波紋09
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 午前の催しも終わり、いまは昼休憩。しかし休憩と言っても、学校サイドの僕らに休憩というわけではない。すぐそばにある教室の入り口からは、賑やかな話し声が聞こえてくる。中に入れば学校関係者や親族、それに伴われてきた人たちが広いはずの特別教室を埋め尽くしている。先ほどまでは僕もあの中に引き留められていたのだが、うまく交わし逃げ出してきたのだ。

「西岡先生!」

「ん?」

 慌ただしさから逃れ廊下の隅でぼんやりしていると、ふっと現実に引き戻された。

「先生、A備品の鍵持ってませんか?」

「え、ああ。持ってる」

 目の前まで走り寄ってきたのは生徒会補佐の柏木だ。彼はじっと見つめ返す僕に戸惑っているのか、訝しげな表情を浮かべた。そんな表情に僕は再び我に返って、誤魔化すように作り笑いをした。

「悪い、ちょっと幻覚を見た」

「は?」

 思わず呟いた僕の言い訳に、柏木はますますわけがわからないという顔をする。もちろんその意味はわからなくて当然だ。というより、気づかれても困る。
 柏木は顔立ちが藤堂に似ている割に、声はあまり似ていない。だから振り返った瞬間、幻覚が見えたような気がした。走り寄る柏木が藤堂に見えて、心拍数が上がった気がする。色んなことが一段落したら、この藤堂不足を早く補わなければいけないと本気で思ってしまった。
 柏木に気づかれぬよう、僕は重たいため息をついた。

「あ、でも、A備品なら鳥羽と峰岸も持ってなかったか?」

「まあ、そうなんですけど。会長はいまどこにいるかわからないし、鳥羽先輩も持ってはいますけど。ご両親が来ているところに割り込んでいく図々しさは、俺にないです」

 肩をすくめた柏木の視線を追えば、鳥羽は両親やほかの来賓に囲まれ談笑していた。少し前に自分も紹介をされたが、会社の社長をしているという鳥羽の父親は常人とはどこか違う貫禄というか風格があり、少し気後れしてしまいそうな人だった。
 そんな彼の周りでは様々な人が入れ替わり立ち替わり、挨拶を交わし名刺の交換をしていた。

「大人のお祭りっていうのは、こういう意味だったんだな」

 その光景を見ながら僕は思わず感心してしまった。

「そうですよ。色んな人が出入りするし、こういう時じゃなければ直接会えない人もいますからね」

「そうか」

 あの時は峰岸に大人のお祭りだからと言われ、そういうものなのかとよくわからないまま頷いてしまったが、今頃になってその意味を本当に理解した。午後から行われる懇談会の時間が短く、やけに昼休憩が長いのはこのためだったのか。

「先生、行きますけどいいですか?」

 呆ける僕に肩をすくめ、柏木はゆっくりと歩き出した。そのあとを追いかけながら、改めて創立記念祭かとしみじみした。

「なにか足りない備品あったか?」

 柏木の言うA備品とは、主に机や椅子などの備品を保管している備品室だ。このあとに必要なものは一通り会場に出されたと思ったのだが、まだなにかあったのだろうか。

「思ったよりもこのまま懇談会に参加する人がいるみたいで、椅子が足りなくなりそうなので少し足そうかと」

「そうか、だったら誰かに声をかけてくればよかったのに。神楽坂とか、野上とか」

 一つ二つ足りないわけではないだろう。それならばそれを運ぶ人手も必要だ。そう思いなに気なく名前を挙げたが、なぜか柏木は口をつぐんでしまった。途端に大人しくなった柏木に思わず首を捻ってしまう。しかし黙々と歩くその背を見つめ、僕もようやく気がついた。

「あ、野上となにかあったのか?」

「西岡先生」

 考えるよりも先に言葉にしてしまい、失敗したと思った。ゆっくりと振り向いた柏木の目が物言いたげに細められた。その恨めしそうな視線に僕はただ苦笑いを返すことしか出来なかった。

「悪い」

「別に、なにもないです。ちょっと避けられてるだけで」

「それって、なにもないって言わなくないか」

 思った以上に深刻そうな返事で言葉が続かない。創立祭の準備や進行で慌ただしく、そこまで気が回らなかった。一体いつからそんなことになっていたのだろう。午前中に会った野上は相変わらずの能天気ぶりだったけれど。

「わかってたことなんでいいんです」

「もしかして野上に言ったのか?」

「……」

「で、避けられてるのか」

 柏木が野上を好きだということは、生徒会の人間なら誰しも気づいていることだった。気づいていないのは当の本人だけだ。

「あんなにわかりやすい態度とってるのに、気づかないもんなんだな」

「普通、気づかないもんですよ。当人から見れば、世話好きな後輩に懐かれてるくらいの感覚でしょう。まさか男に恋愛感情もたれてるとは、夢にも思わない」

 自嘲気味に笑い、ため息を落とす柏木に言葉が詰まる。それと共になんだか胸の辺りにグサリグサリと刺さるものがあった。思えば自分にも経験のあることだった。確かに自分も、あの時はそこに恋愛感情があるだなんて夢にも思わなかった。向けられた感情や好意の内側にあるものに、まったく気づくことが出来なかった。

 渉さんに好きだと告白された時、冗談ではないかと思ったほどだ。彼は僕の中で友達以上の存在ではなかった。でもそれは渉さんだからというわけではない。例えばもしそれが身近にいる飯田だったり間宮だったりしても同じことだと思う。
 いままで異性しか恋愛対象と思っていなかった僕にとって、友人に告白されることは予想外のことだったのだ。だからそれを野上に当てはめてみても同じこと、受け入れられない拒絶はいわゆる普通の反応というわけだ。

「そうか、そうだよな」

 改めて考えると当たり前に感じ始めていた感情は、そうではないのだと実感させられた。いまは藤堂を好きだと大切だと躊躇いなく言えるが、告白されたばかりの頃はまだ同性同士の恋愛を他人事のように感じていた。

「西岡先生が気づいたのは、意外でした」

「え?」

「うちの生徒会は癖があるメンツが揃ってるんで、すぐバレたのは、まあ納得いくんですけど。西岡先生ってそういうの疎いかと思ってたから、正直驚きましたよ」

「そ、それは、あれだ。あんまり偏見がないと言うか」

 柏木の言葉に心臓が大きく跳ねた。

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