予感02
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 まだひと気も少ない早朝。準備室へ続く渡り廊下の手前で二つの手が振られ、俺は軽く片手を上げてそれらに返事する。

「じゃあね」

「優哉、また教室でね」

「ああ」

 これは最近のよくある場面。いままでは時間がギリギリでそんな余裕などなかったが、近頃は早起きに苦がなくなり清々しいとさえ思う。

「人間、慣れればなんとかなるもんだ」

 寝起きの鈍さはいまだにあるものの、彼を思えば毎日苦痛だった朝がいくらかマシに思えてくるのだ。片手にぶら下げた紙袋を見下ろし、いままでの自分を振り返れば、自分のことながら思わず苦笑いしてしまう。

「……先生」

 けれどなんとなく浮ついた気分のまま準備室の前に立った俺は、開け放された戸をノックしかけ固まったように動けなくなった。
 自分だけを信じて欲しいと言った彼を、信じていないわけではない。ただ彼は自分へ向けられる感情にほんの少し鈍くて、それを見ているとすごく焦らされることが多い。それが故意ではないということはわかっている。だからこそ一人慌てふためくことも馬鹿馬鹿しいのだと、そんなこともわかってはいるのだ。
 けれど――。

「やっぱり俺、この人に試されてるのか」

 そんなことは絶対にありえないとわかりつつも、重たいため息がもれた。

「ん? あ、おはよう」

 ぽつりと呟いた俺の独り言に気がついたのか、彼はいつもと変わらぬ笑みを浮かべて振り返った。

「おはようございます」

「どうした?」

 でも俺の心情などまったく気づいていないのだろう。柱にもたれ頭を抱える俺に、彼は不思議そうに首を傾げる。

「なんでもありません」

 どうしてそんなに無防備なのだろうか。

「あっ」

 俺がため息をついたのと同時か、驚きと戸惑いを含んだ小さな声が響いた。
 突き刺すような視線を向けていた、俺の気配に気がついたのだろうか。彼の隣に座っていた子が慌てて立ち上がった。机の上に広げたノートと教科書を忙しなく閉じると、ペンケースが転がり落ちて床にその中身が散った。

「大丈夫か?」

 そしてしゃがみ込んだ彼女と向かい合うよう屈んだ彼を、気づけば俺は目を細めて見下ろしていた。そしてそんな視線に気づくのはやはり彼ではなく。

「だ、大丈夫ですっ。あり、ありがとうございましたっ」

 上擦った声でそう言って、彼女は散らかった物をかき集め準備室から飛び出していった。

「藤堂? ちょっと顔怖いぞ」

 ため息交じりに立ち上がった彼が、俺の顔を見ながら困ったように眉をひそめる。

「すみません」

「別にちょっと勉強みてただけだぞ」

「わかってます」

 そうでなければ部屋の戸を開け放したままでいるわけがない。しかし女子生徒への配慮だろうが、彼女がそんな配慮を望んでいたかは甚だ疑問だ。不必要なほど寄せた椅子も、俯く彼を覗き見るあの視線も、その内側にあるものを容易に想像させた。
 杞憂だとわかっていても、彼の隣はいつだって自分の物なのだと声に出して主張したくなる。

「怒ってる?」

「いえ、別に」

 見ているだけの頃はこんなに俺は嫉妬深かっただろうか。
 いや、見ていられるだけで充分と諦めていた。彼に触れてはいけないのだと、自分に言い聞かせていたんだ。でもいまは、この人を手に入れて欲深くなってしまった。もっともっと――と彼を誰かに見せることも、触れさせるのも惜しくなった。

「じゃあ、なんでいつまでもそんな怖い顔してるんだ?」

 真っ黒な俺の嫉妬心に気づいているのか、いないのか。開け放したままだった戸を閉めて、彼はからかいを含んだ意地悪げな笑みを浮かべる。

「あなたがあまりにも無防備で心配になっただけです」

「ふぅん。そうか」

「なんでそんなに楽しそうなんですか」

 目の前で俺を見上げる彼の目がやんわり細められ、口元がふいに緩んだ。その表情に眉をひそめれば、ますます楽しげな顔をする。

「結構、藤堂のそういう顔好きだなと思って」

「あの、言ってる意味がよくわからないんですけど」

「ん、笑ってる顔が一番好きだけど、そういう本気な感じがちょっと、優越感? なんか嬉しい」

「……」

 どうしてこんなに無自覚なんだろう。その一言が俺の気持ちを煽るというのに。
 無邪気に笑うその顔を見ていると、先ほどよりもずっと激しいめまいを感じて、一瞬気が遠くなりそうになった。そして彼は俺のそんな気持ちを知ってか知らずか、小さく首を傾げて目を瞬かせる。

