予感07
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 室内に珈琲の香りが広がる。備え付けのコーヒーメーカーは備品の安物だけれど、手挽きのミルで豆を挽くので香りも味もいい。中でも鳥羽が淹れる珈琲が一番美味しいのだ。

「ねぇ、ちょっとゆかりんっ、これ激アツなんだけど」

「あら? ナナちゃん熱いの好きよね?」

「またそーやって意地悪する……俺は猫舌だってば」

「そうだったかしら?」

 鳥羽のいたずらに野上が悲鳴を上げた。涙目になりながら火傷したらしい舌を出す野上に、鳥羽は至極楽しそうに笑う。相変わらずのいじられ役な野上は、その反応にガックリと肩を落とすと、冷水を柏木からもらい小さくぶつぶつと文句を呟く。

「もー、会長もゆかりんもドS過ぎっ。俺の身が持たないっつーの。マジ痛いんですけど」

 のほほんとしたところが神楽坂に似ているせいか、野上のその姿は何となく既視感を覚える。そう思うとつい笑ってしまうがなんとも可哀想な二人だ。
 賑やかな空気にほんの少し脱力していると、自然と笑みが浮かんでくる。それはふいに遠ざかっていたものが近づくような感覚。この雰囲気は以前、自分のクラスを持っていた頃を思い出させる。

「……懐かしいな」

 そんな無意識な感情に気がつきほっと息をついた僕の前に、青い水玉模様のマグカップ置かれる。それを目に留めて僕の胸は少しまた寂しさを覚えた。

「はい、西岡先生」

 僕のそんな気持ちに気づいているのかいないのか。峰岸からやっとのことで逃げ延びて、長机に上半身を預けていた僕を覗き込むように鳥羽は身体を傾ける。じっとマグカップを見つめていた僕はその視線に顔を上げた。

「先生のマグカップ、これからは使う機会が少なくなってしまいますわね」

 やはり心のうちを読まれていたのか、やんわりと目を細めて鳥羽は小さく微笑む。
 どうしていまの子たちはみんなこうも聡いのだろう。それともいまの僕はそんな簡単に悟られるほどわかりやすい顔をしているのか。でも面倒くさいと思うことはよくあったが、寂しいと思うことは最近まで少なかった。いつの間にか忘れていた寂しいという気持ちを、いまになって思い出したのかもしれない。それが誰のおかげかと考えれば浮かぶのは一人。

「いっそセンセうちの顧問代わるか?」

 物思いにふける僕に峰岸のからかいを含んだ声がかけられる。しかしそれに乗じ――あら、いいですわねと、軽やかな笑い声を上げた鳥羽からはちっとも冗談が感じられない。正規顧問の間宮の立場がなんだか物悲しいが、思わず堪えた笑いが僕の喉を鳴らした。

「でも俺がいるあいだだけだぜ」

 いつの間にか抜けた肩の力。それを見計らったように再び峰岸は笑みを浮かべ、小さく丸めた紙くずを僕に向けて放った。放物線を描くそれを見ていたら、コツンとまた僕の頭に命中した。

「九月には解散して新しくなるんだよな」

 生徒会の任期は九月の始め頃までだ。生徒総会が終わり新しい生徒会のメンバーへ引き継がれる。三年生は会長の峰岸と副会長の鳥羽、ここにはいない会計の女子生徒の三人。この三人はあとわずかな任期で、残りの野上を始めとする二年生たちや生徒会補佐の柏木などは、自薦他薦の選出なので役職が変わっても次の生徒会に引き継がれる可能性は高い。

「そ、だから俺がいるあいだだけな」

「マミちゃんは顧問補佐で」

 ニヤニヤと笑う峰岸と笑いを堪えながら口元を緩める鳥羽。二人の表情に思わず肩が落ち、ふっとため息を吐いてしまった。
 自由気ままで自分主義なのに意外と優しい百獣の王と、ふわりふわりとした柔らかい雰囲気を醸し出すが、口を開けば凍るような毒を吐く清楚可憐なお姫様の性格は、真逆だが根本的に似過ぎていた。

「そんな扱いじゃ間宮先生も可哀想だろ」

「西岡先生の下で仕事が出来るなら、あの人手放しで喜びますよ」

 二人の態度に一応後輩でもある間宮をフォローするが、間髪入れずに柏木はどこか呆れたように呟いた。

「マミちゃんニッシー信者だよねぇ」

「信者って、なんだそれは」

 眉間にしわをよせる柏木とへらりと笑う野上を見比べ、僕は首を傾げて見せる。確かに懐かれている気はするが教祖になった覚えはない。

「あの人、西岡先生が代理顧問になったのを知ってからずっと、帰ると先生のことしか聞かないですよ」

「へ?」

「マミちゃんはみーくんの叔父さんなんだよ」

 柏木の言葉の意味がわからず首を捻れば、至極楽しげに笑う野上がすかさず僕の疑問に答えてくれた。しかし野上と反して複雑げな柏木の表情はどこか嫌そうだ。

「だから補佐に入ったのか。いまの生徒会はフルメンバーだし珍しいなと思ってたんだ」

 生徒会の役職は生徒会長一人、副会長一人、会計と書記が二人ずつがうちではフルメンバーだから、人数を補う生徒会補佐が加わるのは少し珍しい。しかも一年生から。

「うちの父の弟なんです」

「そうか、実家暮らしだったな」

 いつだったか間宮は上に出来のいい兄がいて肩身が狭いと、ぼやいていたことがあった。柏木の父親か、なるほどと頷けるような気がした。しかしふぅんと、納得しながらマグカップの珈琲をすすりかけ、野上の言葉に思わずむせた。

「ニッシーって男受けいいよね」

「……っ」

 吹き出しそうになった珈琲はなんとか堪えた。手元の書類が茶色に染まるのはなんとか防げたが、気管に入りかけた珈琲が痛い。

「会長でしょ、マミちゃんでしょ、英語の飯田でしょ。あ、藤様もニッシーお気に入りだよね」

 無邪気に名前を上げていく野上の口を塞ぎたい衝動にかられる。藤様と言えば、下級生のあいだで王子の次によく使われる藤堂のあだ名だ。

「あら? それなら同性も異性もですわね。西岡先生が好きな方は結構多いんですのよ」

 いまだ咳き込む僕の背をさすり、鳥羽は僕の顔を見つめてにこりと笑う。そのなんでも知っていそうな顔は、正直怖い。

「センセ、随分と敵が多いなぁ」

「それはこっちが責められることなのかっ」

 ポツリと呟き、ふっと目を細めた峰岸はどこか虫の居所が悪そうだった。お門違いな不服を申し立てられても困る。視線を合わせる峰岸と鳥羽のあいだに、不穏な空気が流れているのは気のせいにした。

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