はして欲しくないんだ」

「俺はあれからずっと佐樹さん以外、見てないですよ」

 無意識に藤堂の袖口を握りしめていた。そんな僕の指をそっとそこから解くと、彼は優しく手を繋いでくれる。

「どうしたら伝わるかな」

「わかってる、わかってるからこそこの先、藤堂の気持ちが離れないように、努力もするし、ちゃんとこれからのことも考える……だからお前の傍にいさせてくれ」

 自分の弱さで、もう二度と大切なものを失いたくない。

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