「ほんとに、俺を試してるんですか」

「え?」

 その仕草を見つめ返しながら息を吐いた俺は、それ以上の言葉が思い浮かばず諦めを感じて背を向けた。

「これ、今日のお昼。ここに入れておきますね」

「あ、ああ。うん」

 少し戸惑ったような気配を背中に感じたが、俺は振り返らずに机の横に備え付けてある小さな冷蔵庫の前にしゃがみ込んだ。

「あ、いつも悪いな。というか昨日は急に悪かった」

「大丈夫ですよ。まだバイト中でしたし、準備はしていなかったので」

「そうか」

 手にしていた紙袋の中身をすべて冷蔵庫の中に入れ、どんどんと小さくなる声を訝しく思いながら振り返ると、思いのほかすぐ傍にいた彼に言葉が詰まった。

「なにか、あったんですか?」

「いや、母親がしばらく泊まることになってさ。一緒に住んでる姉さんが長期出張とかで、そのあいだ一人も危ないから、うちにいてもらうことにしたんだ。お前にロクな説明もなくあんなメールして悪かった」

「そうだったんですか」

 滅多に連絡をして来ない彼から、昨日の夜にメールをもらった。しばらく夜の分は作ってくれなくていいという内容だったが、そういう理由かと少しほっとしてしまった。

「迷惑だと感じることがあれば言ってくださいね」

「え?」

「俺が勝手にしていることですし」

 まともな食事をしようとしない彼に、なりゆきで昼と夜の食事を用意するようになった。最初は申し訳ないと言っていた彼も、近頃は素直に受け取るようになってくれた。でも強引な自分の行動で気を使わせていないか、少し不安もある。

「迷惑どころか、すごい助かってるぞ」

「そうですか。よかったです」

 大きく顔を左右に振って俺をじっと見つめる彼に、笑みを浮かべて見せればほんの少し頬が桜色に染まる。そしてそんな表情の変化に驚きながら立ち上がると、急に袖を掴まれた。思わず俺はその手と、彼の顔を何度も見比べてしまった。

「どうしたんですか」

「あ、いや……別に」

「別に?」

 歯切れの悪い彼に俺は首を捻り、俯いた顔を覗き見た。するとその視線から逃げるようにして、彼は俺の胸元へ顔を埋めてしまう。

「……わざとなんですか。俺はそんなに我慢強いほうじゃないですよ」

 以前から見れば随分と忍耐力がついた気はするけれど、それでもこんな風に近寄られると、どうしても触れたくなる。

「佐樹さん」

 ここでは呼ばないと約束をしている彼の名を、あえて耳元で囁いた。その瞬間ぴくりと震えた肩がたまらなく可愛くて、こめかみに口づけてしまう。けれど今度は背に腕を回し抱きつかれた。

「え、ちょっと……佐樹さん?」

 我に返って離れるだろうという予想を裏切るその行動は、戸惑う俺などお構いなしだ。それどころか離れまいとするように、抱きつく腕の力をさらに強くする。

「ほんと適わないな」

 自分から学校ではスキンシップは禁止だと言うわりに、いざとなるとこうして触れてくるのはいつも彼のほうだ。

「どうしたんですか? なにかあったんですか」

 でもそれは決して口にはしない彼の寂しさの現れ。そしてそれを読み取るたびに、自分の器の小ささを感じてしまう。どうしてこんなにも近くにいるのに、この人に不安を感じさせてしまうのか。自分はまだ彼の頼りにはならないのかと、少し悲しくなる。
 彼の心の奥にあるしこりは俺が傍にいるだけでは消えないくらい大きく、優し過ぎる彼をいまだに苦しめているのだろうか。

 それとも――俺の存在が彼を不安にさせているのだろうかと、そう思うたびにいつもいまはもうこの世にはないはずの影がちらついて、その大きさを思い知らされる。
 出会うのがあの人より早ければ、もう少しだけ俺が早く生まれていたら、俺はこの人を救えただろうか。

「ちゃんと俺を見てください」

 以前よりずっと素直でまっすぐで雰囲気も柔らかくなったと思う。でも時々、一人でまだなにか抱えるみたいに不安げで揺らめいて見える。
 自分だけを見てと思うことは、彼を困らせることだろうか。

「佐樹さん」

 指先を顎にかけて俯いた顔を持ち上げれば、赤く染まった頬と少しだけ潤んだ目がこちらを見た。その目に映る自分を見ると少しほっとする。

「これはどっちが正解ですか」

 黙ったままの彼に首を傾げて見せると、泳いだ目が伏せられた。そしてそれが合図であるかのように、俺は彼の身体を抱き寄せてその唇を優しく塞ぐ。

「……ん」

 ほんのわずか鼻先から抜けた甘い声に気をよくして、さらに深く押し入れば切なげに眉を寄せた彼の指先に力がこもる。
 時折こうして甘えてくる彼が可愛くて愛しくてたまらない。とことん甘やかして、彼のすべてを溶かしてしまいたい。ずっとこの腕に閉じ込めておきたいと思う自分は、やはり我慢強さなどというものからは、ほど遠い気がした。