波紋02
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 なにかが起きそうなのではなくて、もしかしたらすでに起きているのかもしれない。そう思ってしまうのはやはり藤堂の急な音信不通と、最近の峰岸の行動。様子のおかしかったあの日から、やけに僕へ絡んでくる。いつもの悪ふざけかとも思ったけれど、なんとなくいつもと違う気もした。
 峰岸ならなにかを知っているかもしれない。

「あ、れ? 峰岸はどこ行った」

 職員会議が終わり、いよいよ来賓の受付も始まる頃合い。生徒会室へ行くと、峰岸の姿が見当たらない。忙しそうに一、二年の実行委員たちと打ち合わせしている役員の中で、鳥羽が僕の声に気がつき顔を上げた。

「あら西岡先生、おはようございます。会長は休憩だと言ってふらりと出て行きましたわよ。多分屋上じゃないかしら」

「屋上?」

 鳥羽の言葉に僕は視線を室内から廊下の先へと向けた。
 生徒会室は三階で、廊下の端に屋上へと続く階段がある。基本出入りは自由なので、昼間などはよく弁当を開いている生徒の姿も見かける場所だ。

「そうか、ありがとう」

「あっ、西岡先生。会長に会ったらそろそろ戻るよう言っていただけます?」

「わかった、言っておく」

 戻ったら自分も手伝うと鳥羽に礼を言って、僕は少し早足に廊下を抜け屋上へ続く階段を駆け上がった。

 扉を押し開けば、青空から降り注ぐ太陽の光が視界に広がり、目が自然と細められた。

「峰岸? いるか」

 背の高いフェンスがぐるりと周囲を囲む広い空間。眩しさに片手でひさしを作り見渡すが、そこに峰岸の姿はなく、僕はさらに奥へと足を進める。すると配電盤室の日陰で腰かけ、壁に寄りかかっている峰岸の姿を見つけた。
 近づいてみると眠っているのか、腹の上で組まれた手が規則正しい寝息と共に上下している。

「まいったな」

 どこか疲れたような雰囲気がにじむその姿に、起こすのがあまりにも忍びない気分になった。野上のあの憔悴っぷりを見たあとでは、その対応に追われていただろう峰岸の疲弊も容易に想像がついてしまう。
 そっと傍に寄りその場にしゃがみ込むと、僕はいまだ寝ている峰岸の顔を覗き込んだ。

「藤堂もそうだけど、寝てるときはちゃんと歳相応に見えるんだな」

 いつもは大人びていてこちらが負けてしまいそうなほどだけれど、眠っている時は、眠っている時だけは大きな鎧を脱いだみたいに無防備で、その姿を見ていると安心出来てとても好きだった。
 たまに眉間にしわを寄せて寝ている藤堂の頭を撫でてやると、ふっと肩の力が抜けたみたいにそれが消える。それだけで不思議と幸せな気分にもなれた。

「……」

 無意識に自分の手を見つめていたことに気がつき、思わず大きなため息がもれた。その手が覚えているぬくもりや感触が消えてしまうことを、いまもまだ心のどこかで恐れている自分に気づいてしまう。

「どしたセンセ」

「あっ」

 ふいに伸びてきた手が僕の手のひらをぎゅっと強く握った。予想外の出来事に、思わず上擦った声を上げてしまった。顔を持ち上げれば、ゆるりと片頬をあげて笑う峰岸の視線とぶつかる。

「起きたのかっ」

 慌てて振りほどくように手を離してしまった僕に、峰岸は少しだけ苦笑いして壁にもたれた身体を起こした。

「いま起きた。そしたら泣きそうな顔してる可愛いのがいたから」

「と、鳥羽がそろそろ戻れって」

 弱りかけた自分のすべてを見透かされたような気がして、とっさに峰岸の言葉を遮り立ち上がると、僕は踵を返していた。急激に早くなった鼓動にさらに焦りが募る。

「待てよセンセ」

「……っ」

 校内へ続く扉の手前で腕を強く後ろへ引かれた。それに肩を跳ね上げ振り向けば、ため息をつく峰岸が僕を見下ろしていた。

「俺に聞きたいことあったんじゃねぇの?」

「別に」

「見たんだろ、名簿」

 核心を突く言葉にいやでも視線が勝手に泳いでしまう。それを誤魔化すように下を向けば、肯定したも同然であることに気づき肩が落ちた。そんな僕の腕を引き寄せる峰岸は、風にあおられた髪をかき上げながら、今日、何度目かわからないため息をついた。

「こんなんで大丈夫かよ。顔あわせて、ちゃんと知らない振り出来んの……あいつの母親に」

「峰岸は、なにか知ってるのか」

 その口ぶりは明らかになにかを確信しているようだった。でも無関心を装っていた藤堂の母親が、急にまたアクションを起こす意味が僕にはまったくわからない。

「あいつの母親が動いてるってことは、あんたにとっていいことじゃないのは確かだな」

「でも藤堂は親とはほとんど関わりがないって」

「関心がないから放ってるんじゃねぇ。そこに明確な意志があるんだよ」

 どこか苛立ちを含んだ峰岸の声にびくりと肩が震える。それと共に腕を掴む峰岸の手に力がこもり、身体は無意識に萎縮してしまう。
 確かに、思えば峰岸が藤堂と離れざる得ない状況になったのも、藤堂の母親が現れたからだ。彼女は一体なにを考えているのだろう。急に色んなことが起きているのは、もしかしたら僕とのことが?

「その様子じゃ、あいつからなんのフォローもないんだろ」

「それは」

 フォローどころか連絡さえつかなくなった。けれどいまそれを口にするのは躊躇われた。峰岸の苛立ちがさらに募りそうに思えたからだ。

「そんなんでセンセ幸せになれんの? よく言えば不器用って言えるけど、あいつのやってることは、俺から見れば自分勝手でしかねぇと思うけど」

 歯に衣着せぬ峰岸の言葉に胃の辺りがカッと熱くなった。ふっと湧いた怒りにも似た感情に戸惑いながら峰岸を見返すが、僕の視線など物ともせずに、呆れを含んだ眼差しが僕を見下ろす。

「それでも僕は」

「いい加減にしろよっ」

「……痛っ」

 ガシャンという音が背後で響く。勢い任せに腕を引かれた僕は、近くのフェンスに思いきり押し付けられていた。

「自分に言い訳してんなよ。不安でしょうがねぇんだろ? だからあんたはこうやって俺の前に現れてんだろが」

「なんで、峰岸がそんなに怒るんだよ」

 怒鳴りつけられて身がすくむけれど、泣きそうな顔で言われてはそれ以上の言葉をなくす。やはり最近の峰岸はいままで以上によくわからない。

「あんたら見てると苛々すんだよ」

「だからなんで……っ」

 一瞬のことだった。身構える間もなく、のしかかるように身体を押さえられ、言葉を喉奥に押し込まれた。
 唇に触れる感触とそれを割り入る生温い舌の感触にぞわりと鳥肌が立った。目を見開き驚きあらわにする僕などお構いなしに、それは無理やりに深く押し入ろうとする。何度も身をよじり抵抗を試みるが一向に離してくれる気配はなく、以前のような戯れではないのを感じ怖くなった。

 僕の身体をがっちりと抱きかかえる峰岸の胸を、押しても叩いても緩めてはくれず、さらにきつく抱きしめられた。次第に息するのもままならないくらい激しくなる口づけに、脳が酸欠を起こしてくらくらとしてくる。
 けれど思わず峰岸の制服の端を握れば、痛いほどだった腕の力が緩み、大きな手が優し過ぎるくらいそっと僕の髪を撫でた。

「峰岸?」

 ふいに離れた唇の感触。それにつられ視線を持ち上げると、先ほどまでの荒々しさなど感じさせぬほどやんわりと再び唇を重ねられた。

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